銭湯のガン見じいさん

去年の暮れ近くに引っ越しをして、ギリギリ23区に入っている北側のあたりに暮らしはじめて4カ月弱が経った。そしておれには、近所に名前を知っているような知人は一人もいない。
これは別に珍しいことではない。ただ、今回は、顔を記憶している人もまだ一人もいない。

去年まで住んでいた旧中川のあたりには、名前は知らないけれど挨拶といくらかの言葉を交わす相手はいた。ネコ情報を交換しあう地域ネコを可愛がる人たち。川の近くのお花を売っている八百屋さんや無料でパンの耳を振る舞ってくれるパン屋さん。ウォーキング中にときどき見かける人たち。
別にその人たちが懐かしいわけではないが(ネコたちは懐かしい! あー懐かしい!! 近いうちに様子を見に行こう。)、ただ、まったく人とつながる気配がないままなのは、少し、寂しい気もする。なんというか、少しくらいは、自分の住んでいる地域に「自分の街」や「ホーム感」を感じたいというか…。
いや、そこまででもじゃなくても「受け入れられている」というような、ほんの少しの安心感が欲しいんだろうな、きっと。

…というようなことは、まったく意識していなかった。ついさっきまで。

ケロリンって飲んだことある人いるのかな? あ。今日銭湯にいた人たちの中にはいそうだ。

マンションを出てまっすぐ5分ほど歩いたところに、古そうでも新しそうでもなく、派手でも地味でもなく、大きくも小さくもない、つまりほぼ特徴のない銭湯があることに先週気づいた。それまでに何度か前を通っていたはずだが、気づかなかった。それくらい特徴がなかった。
今日、ネットでざっと調べてみたら「清潔」「お湯は熱め」「リンプーやボディソープは無料で使える」と書いてあった。なんとなく広いお風呂に入りたくなった。まだ夕方も早い時間で、きっとそんなには混んでいないだろう。よし行ってみよう。

番台で金を払い中に入ったら、男湯には先客が2人しかいなかった(そういえば、番台にいたのは女子高生っぽい若い女性だった。とはいえ、番台と脱衣場は完全に分離されているので気まずはゼロだ)。
そんなに広いわけじゃないけれど、それでも、6人くらいが同時に入ってもそんなに気まずくない程度には広い湯船だ。よーし、せっかく来たんだしゆっくりするぞー。

しばらくすると、子ども連れのおじさんや、常連っぽいおじいさんたちが入ってきた。ん? 今入ってきたこのおじいさんはどうやら足が悪いようだ。ちょっと難儀な様子で白いプラスチックのイスと黄色いケロリン桶を手にして、ゆ〜っくりと洗い場に腰を下ろすと、据え付けのシャワーで体をざっと洗った。

そのおじいさんは、非常にゆっくりと湯船に入ると、足までびよ〜んと伸ばしてほぼ湯船の中に寝そべっているおれの顔をジーッと見た。目が合う。その表情は一切変わることなくおれの目を見ている。5秒経ってもまだ見ている。なんだなんだ、しょうがないちょっと微笑しておくか。え? まだ表情ひとつ変えずにおれの目を見続けているぞ。ど…どういうこと?
「ちょっと、あんた、シャワーのお湯が出しっぱなしだぞ。」先に湯船に入っていた常連っぽいおじいさんが、ちょっとぶっきらぼうな感じでガン見じいさんに言った。

「え。」そう言うとようやくおれの顔から視線を外したガン見じいさんは、シャワーの方を振り返り、「あ。」と言ってシャワーの方へ向かう素振りを見せた。
「ああ。いいよいいよ。今ちょうど湯船から出るところだから、おれが止めるよ。」そう言うとおれは洗い場へ行って、シャワーを止めた。
ガン見じいさんの方をチラッと見たけど、こっちは見ていなかった。

結局その後も30分くらいは出たり入ったりを繰り返しただろうか。トータルでたっぷり1時間は風呂を楽しんだおれは、脱衣場に置かれた椅子に座り、パンツ一丁で汗が引くのを待っていた。
「あ。まだいたのか。」おれよりも結構前に風呂から出ていたガン見じいさんが、1メートルくらい離れたところで服を着終えるところだった。
ガン見じいさんが、パン一のおれの前をゆ〜っくりと通り過ぎていく。
ちょっと目を伏せぎみにしていると、「ぁ」と小さく聞こえたような気がした。顔を上げて、ガン見じいさんの顔をそっと覗き込むと、その目はまったくおれの方に向けられることなく、真っ直ぐと出口の方に向いたままだった。

また来よう。

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