週記30【少年時代】

「今日は身軽そうだ」
男は席に着くなりそう言った。
「はい。夏休み入ったんで」
いつもは、プリント一枚の余白もなさそうなほどパンパンに詰まった大きなリュックを隣の席に置いている。しかし今日からは余白のある小さなリュックで喫茶店に通うことができる。

「そうか、大学生はこの時期から夏休みなのか」
男は薄手のジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿で扇子を仰いでいる。暑いなら上着なんて着ない方が良いでしょ、と諭すと、そういうことじゃないんだよな、と叱られた。
「夏休みって、いつまであるんだ?」
「僕は9月の末から後期が始まるので、その辺までですね」
「長いなあ。噂には聞いていたけど、本当に長いんだな」
大学生の長期休みは、他の学生より長い。
社会人になれば長期休みなんてないのが普通なのだから、その前段階で急に年に何度も2か月弱の休みを設けられても困る、という気持ちもあるが、最後の学生生活を休み多めにしてくれてありがたい、という気持ちもある。割合はちょうど半々だ。


「君はこの夏休みで何かを為そうという気はないのか?」
男の表情は怒りと呆れが少しだけ混ざっていた。休みを休みとしてしか見ることが出来ない者を蔑む目だろうか。
馬鹿にされては困る。
「もちろん、ただダラダラして一か月半を過ごすわけじゃないですよ。やることはやります。勉強したり、就活だって考えてますよ」
そう答えると男の表情は和らぎ、安心してくれるだろう。と思っていたが違った。

むしろ男が放っていた負の感情は強くなり「そんなことをしようとしているのか。笑わせるな」と、説教モードに入ってしまった。
「大学生の夏休みこそ、やりたいことが出来る大チャンスなんだ。もし君が、望んで勉強したり、就活したりするのであれば咎めることはない。でも、その言い方じゃ、君は不本意でそれらをやろうとしている。それじゃいけない。それなら朝から晩まで連日遊びっぱなしの方が、素晴らしい」
長期休みの一番愚かな使い方は、休まないことだ。一番賢い使い方は、やりたいことをやることだ。


男は煙草に火をつけ、「とりあえず教えてくれ。君は今、なにがしたいんだ?」と尋ねた。
「・・・デート」
「デート?君、もしかして、彼女いたのか?」
「いえ、いないです」
「なんだ、びっくりさせるなよ」
「別に変じゃないでしょう、僕に彼女いても」
「君はいないよ。いるわけがない」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「男としての魅力が全くない」

即答された。
僕は、その答えの速さと内容の強さに相当なダメージを食らってしまい、しばらく黙り込んでしまった。言葉が出てこなかったのだ。
見かねた男が「じゃあまず、男を磨くところから始めるか。付き合うよ」と言った。
「目標は夏休みが終わるまでに彼女を作ることだ。今日から少しずつ、頑張ってみよう」
「いや、いいんです」僕はせっかくの誘いを断る。
「正直、デートってのは嘘です。男磨きは、好きな人が出来てから頑張ります」
そんなことより、と僕は続ける。男は不服そうだった。せっかく自分が提案したものを簡単に蹴られたのが気に入らなかったのだろう。


「僕は今、空想科学部の時間移動学科というところで勉強してるんですけど、最近それより別のことに興味が湧いてきたんです。空想科学部というのは、映画とかのSF作品を科学技術と照らし合わせて、現実の世界と融合させるための学部なんです。だから教材として映画をたくさん見る必要があるんですけど、最近見ている映画が、SFプラス現代社会みたいな作品ばかりなんですね。そのおかげで最近、現代社会のこと、全然知らないんじゃないかって怖くなってきて。やっぱり、今の世界のことも知っておくべきじゃないですか。だから、社会のことについて勉強しようかなって思います」

学びたいことについて学ぼう、と思えるきっかけをくれた男に感謝の言葉を述べようとしたが、男は煙草の火をつけたまま眠ってしまっていた。
人差し指と中指が火傷しそうだったので、すぐにたたき起こす。
「そうか、結局は学びたかったんだな。それなら、大いに学ぶがいい」
「ちゃんと聞いてたんですか」
「一応ちゃんと聞いてた」男は目をこすりながら答えた。


貴方には夏休みってあるんですか?目の前の男に尋ねたかったが、言えなかった。
しかし男は恐ろしいほど察しがよく、聞かずとも答えてくれた。
「夏休みはない。でも、大学生より暇な日は多い。勿論、稼ぎの方も」
私への謎が深まるか?男は煙草をふかしながら、不敵な笑みを浮かべる。
「そうですね。あなたは一体なんなんですか」
コップに入った氷がカラン、と音を立てた。


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