黒澤明の名作「生きる」 カズオ・イシグロ脚本でリメイク


〜 “生きる”とは、人のために何かを創造することである 〜

黒澤明の名作「生きる」が、カズオ・イシグロ脚本でリメイクされたので、観に行ってきました。正直な感想としては、残念さが残るリメイク版でした。黒澤版で感銘を受けた、大事なセリフやシーンが、リメイク版ではほとんど描かれていませんでした。そして、黒澤版を改めて見て、やはり名作中の名作だなとしみじみ感じています。”生きる”とは何かという真理が、この作品に全て詰まっています。

*ネタバレあり
30年間無欠勤で役所に勤める主人公の渡邊は、毎日ただ時間を潰しているだけで、つまり、生きていない人生を生きていました。ある日、渡邊は自分が胃癌であり、余命半年だと知ります。自分が今まで、生きていなかったことに気づいた渡邉は、初めて仕事を無断欠勤し、貯金をおろして、“生きる”意味を探しに出かけます。しかし、思いつくことは、居酒屋で一人酒を飲むことくらい。そこで出会ったしがない小説家に、胃癌であることを打ち明け、人生の楽しみ方を教えてほしいと頼みます。小説家は、胃癌を宣告されて、初めて生きようとしている渡邊の姿に胸を打たれます。

「不幸には立派な一面があるというのは、本当ですな。つまり、不幸は人間に真理を教えるんだ。胃癌は、あなたに人生に対する目を開かせた。人間は軽薄なものですな。生命がどれだけ美しいのか、死ぬ直前になって初めて知る。あなたは立派です。たいていの人は、死ぬまで人生がなんだか知らないんだ。あなたは、この歳で過去の自分に反逆しようとしているんです。人生を楽しむことは、人間の義務ですよ。与えられた生命を無駄にするのは、神に対する冒涜ですよ。生きることに貪欲にならなければいけません」

伊藤雄之助さん演じる、小説家のこのセリフは、本当に真理をついていると感じました。人生がなんだか、多くの人が知らずに生きています。そして、主人公の渡邊のように、ただ時間を潰して生きてしまっているかもしれません。それでも、心の中では、みんな毎日を楽しみたい、生きたい、何かを成し遂げたい!と思っているはずです。

では、人生を楽しむとは?

渡邊は小説家に連れられ、人生で初めて夜の街を徘徊します。浴びるように酒を飲み、女性たちと交わり、歌って踊ります。10軒くらいはしごします。見ているこちらが飲み疲れしてしまうくらい・・・。
散々遊び呆けた結果、これが人生を楽しむことであるとは、渡邊には思えません。

翌日、道端で役所の若い女性社員の小田切に声をかけられます。辞表届にハンコを押してほしいと頼む彼女は、役所にいると退屈で息が詰まると話します。小田切は、天真爛漫で活気に満ちていて、思ったことは何でも正直に口にします。そんな彼女を見て、渡邉は彼女は人生を楽しんでいる、生きている、と感じます。辞表届にハンコを押した後、渡邉は小田切を食事に誘い、一日時間を一緒に過ごします。小田切は、よく食べ、よく飲み、よく笑います。最近の映画では、主人公がご飯を食べるシーンは少ないですが、小田切は劇中、本当にモグモグと美味しそうに食べるのです。夕食の席で、渡邉は、自分は息子のために人生を犠牲にして働いてきたのに、息子は少しもその恩を感じていないようだと、人に話したことがない胸の内をこぼします。すると、小田切は、

「でも、その責任を息子さんに押し付けるのは無理よ。息子さんがミイラになってくれって頼んだなら別だけど。親ってどこも似てるのね。うちのお母さんも、同じような理屈を言うのよ。お前が生まれたために苦労したなんて。そりゃ、産んでくれたことに感謝するわ。でも、産まれたのは赤ん坊の責任じゃないわよ」

小田切の真理をついた言葉に、渡邉はハッとさせられます。そして、「やっぱり息子さんが一番好きなくせに!」と笑顔で言う小田切に、渡邉も何か許されたような笑顔を浮かべます。小田切とよを演じる、小田切みきさんの演技が、本当に可愛らしく素晴らしいです。

小田切に勇気をもらった渡邉は、同居する息子夫婦に癌であることを告げようとするが、小田切との関係を勘違いした息子から、年甲斐もなく若い女と付き合うなんて!遺産や相続に関しては、事前にはっきりさせてほしい責められ、渡邉は傷つき、結局病のことを切り出すことができません。それからというもの、渡邉は小田切の後をつけ回すように、何度も食事に誘います。しつこい渡邉に小田切は、これで最後にしてほしい、正直気味が悪いと伝えます。確かに、ボソボソとしゃがれ声で話し、何言っているか聞こえづらいし、目をギョロっとして見てくるので、気味は良くないのです・・・
すると、渡邉は「君、わしはもうすぐ死ぬんじゃ!」とまた目をギョロっとさせて、胃癌で余命がないことを打ち明けます。

「き、き、君をみ、見ていると・・・ここ(胸)が、暖かくなるんだ。君は、若い健康で、ど、どうして、君はそんなに活気があるんだ。一日でもいいから、そんなふうに生きてみたい。そんなふうに生きて死にたい。そうじゃなければ、とても死ねない。何かしたい!と、ところが何をしていいか分からない。教えてくれ!」

と、小田切に迫ります。もう必死です。もはや怖いです。小田切と一緒にいることで、小田切のように生きられるのではと、生きている実感を得られるのではと、藁をもすがる思いで、小田切の後をつけまわし、答えを求めていました。
何かしたい!でも、何をどうすればいいのか分からない!この切羽詰まる気持ちは、死を目前にした人だけでなくても、どの時代でも、どの世代の人にも共感できる思いな気がします。

「だって、私ただ働いて食べて。それだけよ!あたし、ただこんなもの作ってるだけよ」

小田切は、うごくウサギの人形を取り出します。

「こんなもんでも作ってると楽しいわよ。これ作り始めてから、日本中の赤ん坊と仲良しになった気がするの。ねえ、課長さんもなんか作ってみたら?」

「もう・・・遅い・・・」

ただ一点を見つめて絶望に浸る渡邉を見て、小田切はどうしていいか分かりません。そこにはただ絶望しかありません。私なら、ただこの場から逃げたい!いい人だけど、この初老から離れたい!の一心だと思います。すると、いきなり顔をあげ、渡邉がニヤッと笑います。もほや、ホラーです。小田切も、思わず「わー」っと声を上げます。すると、渡邉は、

「いや、遅くない。無理じゃない。あそこ(役所)でもやればできる。ただ、やる気になれば。わしにも何かできる」

そう呟きながら、ハッピーバースデーの歌が流れる中で、足早に店を出ます。小田切の、「何か作ってみたら?」というアドバイスが、渡邉を開眼させます。渡邉の読みは当たっていました。答えは、小田切が教えてくれたのです。(身振り構わず小田切を追い回した甲斐がありました!)

役所に復帰した渡邉は、全ての部署からたらい回しにされていた公園作りの案件に早速着手します。不衛生で下水の匂いがひどい広場を、子供たちが安全に遊べる公園にしてほしいと、以前から市民の要求があった案件です。

そして半年後、渡邉は雪の中、完成した公園で最後を遂げます。

映画は、ここからが本番です。渡邉の葬儀は、集まった役所の同僚やお偉いさんで、いかにもお役所の固い雰囲気に包まれています。そこに新聞記者が押しかけ、あの公園を作った本当の功労者は渡邉さんだという市民の声が上がっていると追求します。取材に受けた助役は、それを否定します。葬儀の席に戻ると、公園の真の功労者は、渡邉さんという説があるが、それは役所のシステムを全く理解してない者たちが言う、全くのデタラメであると言い、周りに同調を求めます。責任は取らないけど、功績は自分のもの!という、まさに、だから日本はダメなんだ!という描写が結構長く描かれます。助役が席を立つと、残された同僚たちで酒盛りが始まります。果たして、議題は、公園を作ったのは誰か?お偉いさんがいなくなっても、みんな長年役所に勤めているだけあって、骨の髄までお役人です。あれは、渡邉の功績ではないと頷き合います。すると一人の役人が涙しながら「あれは、渡邉さんが作った公園です」と公言します。みんなそれに反論しますが、酔いが回ってくると、次第に、この半年間自分たちが見て、聞いたものを素直に語り始めます。あの時の渡邉さんは、すごかった。ひどい扱いされても渡邉さんは、怒ることなく、「怒っている暇は、自分にはない」と言っていた。もしかしたら、ガンのことを知っていたのではないか、などなど。渡邉は、この半年間、公園作りを実現させるために、一人で全ての部署と掛け合い、市民のために、子供たちのために、必死に役所という組織と戦ったのです。そこに、渡邉と一緒に戦い、公園作りを実現させた街の女将さんたちが葬儀に駆けつけます。
心から渡邉の死を悲しみ、悔やみ、そして感謝の想いを寄せて葬儀を後にします。人は、死ぬ時、こうして本当に誰かに悔やまれ、そして人の役に立たなければいけない、そう思わせるシーンです。

葬儀も終わりの頃、一人の巡査が公園に落ちていた渡邉の帽子を届けにきます。御焼香をあげると、巡査は渡邉が死んだ夜、公園のブランコで歌を歌う渡邉を見かけていたことを打ち明け、ただの酔っ払いだと思い声をかけなかったことに罪の意識を感じていると謝罪します。しかし、彼が見た時、渡邉はとても幸せそうだったと語りました。

完全にお酒が回った部下たちは、あれは、渡邉さんが作った公演だ!と認め合います。そして、渡邉の生き方を見習って、自分たちも明日から変わるんだ!と決意します。

そして役所には、また日常が戻ってきます。明日から変わる!と決めた同僚たちですが、市民課に回ってきた案件を、意図も容易く、土木科にまたたらい回しにします。酒に酔った時の決意だからではありません。人は、そう簡単には変われないのです。

人生を楽しむことが、人間の義務である。

人が生きる意味は、人のために何かを創ることである。

遅くはない、誰にでも今すぐできることがある。

人は、なかなか変われない。それでも、人は変わることができる。

ブラコンで歌うシーンが有名ですが、あの時本当に渡邉は人生で最も幸せだったのだと思います。自分が作った公園で、本当の自由を味わい、生きているという実感を得て、そこで一人死ぬことができたのです。

リメイク版の「生きる」では、主人公の、最後に一日でも良いから生きている実感を得て死にたいという切実な思いが伝わりにくかったのと、小田切の「課長さんも何か作ってみたら?」というあの大切なセリフが抜けてしまっていたのが残念でした。人は、ただ働いて食べるだけではダメなのかもしれません。人のために、何かを創造しなければ、生きていると言えないのだと思いました。そして、それは決して難しいことではないはずです。でも、それを難しく捉え、考え、行動していないのは自分です。

私も、毎日”生きたい”と考えています。
創造的な日々を送りたい。
でも、どうやって?何をすればいいの?

答えは、小田切の持っているウサギの人形にあります。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?