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1回戦ジャッジによる作品評 狼跋斎主人


ブンゲイファイトクラブ2選評
狼跋斎主人

今回はじめてジャッジに参加した。もとより文芸作品批評の専門家でもなく、短時間で、それぞれのファイターの作風、選外の作品などを細かく検討する余裕もなく、「イグ」も参照しなかった。明確な評価基準も立てられなかったけれども、以下の大まかな方針で作品を読んだ。
「好き嫌い」を排除することはしない。
ただ、その上で、「好み」を重視しすぎないよう、「理解不能」なものにできるだけ注意するようにした。というのは、いくらか私事にわたるが、何年か前に短歌雑誌の評論賞に応募したことがあり、拙作には野心的な視座があったはずが、一顧だにされず、選評の座談会でも一言も言及されなかったということがあったからである。
取り上げられなかったのが悔しくて言うのではないが(もちろん悔しかった)、自分の評論は選考者にまったく「理解不能」だったのだなと思った。そこで強く感じたのは、文芸の作品賞にはいくつかの効能と「倫理」があるだろうが、その一つに選考者にとって「理解不能」なものをこそ推すべきである、ということであった。そのような意味で短歌にもほとんど「評論」はなく、「理解不能」なものは死児として流れていくのを待たれているだけなのだ。
それとも関連するが、どこかで受粉するかもしれないなんらかの「種」(のようなもの)が感じられるものを評価したいと考えた。

個々の作品の評価にどう結びつくのか微妙なところだが(つまりファイター個人にとってはどうでもいいことかもしれないが、読者にとっては重要である。その一方で「評価」にはじゃまとなる可能性はある)、たとえばDグループの「文字」とかFグループの「耳」とか、グループごとのゆるい連想によって結びつけられた連句のような味わいも楽しかった(複数のグループにわたることもある)。編者の意図を探るのも楽しい。アンソロジーの醍醐味である。

もう一つ、現在日本の文芸作品の動向にそう詳しいわけでもないものとして、という留保つきながら感じたことを記しておく。今回の全作品、というわけでもないが、書き手もしくは作品内の主人公と、彼/彼女が向かい合っている対象世界との「位置取り」(とでもいうようなもの)が、これまで私が読んできた小説作品の風景とは随分と変わったなあ、ということを感じた。うまく言うことはできないのだが、手袋が裏返しにされるところを目撃するような気がした。いま、まさに言葉は裏返されつつあるんじゃないか。言い換えてみると、「私」が脱臼されている、とでも言うのか。「私の文芸」といわれることもある短歌だからなのか、この傾向は短歌作品にもっとも顕著な印象がある。ただ、某国の総理大臣のような言い草だが、これは今回の評価には直接結びついているものではない。

以下、グループごとに主に「推す」作品(以下★)についてコメントし、それ以外にも強い読後感を残した作品について触れた。触れなかった作品にも読みどころは多いものはあったし、点数については断るまでもないが、たとえば3と4の間には、少なくとも3段階くらいのグラデーションがある。ファイトである限り、この残酷さはもう致し方ない。
あーおもしろかった。

Aグループ
「青紙」 竹花一乃 2
「浅田と下田」 阿部2 4
「新しい生活」 十波一 3
「兄を守る」 峯岸可弥 3
「孵るの子」 笛宮ヱリ子 5★

とにかく「孵るの子」は圧倒的。長さと物語のポテンシャルもうまく釣り合っているし、「折り紙の端んとこをピンてやりにくくて」といった細部の描写も効いている。太宰治の女性の独白小説の系譜に連なる。「湯気」の着想がユニークで不思議な「浅田と下田」もよかったけど、もう少しだけ長くてもよかったと思う。男湯に入ってきてしまう女子のお父さんの背が2メートルあるというのがなんだかおかしい。「新しい生活」は意外にも(?)近代短歌の味わいで、斎藤茂吉を連想した。

Bグループ
「今すぐ食べられたい」 仲原佳 2
「液体金属の背景 Chapter1」 六〇五 3
「えっちゃんの言う通り」 首都大学留一 3
「靴下とコスモス」 馳平啓樹 4
「カナメくんは死ぬ」 乗金顕斗 5★

「カナメくんは死ぬ」の切なくも思索的な味わいは何にも替えがたい。マルセル・デュシャンの「死ぬのはいつも他人」という警句を思い出した。カナメくんは生と死のあまりにも明白な、そして見極めがたい「要」にいる。この執拗な語り、そして「液体金属の背景 Chapter1」の反復と次の「えっちゃんの言う通り」の山手線のループが響き合っている。「靴下とコスモス」はまるでアイロニカルではないオー・ヘンリーのようだが、最後の一文に象徴されるようなかすかなエロティックな跳躍(そもそも靴下がそのようなものだ)が作品全体にあり、とくに最後は議論になる部分かもしれないが、 やはりこれが必要だったんだろうなあ。

Cグループ
「おつきみ」 和泉眞弓 4
「神様」 北野勇作 2
「空華の日」 今村空車 2
「叫び声」 倉数茂 4★
「聡子の帰国」 小林かをる 3

「叫び声」の鮮烈さ。日常の一部なのにそれを切り裂くことになる、マンションの、そして書店の「扉」と書物のページのコントラストも巧みである。ただ、「声」と対になっているはずの「聞く」、音に敏感になるというエピソードがもう少し物語の結構と緊密になっていてもいいという気がした。「孵るの子」と連作にしてもおかしくないような「おつきみ」の死と別離の微かな影を帯びたオノマトペも忘れがたい。オノマトペって切ない。

Dグループ
「字虫」 樋口恭介 4
「世界で最後の公衆電話」 原口陽一 4★
「蕎麦屋で」 飯野文彦 2
「タイピング、タイピング」 蜂本みさ 4
「元弊社、花筏かな?」 短歌よむ千住 3

普通に読んでいると。「字虫」を取ってしまいそうになるのだが、あえて「世界で最後の公衆電話」を推す。長編の冒頭のような味わいだが、どのようなかたちでか電話線に潜んでいるかもしれない、行き場を失った無数の声、そしてそれは結局のところ夜に消えていってしまう、というアイディアが素晴らしい。スマートフォンの声はどこにいくのだろうか。「タイピング、タイピング」の最後の一文は、読者としてもどうしたらいいのかわからないが、指とタイピングとテキストをつなぎ、その奥底にある「断片的な身体性」が生々しい。「あの日」の回想は位置が絶妙。

Eグループ
「いろんなて」 大田陵史 3
「地球最後の日にだって僕らは謎を解いている」 東風 3
「地層」 白川小六 3
「ヨーソロー」 猫森夏希 2
「虹のむこうに」 谷脇栗太 4★

「虹のむこうに」は中島敦にこんな作品があってもおかしくないのではと感じさせる。最後に呼びかけてくるのは不在の「イヌ」だろうか。「地層」は、この洪水を呼んだ、災害の顛末について、もう少し書いたほうがよかったような気もする。「地球最後の日にだって僕らは謎を解いている」もボルヘスふうな読後感、つまりいい意味での短編小説の抽象性(と細部の肉感的な描写)を感じておもしろかった。

Fグループ
「馬に似た愛」 由々平秕 5★
「どうぞ好きなだけ」 今井みどり 3
「人魚姫の耳」 こい瀬 伊音 4
「ボウイシュ」 一色胴元 3
「墓標」 渋皮ヨロイ 2

個人的にはもっとも激戦区だった。「馬に似た愛」は全作中で一番の好み。後半、もう少しだけストイックになってもよかったのかもしれない。これと拮抗するのが、「人魚姫の耳」であった。エロティックで残酷で切ない。後半の転調にも驚かされる。「人魚姫の耳」も「ボウイシュ」のいくつかのモティーフが多面体的に組み合わされていて、いろいろな読みが楽しめる。

Gグループ
「ミッション」 なかむら あゆみ 3
「メイク・ビリーヴ」 如実 5★
「茶畑と絵画」 岸波龍 3
「ある書物が死ぬときに語ること」 冬乃くじ 4
「Echo」 奈良原生織 4

「ミッション」の点数はこうなってしまったけど、遠心力と求心力、俗っぽさとタルコフスキーの主人公のような真剣さの配合が読ませる。「名付け」をめぐる「メイク・ビリーヴ」がもっとも「力」を感じさせた。主人公が場所を移動しているというのがいいな。「名付け」が必然的にもっている「メイク・ビリーヴ=見せかける」こととテプラのチープさが寓意的に結びつけられている。「焚火に火をくべる」ような語り口の佳品「ある書物が死ぬときに語ること」とどちらにするかでしばし迷った。

Hグループ
「量産型魔法少女」 佐々木倫 3
「PADS」 久永実木彦 4
「voice(s)」 蕪木Q平 4
「ワイルドピッチ」 海乃 凧 5★
「盗まれた碑文」 吉美駿一郎 4

ここも激戦区。複数の断片的なできごとと、切迫しながら人称や時間が錯綜するつぶやきがどこか酷薄な感じすら与える「voice(s)」、ていねいに物語が運ばれた切なくてユーモラスなファンタジー「PADS」、詩の不可能性を主題にしたと思われる「端正な奇想」とでも言うべき「盗まれた碑文」とも迷ったが、「ワイルドピッチ」の映画のカット割りを思わせる視点の変化と、対角線を強調するような鮮やかな情景の切り取り方に軍配を上げた。私達はワイルドピッチのように、向こうの方に視線をそらしながら思わず発声する。クリント・イーストウッドの映画を思い出した。

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