週記35【フィルム】


「映画館でスマホ開く奴って何なんでしょう」

SNSで散々異議を申し立てられているはずなのに、いまだにその数は減らないように見受けられる。
自分だけが覗く画面は、周りにも光を発している。その光が他人のストレスと化していることに気づいていない。スクリーンよりも眩しいそれをスルーして映画を楽しむことは難しいし、それだけのことをしている自覚もない彼らには、怒りとも違う、呆れを感じている。

グレーのスーツに身を包む男は、いつもと同じアイスコーヒーを口に含み、僕の主張を聞いていた。
一通り述べられたことに、少し爽快感を覚えたころ、男は口を開き始める。
「確かに、私もその人たちの気持ちは理解できない。映画鑑賞を趣味や生きがいにしている人は多い。そしてそれはおそらく世の常識だ。上映中にスマホを開くという行為はその人たちへの冒涜だと思うし、なにより、『自分は映画鑑賞を軽んじている』という意志表示にもとれる。しかもその行為はエンドロールが流れている際によく行われる。ほぼ暗闇となった空間で余韻に浸ったり、スタッフロールに目を通している人にとって、迷惑でしかない」
だが、と男は語調を強くする。
「映画好きの人たちは、そのことをSNSに投稿しただけで満足してしまう。目の前に張本人がいるのに、そこでは無言で、自宅に着いてからネットの空間で声を荒げる」それだと彼らはずっとその行為がもつ罪の重さに気付かないままだ。男は机の上に置いていたシガレットケースから一本取りだす。
「ネットの空間は広い。それは良い点でもあり、悪い点でもある。必ず見てほしい人に見てもらえるほど甘くはないんだ」
つまり、迷惑な人には面と向かって迷惑だと発言する。そうしない限り彼らは分からないし変わらない。そう言い、男は煙草に火をつける。

言っていることは正しいし、そのことに多少腹は立つが、かと言って直接言うのも気が引ける。
僕がそれを伝えると、男は、確かにそれは難しい、と僕の考えを受け入れてくれた。
「でも、それしか方法がないんだ。一度別の方法を試してもみたんだが」


男は以前、同じく上映中にスマホを光らせる観客に苛立つ同志を三人集め、どうすればこの迷惑行為を減らせるか考えた。
「その結果、館内で一芝居打つことにしたんだ」
男を含めたその四人は、ある日の映画館で横一列、並んで映画を鑑賞した。
日曜の昼間、多くの若者が観るような恋愛映画を観たらしい。四人の平均年齢はそれなりに高く、女性は一人のみ。前の方の座席を確保したため、上映前から少し浮いていたのは目に見える。
「本編の間は何もせず、ただ鑑賞していたよ。くだらない恋愛映画とはいえ、観たくて来ている人もいるだろうからね」僕は、くだらないは余計ですよ、と訂正する。
芝居が始まるのはエンドロールが流れてからだ。一番右端に座る女性Aさんがスマホを開く。その左隣に座る男が、Aさんに話しかける。
「これで、迷惑なカップル客が一組完成した。カップルにしては少し年齢差があるんだが」
ここで大切なのは、一般的に迷惑とされる客よりも、少し迷惑度が高い人を演じること。他の本当に迷惑な客に「人の振り見て我が振り直せ」をさせるためだ。男とAさんは、小声より少し大きい声量でひそひそ話を始めた。
その後、エンドロールも終わり館内が明るくなる。観客達が、席を立つ直前の一瞬、男の左隣にいたBさんのカチンコが鳴る。
Bさんは大きな音を立て席を立つ。そして右に座る男とAさんに説教をたれる。映画を観てる人の迷惑だろ、エンドロールが観たい人もいるんだ、君たちがやっていることは映画への冒涜だ、といった旨を、場内に言葉が伝わる、しかし場外には聞こえないほどの声量で叱る。男とAさんはBさんの説教を受け止め、謝る。
「こうすることで、館内の客は気付く。上映中のスマホや、おしゃべりは迷惑だったのか、と。こうやって、知らなかった加害者を減らすことが、純粋に映画を楽しむための近道だと思ったんだ」
「一応、聞きますけど」Bさんの左隣にいたはずのCさんは、何の役だったのか。
「Cは、補佐だよ。予定外のことがあった時に、場を丸く収めるための人だ」
「別にいらなくないですか」
「まあしょうがない。Cは演技がべらぼうに下手だったんでね」

後日、男は一人で映画館に行った。年の差カップルの男性役を演じた、例の映画館だ。
平日の夕方。人はまばらだが少なくもない。一番後ろ、真ん中の席に腰を下ろすと、右前方に見たことがある姿二つがあった。例の恋愛映画を観たときに、男のすぐ後ろに座っていたカップルらしき二人だ。

「我々の作戦は失敗だった。人の振り見て我が振り直せ、とは言うが、他の人の振りまでいっていなければ我が振りは直さなくていい、という考えを持つ者もいることを知らなかった」
男曰く、映画本編は良かった。内容も、カップルの鑑賞態度も。
肝心なのはエンドロールだ、と思っていると、右前方からまばゆい光がこぼれ出した。
それは、さらさらとした髪を肩まで伸ばしている女性の、左腕が灯す光だった。
また、カップルの迷惑行為は聴覚にも支障をきたした。囁くような音が、男の耳まで入ってきた。
「我々はスマホの光、小声より大きな声で迷惑をかけた。それなら、スマートウォッチの光と、囁き声なら迷惑にならないだろう、と考えたんだ、あのカップルは」
男はその事実に愕然とし、上映後、他の客がいなくなるまで席を立つことが出来なかったらしい。

「あと、一芝居打ったところで、次に映画館に来る人は全くの別人ばかりだ。その人たちにも寸劇で分からせる、なんてやってたらキリがない」
よって、迷惑な客にはその都度言って聞かせるしかない。男は短くなった煙草をもみ消す。


今日はいつもより空気が悪いな、と思ったのは勘違いで、前を見れば男がずっと僕の方に煙を吐いているだけだった。僕の周りの空気が副流煙でいっぱいなだけだ。
僕は少し恥ずかしくなりながら言う。
「あの、こっちに煙吐くのやめてもらえますか。迷惑なので」
「そうだ。そのいきだ」男はにやりと笑いながら左を向いた。

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