「ゲートタワービル」とTonちゃんの思い出

*ゲートタワービル』とTonちゃんの思い出《過去ログの抜粋》

■Tonちゃんの思い出①

『ゲートタワービル』について、いたく感激?して「手塚治虫さんに見せたかった」と書いたサイトがあった。

手塚治虫さんを意識して建てたかどうかは分からないけど、『ゲートタワービル』のオーナーTonちゃんは手塚治虫さんの旧制中学の後輩で、ぼくとは高校・大学時代の友人でした。(2006年逝去)
毎年天神祭りが近づくと、ちょっと得意気な人懐っこい笑顔を思い出します。

◆天神祭 「篝 (かがり)」について
阪大の先生の協力で船の篝をプロパンに置き換えたと、読売新聞に紹介されていた。

■Tonちゃんの思い出③

『ALWAYS三丁目の夕日』が、昭和33年(1958)の物語なら、これはその3年後、ぼくは社会人1年生。
毎朝、眠い目をこすって「天六」→「肥後橋」を市電でゴットンゴットン通勤していました。

朝寝坊で、「あわや!」のときは、スーツにネクタイ、なりふり構わず《HONDAスポーツカブ_C-110》ゼロハンで、北ヤードあたりはフルスロットル(と言ってもMAXは85km/h)、友達の燃料問屋のTonちゃんとこの前もノンスップ、(踏み切りがあったかな?)、阪大横もフルスロットル、あっという間に田蓑橋北詰、Tonちゃんとこがやっていた喫茶店「グリーンハウス」を横目に見て築前橋を渡り左折、このあたりで通勤の人もいたりしてスローダウン、肥後橋の手前で右折すると会社は目の前。おそらく10分もかからなかったと思います。

(写真省略)ホンダのサイトにあったスポーツカブ、青い車体に白いタンク、クロームメッキの派手なアップマフラー(写真は普通のマフラーのC-111)。
60年後のいまでも、そのまま十分通用するデザインだと思うけど・・・

Tonちゃんは、戦後初のダットサンのセダンや「陸王」(ハーレーのCOPY?1200cc?当時の白バイと同じ)に乗っていたけど、初任給9800円のぼくのスポーツカブは家業の連絡用、家にはダットラとミゼット。陸王は35万円くらいかな、彼は高校のときから乗っていましたね。

土曜日の午後、会社の同僚美人OL、Tさんを「グリーンハウス」へ連れて行くと、鼻の下をのばしてドライブに連れていってくれました。
「グリーンハウス」は道路より川に乗り出すような位置で、ここは国有地とちゃうん?と思ったりしました。

※大阪市営地下鉄四つ橋線 西梅田⇔大国町 が開通したのは昭和40年(1965)でした。

■Tonちゃんの思い出④

“ALWAYS” 阪急梅田コンコースと『与太呂』 

あれは多分大学の2年生のときですから、やはり『三丁目の夕日』と同じ昭和33年(1958)のある日の夕方のことです。

阪急のコンコースに高校のとき陸上競技部だったAくんといると、向うから燃料問屋のTonちゃんがやってきました。珍しく、というより初めて見る濃いネイビーの三つボタンのスーツ姿でしたがすぐ分かりました。

三人とも高校の同級生で、大学も同じ阪急沿線のKという大学(どこか分かりませんね)ですが、当時の大学生の服装は殆ど学生服にせいぜいフラノの替えズボン、キャンパスでもスーツは皆無、ブレザーもごく稀だったようです。

だいたい、男子の中高生に私服で外出と言う概念なんか無かったと思いますね。阪急百貨店の屋上で撮った阪急電車などのブレーキ部品屋さん(じゃなくて、今は新幹線用とか結構日本でも有名なメーカーらしいが)のUくんの写真も、休日のはずなのに学生服。箕面のお宅へお邪魔したときの写真も滝の前で学生服です。

そんなわけで、Tonちゃんも普段は学生服で、ましてボート部に入ってからは帽子着用でしたから、ちょっと驚いて見ていると、よくアメリカ映画で見るちょっと肥えて陽気なコンブレ姿の高校生みたいでなかなか良く似合っていました。

そういえば、スキーは良く一緒に行ったり、マージャンのメンバーが足らないからと自宅へ呼び出された頃ですが、不思議にキャンパスで会った記憶が全く無いことにいま気づきました、忘れたのかも知れませんが。

すでに家業の方を手伝うというか、むしろ帝王学の実習をしていたと思います。
その日もなにか催し物の帰りらしく、こちらに気がつくといつもの人懐っこい笑顔で近づいてきて、「おい、天ぷら食べに連れていったろか」と言いました。

阪急のコンコースの写真などを見ていると、60年も経っているのに歩いてきた方向やお互いの位置関係まで思い出すのが不思議です。

時には得意先の接待なんかも既にしているらしく、行ったのが北浜の『与太呂』本店で、初めて紙の上に出されて塩で食べる天ぷらと、名物料理の鯛めしをたらふく味わったのでした。

多分、現在ほどポピュラーじゃ無かったので、学生三人連れには多少お尻のコソバイような雰囲気だったように記憶しています。
その頃はAくんと、動けなくなった屋台の『梅ちゃん』で、なんでも1本10円の串焼き食べて一杯50円(だったと思う)の「司牡丹」を飲んでいた頃なのでギャップは相当なものです。

社会人になってからは、会社の近くだったので与太呂堂島本店は先輩のおごりで時々行きましたが、こちらはサラリーマンが気軽に行けるような雰囲気だったと思います。よく面倒見てもらったその先輩の弟さんはシャンソン歌手(峰大介)だそうです。

Tonちゃんの思い出⑤

ゴリモンさんありがとう♪

《Gorimon's flickr》より

http://www.flickr.com/photos/gorimon/124635769/

記念に掲載させていただきま~す。

ゴリモンさんの《ゴリモンな日々》は http://gorimon.com/blog/ で~す。

実はこのビルのこと、建った頃に新聞なんかで見た程度で殆んど知らないのです。

地図では、昔の場所かなーと思うけど、道路に面してショールーム(サンウエーブの流し台など)兼事務所。その後ろに手入れの行き届いた木造2階建ての居宅があり、奥には大きな木造で屋根の高い薪炭倉庫などがありました。

倉庫には備長炭などが保管してあったと思います。うちの母が「炭は紀州の備長炭でないとあかん」というので頼んだら、商売人でもないのに快く配達してくれていましたね。

よく貫禄のあるお祖母さんが、倉庫などを手を後ろに組んで、見回っておられましたよ。

さらに奥に、多分プロパンガスの充填設備もあったようでした。

ぼくが大阪を離れてからは、航空券の手配のことで弟を紹介したら、その後結構親交があったようで、よくゴルフに連れて行ってもらったり(Tonちゃんは鳴尾のクラチャン)、ご馳走になったりしていたようでした。
スキーはぼくがよく行っていた関温泉の中村屋に、学生時代の冬は入り浸りで(笑)、とうとうSAJの準指導員の資格まで取ったのには驚いたもんです。。


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