読書記録1

幸か不幸か自由に使える時間が増えまくったので、読み終えた本等についての記録をしておく。

『猫語の教科書」 ポール・ギャリコ(ちくま文庫、1998年第一版発行)
ギャリコはスノーグースくらいしか読んだことがなかったが、そういえば猫好きで有名だった。
賢く図太くどこか憎めないメス猫が、若い猫のために綴った教科書と言う体裁をとっている。この猫の語る処世術は女のあざとさとか計算高さと類似した成分を凝縮したような感じで、なんともユーモラスだった。
彼女曰く人間の女と猫は似ているらしいが、ここまでうまく人間の男を手玉に取っている女性は身近にいないし己も違う(むしろ身近な女性はだいたいみんな猫にはメロメロである)。この逞しさはむしろ見習うべきかと思ったが、まあ無理だろう。まずこの猫さんは圧倒的に自己評価が高い。猫としての己に誇りをしっかり持った上で、まあ人間は手のひらで転がしてやりましょ、といった余裕を見せてくる。自分の存在がもつ価値について、他者の評価を一切必要としていないからこそ、パーソナリティの強度が違うのだ。一回産まれ直さないとこの強度に至れる気がしないが、ともかく羨ましい話である。

第11章「母になること」については、ちょっと唸った。彼女は母になったことは本当に素晴らしいことだったといいつつ、猫が増えたことで家族に波乱を招いたこと、自分の家の中での立場の確保の困難、子猫がよその家に引き取られるまでのことを総合して、自分自身はまた子供を産みたくはない、と語る。
去勢や避妊については、猫を飼う以上飼い主の責任として行われるべきだという。産み増えても面倒を見切れない命に対して責任を持てないのならば、最初から手術をしようと言う選択肢はあるべきだ。病気の予防にも良いというし。
一方でこれに対して否定的な見方も当然あるだろう。生き物を飼った以上、そこまで面倒を見切るのが飼い主の責任であり、人の都合で猫の体の機能を奪うなという。
考え方次第だとは思うが、どんな小さな存在であれ、生き物を飼うということはこういう問題に必ず向き合うことになるのだろう。猫はおろか、人生でただの一度も生き物を飼ったことのない人間なので、想像しかできないが、どこの家庭にもそれなりの決断があるのだと思う。
ギャリコの記したこの猫の言葉は、産むことの喜びも、産むことの苦労からくる産まない決断の肯定も記している。ちょっと人間に都合が良すぎる気もするけれど、このくらいの書き味が一番どちらの決断にも適度な罪悪感や問題意識を与えつつ、両方を否定しないラインなのかもしれない。(ギャリコのころ、猫の避妊や去勢がどういう認識をされていたかは知らないけれど)


「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ
率直な感想は「しんどい」これに尽きる。
阿呆丸出しなことを言うが、あれだけの死闘を繰り広げてようやく倒した獲物(しかも相当に感情移入しているカジキ)がサメに食い荒らされて、港に戻る頃にはもうほぼ骨になっているの、率直にしんどい。
老人自身もそれなりに堪えてはいるのだと思うが、しかし自然とともにある男の感覚と、ヘミングウェイの淡々とした描写がそれをさらっと描き切っているところがすごい。
孤独な老人が三日にわたる死闘を繰り広げて魚を釣り上げて、港に戻る。基本的にこれしか起きていないのだが、飽きなかった。極限の状態の中で、少しずつ主体と客体が入り混じりながら、カジキに感情移入し自己との同一性みたいなものを感じていく姿は見事だった。己と左腕を奮い立たせるために若き日の腕相撲の話を思い出している場面は正直そんなこと考えている場合なのか、と一瞬思ったが、極限の状況で己を支え切るには思い出だって活用しないとやってられんのかもしれない。

老人が随所で見る若き日に見た獅子の夢、あれってなんなのだろうか。
一歩間違えば自分が死んでしまう可能性だってある状況の中で、圧倒的な自然の美しさとそれに対する畏怖の念、みたいなものはわかる気がする。
漁の最中にそれを見ていたのは、彼にとってカジキがおそらく同じジャンルに属するものだからなんだろう。
陸で見るライオンの夢は純粋にそう言うものに対する敬慕や憧れが見せるものなのだろうか。その辺はちゃんと考えて読まないとわからんと思う。

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