週記  【ごはんだよ】

近頃全く顔を合わせなかった男は、暑い日差しの中、前と変わらない厚手のスーツ姿でドアベルを鳴らした。どこかの死神のように暑いという概念がないわけではないらしく、粒の汗を顔中に垂らしながら向かいに座る。
「我々は架空の世界に生きている。創造主が新たな私を生み出さない限り、私の時間はそこで止まってしまうんだ」
男はびしょ濡れのジャケットを脱ぎながら言った。なるほど、どおりで私もこんな時期なのにパーカーを羽織っているわけだ。


店内には「ペット入店禁止」の張り紙はない。
「そんなの貼ってたらキリがないだけなんだ。当たり前のことは言われなくとも守るべきなんだ」
男は隣のテーブルに居座っているペットを連れた客にも聞こえるように言った。
するとその客は突然立ち上がり、リードを手に取り歩き出した。かと思ったら私たちの席の前で止まる。
怒ってる。と思い少し身を引き締める。しかし顔を見ると、客は少し嬉しそうだった。
ペットを連れた彼は、白いTシャツに紺のジャージで、ビーチサンダルを履いていた。髪型もさっぱりしており、「夏休み中の大学生」の肩書きがぴったりだ。
「あなたたち、これが見えるんですか」と感極まった声で尋ねられ、若干のけぞる。
男は、彼が持つリードの先を見て言葉を失っていた。



「フィクションですよね。こんなペット」
彼が抱いているペットは、 見すると赤毛の犬に見える。K大学の 回生らしい彼はそのペットを『モンスター』と称しており、よく見ると尻尾がネズミのように細長かったり、パグのような鼻なのにダックスフントのような耳をしていたり、犬種がなんなのか、そもそも犬なのかどうかも怪しい。
「特定の人にしか見えないんですよ、こいつ。俺の家族も見えないみたいだし、この店入るときも『お 人様ですか?』としか聞かれなかったし」
最近になって禁煙が解除されたような喫茶店だから、ペットを連れたまま入店しても無問題なのだろう。何から何まで怪しい人と獣だったが、信じることにした。
「つまり、僕たちにだけ見えてて、店員さんや他の人には、この生物が見えないということ?」
「はい。その通りです」
「家族に内緒で飼えるのか?」男が尋ねた。
「大丈夫ですよ。向こうは見えてないですから」彼は答えた。
「でも、ご飯とかは?何食べるか知らないけど」今度は私が尋ねた。
「それも大丈夫なんです。こいつ飯に金かかんないんですよ」



聞くところによると、彼の買っているペット『モンスター』は人間が食べるようなご飯やペットフードを食べないらしい。
「こいつは『数字』を食うんです。この世のもので食べられるものが『数字』だけなんです」
会話や表現の上で使われる数字を食べる、という何が何だかわからないことを言われ、私は眉間に皺を寄せる。 方、男は要領がよく、大学生の言っていることを瞬時に理解し、私に教える余裕まであった。
「例えば、君は今、何歳だ?」
「えっと、  歳です」と発した直後に、今の発言に違和感があることに気づいた。
「今、君が発言した数字を」
「こいつが食べました」大学生は抱えたペットを指差した。



大学生は困っているようだった。
「こいつ、日に百は食わせないと、空腹のせいで乱暴になるんです。飼い始めた頃はなんとか達成できてたんですけど、最近はなかなか難しくて。見える奴の発した数字しか食えないから、俺だけで毎日百食わせるの、超しんどいんですよね」
「あれ?今、百って…」言ったのに、食べられてない?
「あ、そうなんです。百以上の数字は食えないんですよ。俺も色々試してみたんですけど」
他にも、文脈にそぐわない場合や、ダジャレで出た数字などは食べられないそうだ。
「今日だけでも良いんで、協力していただけませんか?」
喜んで、と僕が言う前に、男が「もちろんだ。私は何よりも 期 会を大切にしたいからね」と答えた。男はこの不可思議な出来事を楽しんでいる。



協力しろ、と言っても文脈にそぐわない発言は除外されてしまうため、僕たちはただ他愛のない会話をするしかなかった。
中でも男は、誰よりも数字を出すことに注力していたが、「ク労するなあ、その生活は」だったり「こんな生き物は珍しい。正に値千金だ」と、百を超えた数字やダジャレばかりを繰り出していた。
にしても、ク労は陳腐だ。


会話の中で何気なく数字を出すのは意外に難しいものだった。話題も底をつき、皆の口数も減っていく。
日は傾き、沈黙の時間が続いた。
もうだめだ。万策尽きた。   手を試してみたが、一つも数字が出てこない。


あれ?


一つ、と言える。食べられるはずの、一つ、が、食べられずにここに残っている。
同じ時、モンスターは大きなあくびをした。そこで、大学生が感嘆の声を上げた。
「こいつがあくびをしたら、ノルマ達成の合図なんです。つまり、百まで出せたってことです」
本当にありがとうございます、と大学生は頭を垂れた。



大学生は感謝の文言だけ述べた後そそくさと店を去った。
ただ、私は違和感を感じていた。男も同じだったようで、「本当に百も出せたのか?」と聞いてきた。あくびした時、誰も喋っていなかったぞ、とも言った。その通りだ。
「そうですよね。僕も、万策尽きたな、僕らも四十八手を試して……あ」
「四十八」男は呟き、頷きだす。腑に落ちたのだろう。
「君の思想一つで半分も埋めたというわけか。つまらないな」男は悔しそうだ。






「いえ、だとしても足りないはずです」
「なんだ。悔しがって終わるのはオチとして傑作ではないが、悪くもなかっただろう」
「四十八手、一期一会、二十歳、その他を含めても、まだ少し足りない気がするんです」
「気がする、だけだろう?それは、気のせい、だ」
「そうなんですかねえ」
訝しんでいると、男は煙草を消しながら、この世は、と語り始めた。
「現実とは違うんだ。似て非なるものなんだ。創造主が作った世界に我々は居座らせられてるんだ。どんなに予想外でも、都合の良い原理があっても、我々は従うしかない。架空の世界において必要なのは『それっぽさ』と『名言』だけだ」
それに、もしかすると我々の分かりうる範囲を超えたところに答えがあるかもしれないぞ、と言った後、男はクリームソーダに手をつけた。上に乗ったアイスクリームはもうビチャビチャになっている。

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