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行動変容の前に意識変更があり、意識変容の前に無意識変容がある

長いけど、ちょっと自分自身に驚いたので記録しておく。


一昨日、COVIDで延期していた緑内障の検査に大型病院に行き、そこで2時間くらい過ごしました。
久しぶりに人がたくさんいるところに長時間いて、そこで発見/再認識したのは、自分が人に「恐怖」を感じているということ。そして常に物理的な位置や距離、空調の流れを気にしている自分にちょっと驚きました。
一方で、病院職員の方たちや来院者の多くがおれとはまったく違う行動様式で、マスクこそしているものの互いに近くに座りおしゃべりしている姿は、おれには衝撃的でした。

自分にとってのポイントは、自分の反応がとても感覚的で、ロジカルに考えた上での行動ではなかったことです。生理的に怖さを感じそれをベースに行動していました。
そして振り返って思うのは、その「怖さ」を自分の中で無視したり、ロジックで「そうは言っても、それを続けていては社会は成り立たないじゃないか」みたいに自身を説得しようとすれば、きっと後からどこかでバランスを崩してしまうかも? と感じたことです。

おそらく、病院内ではマイノリティーだったおれ的反応(「頭でっかちな臆病者」的反応?)を示す人は、少数かもしれないけど一定数はいるんだと思う。
そしてこれが感性からきているってことは、「自分自身であることを大切にしよう」とか「Well-Beingを大切に生きよう」と思っている人こそ、今後、「密室で不特定多数(で飲食)」という感染症に一番近い行動様式に対して「恐怖」「嫌悪」というラベルを無意識に張ってしまうんじゃないかな?

今後、COVIDが落ち着いていくのと同時に、この感覚は少しずつ収まっていくのかもしれません。
でも、小規模なクラスタ発生を耳にするたびに、「密室で不特定多数(で飲食)」への「恐怖」「嫌悪」は意識の底に深く浸透していくんだろうと思います。

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特に結論じみたものはないです。
でも、行動変容の前には意識変更があり、意識変容の前には無意識変容があると思っているおれにとって、「以前の状態を戻そうとする」社会的な取り組みには、違和感というか「現状維持バイアス」や「大企業病」的ななにかを正直感じます。

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