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エンジニアリングって面白い!!

 エンジニアリング部門の部門長を務めております高山大輔です。このnoteを通じて、私自身の自己紹介、私の経歴を通じて、「エンジニアリングの面白さ」、を皆さんに少しでも分かっていただけたらと思います。

 世界に憧れ世界で学んだ学生時代

 私は北海道名寄市で生まれ、5歳の時に福島県いわき市に引っ越し、青年時代の殆どをいわき市で過ごしました。小学、中学と公立に進み、高校は卒業後の就職率が高いという理由で国立福島高等専門学校、各学科の中でスケールの大きな仕事ができそうなイメージを持っていた建設環境工学科を選択しました。高専卒業後は地元の企業に就職という気持ちでいましたが、高専2年生の時にインドネシアからの留学生(ドニー)に出会ったことで考えが変わります。初めて身近な人間で英語を流暢に話す彼に衝撃を受け、英語を使えるようになる事で広がる世界にわくわく感を覚え、漠然と海外で仕事をしてみたい、と考えるようになりました。そのためには地元企業への就職ではなく”大学への進学”が現実的な選択肢になっていたわけです。ただ、当時は「留学=休学」が当たり前でしたが、何とか休学せずに海外で英語に触れる機会を持つことができないのか、と考えていました。高専4年時に出会った新任の先生(現在は福島高専 都市システム工学科 菊地教授)に、大学の実務訓練制度を利用して5か月ほどオーストラリア留学できる制度を持つ大学がある、と教えてもらった事が長岡技術科学大学を選んだきっかけでした。建設環境工学科からは土木と環境システムのどちらか一方の課程が選択でき、当時は土木よりも環境のほうが自分の肌に合うと考えていたため、大学では環境システム工学科を選択しました。

大学3年編入後にオーストラリアへの実務訓練制度について担任の先生に伺ったところ、学年で1年で1名しか行けない事実が判明、さらに、環境システム工学科の水圏土壌環境研究室(以降、水圏)に所属しなければならない、という条件付きでした。当時はインターネットで情報を入手する事、そもそも、そのような情報が公開されていなかったので、偶然選択した環境システムという学科でよかったと心底安堵したのを覚えています。しかし、水圏は人気が高いという噂、且つ1名しか行けないわけですから勉学に励みました。そして、大学4年時に何とか希望の水圏入りを果たします。オーストラリア留学への切符を手にした、と思ったのですが、勿論、私以外にも希望者がいました。結局、話し合いでは決着がつかず、最後はじゃんけんに自分の運命を託すことになります。結果、、、勝利(意思の強さを表現したグーを出しました)。念願のオーストラリア行き(5か月間)を勝ちとることが出来ました。ちなみに、実務訓練でオーストラリア留学できるかもわからないのに事前準備としてアルバイト代を叩いてイーオンという英会話学校に通ったりしていました。

オーストラリアではシドニー工科大学に交換留学生として博士課程の研究を手伝っていました。毎日繰り返される光触媒の実験の日々の中、3人の博士課程の学生と会話をすることで、3か月くらい経過すると徐々に意思疎通をとれるようになり、帰国時にはある程度英語を身に着けることが出来るようになっていました。ちなみに、水圏の原田秀樹教授(当時)から、「実務訓練の報告会はオーストラリア留学者は英語でプレゼンだからな」と命令を受けていました。教授は神様ですから大学4年の私に拒否できるはずもありませんでした。プレゼン対象は同期と先生方の99%が日本人で構成されています。そんな方々に英語のプレゼンをはじめるや否や、これまで感じたことのない凄い空気が漂い始めました。その空気感を無視してプレゼンを完了。質疑が英語で来たのはびっくりしましたが、何とか乗り切り教授命令を遂行した満足感に浸っていました。原田教授からは、「英語でのプレゼンは冗談だった」というショッキングなコメントをもらいましたが、神の一声がなかったら危機感をもって勉強はしなかったと思うので、結果オーライだったと考えています。

大学院ではインドに長期滞在できるという事で、発展途上国での下水処理のテーマを選択。このテーマは、インド政府環境省と水圏の国際共同研究。ガンジス川の最大の支流であるヤムナ川をきれいにするというヤムナアクションプランの一環で2002年11月から水圏の大学院生が交代でインドに常駐し、水圏が開発した途上国向けの下水処理システム大規模実証プラントのモニタリングをするもので、ハリアナ州カルナール市の下水処理場事務所の2階に寝泊まりをしながら実験を行っていました。流石に下水処理場のスタッフとは言葉が通じないので、英語とヒンディ語を話せるインド人であるハリオムをアシスタントとして雇って共同生活をしていました。それ以外にも見たことのない虫やよく天井から落ちてくるヤモリたちも一緒でした。臭い、汚い、冷暖房がないので夏は暑く、冬は寒い、というような日本では考えられないような劣悪な環境下で、総滞在日数約360日の間に、当時神経質だった私の性格は根本的に変わることになりました。ちなみに、インドに初赴任前にはA型肝炎/B型肝炎/日本脳炎/破傷風/狂犬病に対して免疫を付ける予防接種を2回ずつ行っていましたのですが、腹痛はカバーできていませんでした。腹痛で体調を崩した際に「1秒が長い」、と感じたのは後にも先にもインドでの滞在だけでした。

私の常駐していた下水処理場では、処理せずに川に放流することが日常茶飯事でした。そりゃ、ヤムナ河は浄化されず汚れていきます。未処理のまま下水を放流されてはDHSプラントの実証実験になりませんから、朝起きたら自分たちのシステムが稼働しているのか目視、稼働していなければ、稼働するように話す(ヒンディ語は無理なので筆談)、もしくは怒る、、しかし、インド人は微動だせず・・(ハリオムが説得を試みても無理でした)。結局色々と試して効果的だったのは、「話を良く聴き仲良くなる事」でした。下水処理場が止まっていれば、停電なのか、フィルターが詰まっているのかその他に原因があるのか現場に行き自分も確認する。一緒にフィルター掃除もするし、ポンプが壊れていれば部品を町に買いに行ったりもしました。日本だとシステマティックに即時対応できる体制が整っているのでしょうが、ここはインドです。日本の常識で彼らを動かそうなんて無理でした。彼らのリズムを崩さずに自分たちのシステムを稼働させる。そのためには話を聴き、一緒に動くこと。ちなみに仲良くなるために、一時間に1回くらいの頻度で発生するティータイムには必ず参加していました。超甘いので、飲まないことのほうが多かったのですが、同じ部屋の中で時間を過ごし、よくわからない雑談を一緒にしていました。

夕食は下水処理場に住み込んでいる家族に作ってもらっていました。
停電が頻発するので傍に置いている懐中電灯はリスク管理の一環。
下水処理場の上層部他と(インド人は結構距離が近く、肩をくみたがります。
歩くときは手を繋ぎたがりましたが、これだけは受け入れることはできませんでした。)

未処理放流の原因は、フィルターが詰まった、疲れた、理由は様々ですが、最も多かったのが停電です。停電によりポンプを稼働できず、「やむを得ず」未処理のまま下水を放流するのです。停電=電力不足と当時は考えており、海外 x 電力(エネルギー)で役に立つことはできないか、漠然と海外で働きたいと考えていたところに2度目の衝撃が走った瞬間でした。

このインドの実証実験は私で4代目となるため、DHSシステムの処理水質のモニタイングだけでなく新しい事にチャレンジしたいと考えていました。”長期間を通して処理水質が良好であることは示せている、それ以外に、何か出来ないのか”、と博士課程の小野寺先輩と日本とインドの距離を通じて日々試行錯誤していました。停電が発生すれば、すぐにシステムを再稼働するよう対応していましたが、ある時に”停電が多いなら、そのまま停止した状態にしたらDHSシステムはどうなるのだろう、仮に長期間停止してもシステムが生きていれば電力が不安定なインドに適しているといえるのではないか”、論文を漁っていると、先進国で導入されている下水処理システムを停止させて、その回復時間を確認している古い論文を見つけました。”この論文を参照して違いを示せることが出来れば、なおさら良いのでは”。しかし、数年にわたって連続運転を継続してきたDHSシステムが完全に壊れるリスクがあるため、小野寺先輩と慎重に検討、最後は勢いで実験を決行しました。

その結果、DHSシステムは我々の心配をよそに、再稼働後の数時間で処理水質を通常状態に回復させることが出来ることが確認され、インドの社会問題に対して適応可能なシステムであることを実証できました。実験結果を日本水環境学会で発表したところ、第41回の年会優秀発表賞(クリタ賞)を受賞、小野寺先輩は数年後に”Evaluation of the resilience of a full-scale down-flow hanging sponge reactor to long-term outages at sewage treatment plant in indea”という論文を世に発行しました。

貴重な経験をさせてくれた先生方へ感謝の気持ちとともに、「エンジニアリングx海外」で社会問題解決に貢献するという経験、社会問題に対してソリューションを提供するというエンジニアリングの醍醐味を味わった学生時代でした。

ちなみに、DHSシステムの実証実験は私が卒業した後も継続されトータル1800日の連続運転を達成、連続運転時間と処理水質の改善がインド政府に認められ、更なる大規模な実証実験がアグラで行われます。その後、インド以外の国々(エジプト、タイ、マレーシア)への展開されることになったそうです。

下水処理場の一室で実験中
研究室の仲間と受賞

エンジニアリングの最高峰:プラントエンジニアリング会社時代

 海外x エネルギーで働ける会社を探していたところプラントエンジニアリング業界に興味を持ち、私のインドでの経験に興味を持ってくれた千代田化工建設に入社することが出来ました。大学では環境システム工学を専攻し土木とは数年間離れていたので、大きな不安がありましたが、入社後の必死の勉強でカバーし、何とか適応していきました。 

千代田化工では約12年間を通して、複数の大型LNGの設計・調達・建設(以下「EPC」と言います)プロジェクト遂行(日本で設計後、海外の建設現場に赴任)に携わらせて頂きました。尚、海外の大型案件については、建設遂行まで達しないEPCプロジェクトも多数(初期検討や見積などで失注など)ありますので、非常に恵まれていたと感じています。

初の海外赴任 パプアニューギニアの大型LNGプロジェクト

国内プロジェクトの土木設計と建設現場管理を計3年ほど経験した後に、念願の海外プロジェクトに配属になります。初プロジェクトはパプアニューギニアLNGプロジェクトで土木設計を1年半ほど行った後に、自ら志願して2年半ほど赴任させていただきました。パプア赴任時は、会社を代表するフィールド土木エンジニアとして赴任するため、大きなプレッシャーの中、知識も経験も不足していたため、働く量でカバーして、がむしゃらに仕事に没頭している時期でした。自分が設計したものが建設段階で形になっていくという土木の面白さを実感し充実はしていましたが、現場で土木以外の部署の人たちと仕事をしていると、自分の携わっている仕事はLNGプロジェクトのほんの一部にしか過ぎないことを実感、また、経験を積み重ねたことで日々の仕事に対するチャレンジ精神が薄れ、物足りなさを感じるようになりました。土木工事の最盛期が過ぎたパプアへ赴任して2年が経過しそうなあたりで、本社の土木部長がパプアに出張に来たタイミングでプロジェクトor工事部門への移籍希望を伝えたところ、ちょうど現場のプロジェクト部門が人員補強をしているというタイミングとマッチし、土木からプロジェクトマネジメント部門へ移籍をします。プロジェクトの最後までという話も頂いたのですが、当時は会社のルールで最大赴任期間が2年半と決まっており、プロジェクト移籍後の半年後の2013年後半に帰任します。 

パプアニューギニアにて私の帰任をお祝いしてくれたパーティ。
この中の顧客だったラリー(一番手前の白髪ダンディ)とは帰任後も10年以上メールしている仲です。

極寒のシベリアで初のプロジェクトマネジメント

帰任後は、ロシアのヤマルLNGプロジェクトに配属になり、中国の天津、ロシアのサベッタでの赴任生活を経験しました。ロシアの赴任地はヤマル半島東部のサベッタと呼ばれる地域で、ヤマルは現地語で最果ての地を意味する場所、ロシアでも最も過酷な自然環境に置かれた地域であるそうです。パプアに赴任した時は、千代田で最も過酷な現場と揶揄されていましたが、サベッタがそれを上回りました。冬期の最低気温は零下50℃に達し、プラス極夜or白夜という環境はパプアよりも過酷な環境下でした。さらに、建設のピーク時はシングルベットが2つギリギリ入るくらいの狭い2人部屋。同居者は日本人以外にもロシア、フランス、イタリア、フィリピン、インドその他様々な国の人で、サベッタ入りする度に同居者も部屋も変わるというスリリングなものでしたが、心身ともに無事に生活することが出来ました。

ヤマルプロジェクトは年間を通して極寒ですので、サベッタでの工事を可能な限り少なくする、モジュール工法を全面的に採用したプロジェクト。巨大プラントを約150モジュールに分割して、アジア地区10か所のモジュールヤードで製作、サベッタに船で運ぶという壮大なプロジェクトです。記憶が正しければ、千代田が設計したもの中で最大のモジュールは1基当たり約7,000ton、大きさは30m x 30m x 30mくらいの巨大な構造物でした。私はプロジェクトのモジュール取り纏め担当でしたが、当時、モジュールプロジェクトの完工実績は無く、更に過去のLNGプロジェクトの常識を覆すほどの短納期でしたので、過去に積み重ねてきたやり方が全く通じず、やり方を変え、チャレンジすることを迫られていました。何度もプロジェクトチームvs技術専門部という構図で話し合いを行っていましたが、専門技術部がチャレンジすることに躊躇っていました。理由は、、「失敗したときの責任」でした。マネジメントも巻き込みながら、「プロジェクトチームで責任をとる、専門技術部に責任を負わせるようなことはしない」、と幾度となく膝を突き合わせて話し合い、社内が纏まりモジュールが形になっていきます。とはいえ、これまで受けた事のないプレッシャーに日々晒され続けました。事業者側も必死なので、特にサベッタに駐在中の顧客は机を叩きながら怒鳴ってくるのです。プロジェクトの重要な位置づけの工事に関して、「いつ終わるんだ?(“カクダ?”)」と聞かれると、「・・・明日(”ザフトラー”)」という以外の回答は認められず、怒鳴られる日々が続きましたが、少しでも早く終わらせるためにどうすればよいのか?と思考停止にならずに常に考え、ここでも「当たり前」のやり方を変えるようになります。そのような思考がプロジェクト関係者全員に浸透したこともあってなのか、世界最速の納期を達成しました。

肉体的にも精神的にも厳しい日々でしたが、一見、無理と思えることも、一度立ち止まって考えて、問題を分解、分析してみると意外と前に進んだりする。効率的なやり方ではないかもしれませんが、少しでも前に進める気概があれば出来ることは意外に存在するという事。何よりも諦めずに「やり抜く力:GRIT」を身に着けることが出来き、「エンジニアリングの凄さ、面白さ」を改めて実感した経験でした。

ちなみに、このプロジェクトでは、後にパシフィコ・エナジーで再会することになる素晴らしい3人の戦友との出会いがありました。そのうちの一人に至っては、パプアの現場でも同じ釜の飯を食った私の仕事人生で一番長く一緒に過酷な現場を生き抜いた戦友です。

パプアニューギニアの現場にて
サベッタにて”ザフトラー”を共にした戦友

日本で日本のために働きたい。パシフィコ・エナジーに入社

 千代田化工では、様々な国と人と一緒に仕事をし、世界に貢献できているという充実した気持ちはあったのですが、家族が生活する日本のために何か貢献できることは無いのかと考えるようになっていました。

そんな時にパシフィコ・エナジーとご縁があり当時のマネジメントから直接、再生可能エネルギー開発事業の話を聞いて、これだ!という第3回目の衝撃を味わうことになったのでした。

地球温暖化の問題が深刻であることは理解していたのですが日本ではどこか他人事のように考え、誰かが解決するでしょ、日本は大丈夫でしょ。くらいに考えていたものが、自分が生きている間、それより先の子供たちの将来のことを考えると、、本当に危機的な状況で、この状況を打破するような仕事に携わりたい、という強い思いに変わりました。

またプラントエンジ畑を歩んできた私にとって日本にはあまり大型の事業が無いいう先入観があり、ましてや再生可能エネルギーは小規模なものをイメージしていましたが、パシフィコ・エナジーでは大型の発電所建設に特化していたため、プロジェクトの規模の面でも満足感が得られるものでした。

幸運の女神には前髪しかない」、というどこかで聞いた言葉が脳内に響き、話を聞いた2-3日後には当時の上司に退職の意向を伝えました。そして、2019年3月からパシフィコ・エナジーへ入社しました。

パシフィコ・エナジーにおけるエンジニアリング部門の役割

 入社後は、グリーンフィールドから計画していく開発事業者のマインドセットへの切り替え、エンジニアリング全体の責任を持つ立場の責任の重さ、業務範囲の広さに戸惑い、また、太陽光開発のスピード感も全く次元の異なるもので食らいついていくのに必死の日々を送っていました。

様々な困難もありましたが、入社後2年で4件の太陽光発電所(合計で約360MW)を誕生させることに貢献でき、2022年11月にエンジニアリング部門長を拝命し、現在に至ります。

一般的にエンジニアリングは、「社会が抱えている問題に対してソリューションを提供する事」とされていますが、パシフィコ・エナジーのエンジニアリング部門の役割に落とし込むと、

安全、安心で安価な性能の良い発電所を生み出すために、既存の技術、会社(人)を組み合わせて最適解をプロジェクトごとに見つけ出し実現する事
と考えています。実現するには、調査、基本設計、メーカーや工事業者及びEPC会社の選定、EPC会社との契約締結(エンジニアリングの一番肝の部分で、EPC契約締結が”実現”の達成です)が必要です。

その一連のプレセスの中で私たちのチームが大切にしている事は、
1. 話をよく聴き、心配事を少なくすること(リスクを減らす)
2. 当たり前を疑う事(新しい事、変えることを恐れないでチャレンジ)
です。 

プロジェクトごとに存在するリスク(心配事)を特定し、事前にリスクへ対処しておく事が重要です。各プロジェクトに共通するリスクは事前に我々で調査することで対処できますが、プロジェクト特有のリスクについてはメーカーやEPC会社からよく話を聴くことが近道となります。

一つ例を挙げて説明すると、あるゴルフ場を事業用地としたプロジェクトで地質が過去案件よりも硬いだろうというリスクがありました。地質はどのプロジェクトでも問題視されるので、通例通り我々で事前に机上及び現地で地質調査を実施し、工事業者及びEPC手交しました。調査データからは、確かに硬めですが、事業用地の4割くらいは「ちょうど良い」地質のエリアも存在する事が判明したので、過去プロジェクト同様に工事業者やEPCのリスクを軽減でき、工事期間及びコストにも良い方向であると考えていたのですが、工事業者及びEPCが考えるリスクは軽減されませんでした。理由を掘り下げていくと、何十年も前にゴルフ場を施工した業者が「非常に硬くて苦労した」と話しを信じ、様々な理由をつけて、我々の取得したデータは否定されていました。工事業者及びEPCが懸念している箇所を追加で調査を実施等、リスク軽減に努めたのですが、平行線の議論が続いていました。ある時に、工事業者やEPCの懸念は、「ちょうど良い地質」で工事計画していても、実際の工事で「硬い」地質に直面したときに、工事のやり方(機械や材料)を変える必要があり、結果的にコスト高、時間も要するという事がわかりました。地質調査も完ぺきに状況を掴めるわけではないので、言っている事は分かります。手戻りが発生しにくいよう全て硬い地質の前提で計画を立てることで合意(リスクを受け容れた)しました。ただし、これまで工事業者やEPCと関係の深い下請け会社(当たり前)ではなく、新たに硬い地質工事が得意な業者を探し出し提案したことで、工期の短縮とコストの削減を実現しました。

リスクは回避、低減できるのが理想ですが、リスクを完全に回避できない場合でも、主体的に対処策を見つけ出し、リスクを受け容れつつ最善の結果を追求するという一例で、非常に細かいですがエンジニアリング部門の役割の一つです。

これ以外にもプロジェクトごとに様々なリスクがありますが、可能な限り早い段階でリスク特定し一つずつ対処していくことがエンジニアリング部門として確からしさを高めていく近道となります。早く問題を見つけて大きな問題になる前に解決できたときは非常にうれしいです。

と、格好いいことを言っていますが、どんなに石橋を叩いても上手くいかないことは多々あります。その場合は・・、可能な限り早く部門を超えたチームの団結力で火消しをするしか方法はありません。幸いにも、今のところプロジェクトを実現が出来なかったという経験はありませんので、ギリギリのところで対応できているのだと思います。これがパシフィコの強みです。

おわりに

 長々とここまでお付き合い有難うございました。私の経歴を通じてエンジニアリングの面白さを感じて頂けたり、これから進路を考えている若い世代の方々の参考になれば嬉しく思います。最後は私の再エネへの思いについてお話しさせていただければと思います。もう少しで終わりますのでお付き合いを。

私が育った場所である福島県いわき市は、皆さんもご存じの2011年3月11日の東北大震災で甚大なる被害を受けた地域です。地震時、父親は浪江地区で鉄道関係の仕事をしており、地震直後に建物の外に退避、退避した直後に建物が崩壊。危機感を強めた父と同僚はいつも使用する海岸線の道路ではなく、山側の道路を使用したことで津波を回避し幸運にも一命を取り留めました。また、津波による甚大な被害を受けた海岸沿いや原発によって制限を受けた地域は、子供のころに遊び場、妻と子供たちとの思い出の地でもあったので、12年経過した今でも私の中では記憶に新しく忘れられない災害です。

特に原発についてはだいぶ印象が変わりました。学生時代にチェルノブイリ原発事故について、原発って危険なのだ、と漠然と感じていましたが、東日本大震災で自分事になり、危険と隣り合わせの生活をしていた事に怖さを覚えました。

この災害がきっかけとなり、加速的に再エネ導入が進むわけですが、今では国内のパネルメーカーはほぼ撤退、EPC会社についてもFIT価格の下落とともに数が少なくなっており、プロジェクト実現の難易度が格段と上がってきています。

その中でなぜ我々は継続して開発を続けていくのか。それは、再エネが他の電源よりも「安全、安心で安価な電源」で、自国に降り注ぐ太陽光や風という自然エネルギーが燃料ですから、何よりも、発電時に二酸化炭素を排出しない電源なので地球温暖化対策に大きく貢献出来ると信じています。

 これからも、過去の開発時に培ってきた経験と変化を恐れないチャレンジマインドをもって、現在の子供たち、さらに次の世代のより良い世界のために、諦めず、焦らずに再エネの開発を続けていきたいと思っています。
どうも有難うございました。

私にとって3つ目に”実現”したプロジェクトで、グリーンフィールドから完成までを見届ける瞬間はいつも感慨深いです。


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