貫伝松『芸術社会学』(1954)

目次
第一章 自然、社会、人類(p.1-pp.14)
第二章 芸術社会学の形成(p.15-pp.38)
第三章 芸術社会学の形成(p.39-pp.53)
第四章 芸術社会学における儀式と演劇(p.54-pp.92)
第五章 音楽と社会学(p.93-pp.144)
第六章 芸術社会学論(p.145-pp.209)

※本稿では第一章から第四章の要約を掲載する。

第一章 自然、社会、人類(p.1-pp.14)

 元来、自然・社会・人間は相互に密接に結びついている。社会の存在せざる自然はあっても、自然の存在せざる社会はなく、それゆえ社会は、自然の変化に呼応して変化するものである。人間はこれまで氷河時代に代表されるような環境の変動に適応しながら、社会的な動物としての営みを続けてきた。この先人間を待ち受ける危機は、太陽の巨大化に伴う地表温度の上昇であり、一千万年後に100度に達すると予測される。
 しかし今、人間にとっての危機は別のところに迫っている。科学の発達により出現した、原子爆弾の存在である。社会的所産である原子爆弾が自然よりも先に歴史を終焉へ導かぬように、われわれは、社会内容の根本、つまり社会の混乱や思想の対立を発生せしめた原因について考える必要がある。

第二章 芸術社会学の形成(p.15-pp.38)
(芸術における社会学的考察)

 エリック・ギルによれば、芸術はすべての「造る」営みを包含しており、造られたものすべてが芸術となる。芸術をつくるうえで必要となるのは、観念、材料、道具、意志、手腕である。すなわち、何らかの意識のもと、必要となる素材をあやつり、目的をたしかに実現させることができたならば芸術が達成される。芸術という言葉が「技術」という言葉に端を発するように、芸術家は、自らの有する観念を適切に表示する能力(技術)を有していなければ芸術家たりえない。 
 芸術において重要なのは目的の性質である。何を造るべきか、ということだ。バッハの宗教的抽象的音楽にせよ、ピカソの絵画のように抽象の世界に入ってゆくものにせよ、いずれの芸術も時代性的であり、社会的所産である。したがって、芸術は社会環境の条件のあり方に生起され左右される。ゆえに社会の本質、歴史的発展、その構造や情勢を十分に理解しなければならない。享受者なき芸術は無価値に等しく、芸術は社会のためであることが望ましい。 
こうした芸術は「表現」であると同時にマスコミュニケーションの性質をもつ。本多顕彰(ほんだあきら)は「芸術の技巧は、本来はこの伝達の技巧であるべきであって、芸術家が己れの趣味からこの技巧を弄び、伝達を忘れ技巧に淫するのは我儘であるばかりではなく、芸術の何たるかを知らず、技巧の何たるかを弁えないという非難を免れることはできない。」と言う。自身の属する社会の一成員としてその社会意識に対して逸早く目覚め、敏感にして強く社会的関心に突入できる者が、大芸術家たりえる。

第三章 芸術社会学の形成(p.39-pp.53)
(映画芸術の社会化性)

 映画は心的相互の機関として重要な役割を果たす。写真として機械的な技術的性能と、その対象が自然の環境においては与えない効果を与える、創造的芸術の性能との結びつきによって、社会的作用を営むものである。ここにおける社会的作用は映画の要求される目的に応じて異なるが、対象の文化性に依存するという点は変わらない。
 映画は大衆的であることが望ましい。徳川時代に生まれた文学や劇がそうであったように、芸術は一般庶民にも理解されるべきものである。フィリップ・ミラーは言う。「映画は大衆の精神的未熟を考慮することによって、すなわち極めて幼稚なものにも適するように思考や言葉を準備することによって、映画は第1位の社会的幸福であることを証明している。なぜかと言えば、これによって映画は精神的に恵まれない大衆にも享楽が得られるようにしてやるからであり、さもなければ永遠に彼らに閉ざされているに相違ないような知識や体験を与えるからである。」
 多くのアメリカ映画がハッピーエンドであるのは、大衆観客に対し、悲劇的な生活感情を与えずに、絶えざる社会的理想観を与えるためである。換言すれば、開拓精神の陽気な人生観と正義感の勝ち誇った楽観主義に適応しようとする社会的環境があるのだ。ニーチェやショーペンハウアーが唱えた悲観主義は、アメリカ国民には無用である。「キープ・スマイリング」の精神もまた、楽観主義哲学に由来している。
 機械的発明である映画は芸術家に対し、機械に対する反感と恐怖をもたらした。しかし映画は個々の写真を材料にして芸術家の意のままに自由に組み立てられうるものであり、精神の創造の領域が維持されている。したがって、映画は機械的であるがゆえに芸術ではないとする批判は不十分なものである。
 映画は絵画、彫刻、写真、建築などが表現し得た空間的世界像を包含し、文学、音楽が到達し得た時間像を凌駕し、多面的な演劇をも自己の領域に積み込むところの豊かな想像である。
 社会的所産である映画はアメリカやソヴィエトの例からわかるように、政治経済体制のあり方によって異なる役割を担う。ただいずれにせよ、世界人類生活の幸福のために演じるという本質は一にしている。

第四章 芸術社会学における儀式と演劇(p.54-pp.92)

 ハリソンによれば芸術の根本には、宗教、原始のかたちでいう集団的社会的情緒がひそむ。ひいては、芸術の根底にあるものは、希求する対象もしくは行為を表現すること、造ること、行うこと、もしくは増幅することによって、胸中に深く感じられている衝動または願望を吐露して発表しようとする意欲である。
 フーチョル土人やギリシア人のそれを見てわかるように、儀式は情緒を再現しようと欲する、自然の模倣である。すなわち、ある感情が衰退し忘れられてしまったときにおこなわれる真似である。
 一切の芸術は人生への緊張した情熱から、儀式の道を通って発してくるのであって、芸術鑑賞の力さえ、見物人におけるこの情緒的現実を必要とするのである。トルストイは言う。「現代における芸術の使命は、人間の幸福が彼ら相互の結合にあるという真理を、理知の領域から感情の領域に移すことに考えられている愛の国を建設することにある。」
 芸術的感動と宗教的感動の違いは、伝達する必要性の如何にある。宗教的感動は人間が一人一人別々に没頭する神秘的境地にある一方で、芸術的感動は無意識のうちに公衆、社会のために作用する。

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