2022 週記13【創造】

男がスーツの内ポケットから、紙を取り出した。深緑のダブルスーツがよく似合う男は、胸ポケットに刺していたペンを持ち、四つ折りにされていたB5サイズのルーズリーフに、何かを書いている。
人生設計をするには唐突すぎるし、あみだくじを書くにしても、目的がない。
いったい何をしているのだろう、と不審がっていると、やがて書き終わり、紙面を私の方に見せた。

紙には、縦書きで、二つの文が綴られていた。

  • 石田の腹部には大きな腫瘍がある。

  • 病院に駆けつけた井上は、汗一つかいていない。

「何ですか、これ」
「君は、この二つの文章を読んで、何を思う?」
私はもう一度ルーズリーフを見る。
石田の腹部には大きな腫瘍がある。
文章はシンプルだが、見える背景は人によって変わるだろう。たった今、石田は腫瘍があることを知らされたようにもとれるし、普段から腫瘍と生活を共にしている石田の姿が思い浮かべられないこともない。生まれつき持っている腫瘍、という説も上がるだろう。
病院に駆けつけた井上は、汗一つかいていない。
おそらく、石田の一報を聞いて、病院に駆けつけたのだろう。そう考えると、最初の文の背景は、石田はついさっき腫瘍があることを聞いた場面、と捉えてよいだろう。汗一つかいていないのは、タクシーで来たからか、冷や汗一つかいてないということは、井上による計画的犯行だったのか。

「何か、怪しいにおいがします」
考えた末、これといった情景は浮かばず、文面だけから感じ取れるイメージをそのまま答えとして提出した。

「そうか。君には怪しく見えるのか」
男は、なるほどなるほど、と右手を顎にやり、唸っていた。
何の実験?と聞くタイミングを失い、考え込む男の姿を見つめていたら、その視線に気づいた男は、少し戸惑った顔をした。
「顔に何か、付いてるかな?」
「いや、何をさせられたんですか?僕は」
「文章の曖昧さについての話だよ」
男は説明を始める。

二つの文章が続けて書かれていると、その二つには関連性があるのでは、と疑ってしまう。それぞれの文に、関係性の近い言葉があればなおさらで、脳内で勝手にストーリーが浮かび上がってしまう。
実際、紙に書いた二つの文は、今思いついた適当な文章を書いただけで、そこに関係性も親和性も因果関係も何もない。しいて言うなら、同じ人間の脳内から湧き出た言葉、というだけだ。
しかし、読むという行為は、ただ文章を目で追うことではない。評論文なら著者の考えが、小説なら風景や行動が、文章の奥に見えてくる。
それはなぜか。小説も評論文も、一つ一つの文章は数十文字程度だが、それを積み重ねて一つの到達点に向かうからである。
例に、有名な日本の推理小説「十角館の殺人」というのがある。
ネタバレだが、この小説は、終盤にあるたった一行、その一行が、今まで読んできたその本の世界をがらりと変える。これができるのは、著者のたぐいまれなる才能はもちろんのことだが、読むという行為に元々備わっているものが関係しているだろう。
時間というのは不安定なものである、と記憶している。どんな記録機器があっても、過去を確認することは叶わない、という話をどこかで聞いた、あるいは読んだ、または見た。
読んできた文章を覚えていたとしても、本当にそう書かれていたかどうかを確認するには、もう一度、同じ部分を読まなければ、確認した、とは言えない。
この記事の始まりの文章はなんだっただろうか。「恥の多い生涯を送ってきました」だったか。いや、「男はくしゃくしゃのコピー用紙を取り出した」だったか。はたまた、ここがこの記事の始まりなのか。
答えは、始まりまで戻れば分かる。しかし始まりまで戻ってしまえば、この問題の存在は霧へと変わる。靄がかかった疑問の輪郭は、ここを読んでいるときだけ、やっと鮮明に浮かび上がる。

男は万年筆のキャップを閉め、胸ポケットにしまった。
ルーズリーフには、

・石田が爆弾を抱え歩いている
・疲れて帰ってきた杉田には、失うものがない

という2つの文章が記されている。先ほど男が突然書き出したものだ。
この文にはどういう意味があったのか。たしか、文章の持つ不思議なエネルギーについて話していたんだっけ。
男は群青色のダブルスーツに身を包み、取り出したアメリカンスピリットに火をつけている。ボタンが木製で、チャーミングな印象を覚える。
「腰を振る、ホックを外す、財布のゴムを確認する。どれもいかがわしい印象はあるけど、放送禁止用語ではないんだよ。それぞれの句に分けたら、まったくピンクじゃないからね。しかし、こういった言葉が入った曲は、音楽番組で披露されることはない。これが言葉というものの面白い点だと思うんだ」
静かに話しているが、心の奥では大きな炎が揺らめいている、のが分かる。
「君の番だよ」
男はマイクを私に渡した。液晶には「フェイク Mr.children」と書かれている。十八番だ。
カラオケ?さっきからずっといた場所だというのに、今初めて訪れたかのようだった。何が起きているのか分からなかったが、それよりも、好きな歌が歌える歓びの方が勝った。

歌い終えたころに蛍の光が流れ始めた。今はもう、何かを始めようとしたって無駄だ。蛍の光が流れているとき、その地区には、始まりが現れない。ルールではないが、そういう原理なのだ。
男はカップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干し、コートを羽織って去っていった。丁寧に、千円札を置いていく。会計しておいてくれ、釣りはいらない、ということだ。
私も勉強道具をカバンに詰め、席を立つ。顎に付けていたマスクを、鼻まで上げる。
口が閉じ込められ、吐息が鼻に返ってくる。コーヒーの渋い香りと、何かを火に通したかのような焦げたにおいを知覚し、たばこだ、と分かる。
男から一本貰った。そんな記憶は全くないが、それしかない、と確信する。

結局勉強は出来なかった。
この調子で、果たしてこれからも大学生のままでいられるのだろうか。

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