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ほるもん自由

「カルビとかな、家族で食べるような赤身肉は赤肉。マルチョウとかコブクロとか、ホルモンて呼ばれてる内蔵肉は白肉。もう僕なんかこの3年くらい白肉しか食べとらんねー」
ホルモン師匠から最初に教わった大事なことは、肉には赤と白があって、もっと味覚の階段の~ぼる♪には白を攻めてみなさいということだった。

当時同じ会社に勤めていたホルモン師匠には謎が多かった。師匠はもう50代後半のおっちゃんであったが、大阪、神戸、京都と各地でほぼ毎晩ひとりホルモンリサーチに励んでいた。「おひとりさま焼き肉」とかそういうぬるい言葉ができる前の時期で、それはとてもハードボイルドな行為に見えた。じつは隠れて多種類の内服薬を飲んでいたらしいが、見た目にはとびきり健康だった。そして時折「おっ!」と響くホルモン屋(味だけに限らず、値段や店の雰囲気の総合評価)があると、仕事終わりに僕や他の若い子らを誘って開拓されたホルモン屋へと繰り出した。

「じゃあフワ(肺)から、マメ(腎臓)はさんでチレ(脾臓)、アカセン(第4の胃)からのレバ(肝臓)な流れで?」
「レバもっと繰り上げようや」
「きょうのマルチョウは光ってますね」
「脂身の案配だいじにな」

ホルモンをあまり食べない人にはなんのこっちゃ?な会話だと思うが、その会社にいた2年間ずっと焼き当番をしていた僕は、ホルモンを焼くテクニックがいつのまにか上達していた。その日の気分で焼く順番を工夫したり、白肉の鮮度や仕込み具合から焼き加減をあれこれ調整して、まだ牛の生レバーが禁止される前だったので、かなり攻めた食べ方をしてお腹を何度か痛めたが、楽しかった。振り返れば、無知の怖いもの知らずだが今はそれを問うまい。

ありし日の牛レバー

いまやホルモン焼き肉は完全な市民権を得て、「今夜どっか飲み行かない?」の選択肢に普通に入るようになった。しかし一方で、件のユッケ集団食中毒事件の流れからなぜかユッケではなく牛の生レバー食が禁止となった。ユッケは生肉塊の表面を高熱殺菌すれば猛毒のO157(腸管出血性大腸菌)を滅せられる。しかし完全加熱以外で、生のレバーをクリアにする方法は現段階ではない。死ぬ可能性のある食中毒の危険性を排除できないから禁止!というわけだ。
厚生労働省のページには、科学的、制度的な検証も列記されている。

・適切な衛生管理→レバー内部にO157がいる場合には予防できない。
・新鮮さ→鮮度や保存状況とO157の保菌割合は関連性がない。
・免許制度→危険な部位が特定されておらず専門家でもO157を除去できない。
・検査で選別→有効な検査方法がない。
・消毒薬→レバー内部の消毒は困難。
・紫外線照射→レバー内部の殺菌は困難。
・放射線照射→安全性評価不十分。
・子どもやお年寄りのみ禁止→少数の細菌で他の年代でも発症例があるため安全性を確保できない。

そして最後には御丁寧に「今後研究などが進み、安全に食べられる方法が見つかれば、規制を見直していきたいと考えています」と付記されている。

ふーむ。

まあ説得力は認めるがしかし、ふーむ。

日本人が生レバーを食べはじめたのは第二次大戦後かららしいので、生レバーは文化だ!なんて息巻くつくもりは毛頭ないが、近年の食中毒数では生牡蠣やキノコを下回り、1998年以降死亡例もない生レバーを刑事罰で禁止するというやり方には、フグを調理免許の制度を作ってでもフグを食べ続け、調査捕鯨の形をとってでもクジラを食べ続けてきた日本人のあくなき「食」(←無形文化遺産に登録されて照れるほどの)への追求(執念?)がまったく感じられない。なんかすごく、下町の工場が出発点だけど成り上がった大企業の事務的対応って感じがする。

生レバーが禁止されて食べられなくなったからと言って、多くの日本人は飢え死にするわけではない。だけど倫理上、宗教上の理由ではなく、ある特定のものを食べることを刑事罰で禁止するというやりかたは、人間の本能に関わる「食」を左右するだけに、とてつもない自由が奪われたように感じてならない。近年のホルモンブームの中で、ナマで生き物を食べることの健康リスクについての知識がおざなりにされてきたのは確かに反省すべきだが、ひとつの事故、ひとつの過失、ひとつのクレーム、そしてひとつの正義っぽいものがソーシャルネットの中で拡散爆裂した結果、僕たちが人間らしくいるための自由がひとつずつ消滅していく社会は、果たして健全だと言えるのだろうか?

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