決勝ジャッジ決定&ジャッジをジャッジ
決勝ジャッジは以下に決定いたしました。
青山新
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ファイターによるジャッジをジャッジ
坂崎かおる
短い時間の中、非常に丹念に読んでくださったこと、まずは御礼申し上げます。
正直に言えばどのジャッジの読みも的確でありました。「的確」というのは、作者の意図にあっているとか、時流に適合しているとか、そのような話ではなく、相手に説得力をもって語られているという点で、それはテキストに準拠した確実さがあったのではないか、ということです。1回戦の折に触れたように、ジャッジもまたファイターなのであるとしたら、ジャッジの文は我々の心を動かさなければならないし、そして動いたのです。事実かどうかはあまり関係ありません。我々は口説の徒で充分なのです。
それでも点数をつけなければならない決まりですし、またそれがこの空間の一興であると思いますので、がんばります。由々平さんのシステムをもう一度と思ったのですが、準決勝の場に氏が残られていることと、いかんせん絶対的に時間が足りないので、ふわっと書きます。もちろんジャッジ文は丁寧に読んだ(つもりな)のですが、重きをおいたのは、
・自作の「フラミン国」の読みとり
・決勝戦に進む左沢森さんについての読みとり
になっています。前者については、作者本人の合否という話ではなく、一応どんな読者よりも読んできた(はず)なので、「いやなるほどなあ」という説得力(と面白さ)があるかどうか、後者は決勝に進むにあたり、(恐らく小説の方が読み慣れていると思うので)、短歌についての評が、「こういう読みならいいじゃんいいじゃん」と思えた方の比重を高くしています。
由々平秕 4
鯨井久志 4
冬木草華 4
青山新 5 ★
以下、短評です。
由々平秕
自作で言えば、ハルが全く声を出さないところに言及されているところが嬉しくなりました。正しい読みはありませんが、嬉しい読みはあります。最後のパラグラフへの鋭い指摘、これはまさに痛いところを突かれたと思い、そっとスマホを閉じました。反論はあるにはあるのですが、「いや、そうだよな、ここはオレの弱さだ...」とメソメソさせる手腕は見事です。
一方で、「ハーバード」に関する読みは、すこし手慣れていない印象を受けました。自作に対しては槍で一目散に追ってきた印象が、魔法を詠唱しながら後方待機している感じです。「こころ/心」の表記ゆれに関してや、都市と言葉への言及の骨子はいいと思ったのですが、全体的にけむに巻かれたように思えます。もっとこう、「解釈」ではなく、大枠でぐわしゃとつかんだ方がよいのでは?と思ってしまいます。
でも、いちばん肌感覚があっているジャッジでした。
鯨井久志
前回もたいへん信頼のおける読み解きをする方だなと思ったのですが、それぞれの作品についてとても堅実な(そして外さない)評を書いておられました。自作についても、「そうなんですよ、そういう狙いなんですよ」と思わず膝を打ちながら読み進めました。一方で、ちょっと真面目過ぎるというか、踏み込みが足りないというか、「らしさ」のようなものも欲しいなと感じてしまいました。
反対に、「ハーバード」については、たいへん個人的な読みで私はとてもよかったと思います。「どう感じたか」という読者としての立場は、こねくり回した言葉の先に必ず立つはずなので、そこをちゃんと言語化するのは(気持ち的にも)大変だったと思います。私もちらりと似た思い(カタカナの使い方)をもったのですが、むしろそこが作者の狙いだと感じたので、ポジティブに評価はしたのですが、その点でも信頼できる書き手だと思いました。
とてもクレバーなジャッジだと思いました。
冬木草華
短い言葉で要点を押さえた評が、前回同様たいへんわかりやすいです。さらっと書いてあるように見えるんですが、これってまず技術としてけっこう難しい。私はとにかく安心したいので、いちばん読んで落ち着く評でした。自作については、意外に市役所での一場面を取り上げる方が少なかったので、しっかりと言語化してくれて嬉しかったです。「明確にはせず置いていっている箇所」については、仰る通りで、非常に悩ましいところでした。むしろその点をどう評価するかに私は興味があったので、冬木さんがしっかり言及されていてよかったです。
「ハーバード」については、私も「時間」に関する歌だと思ったので、「そうそう、そんな感じ……!」と、自分のぼんやり思っていたことを言語化してくれた感じがしました。流れをしっかり把握した評がよかったです。
落ち着く実家のようなジャッジでした。
青山新
前回よりもロジカルな部分が明確になり、とても好みの評でした。フラミンゴの不在の二重の否定という読み解きは非常に説得力があり、作者の私も思わずなるほどなあと唸ってしまいました。いつも隣にいて、書いてる端から「それはね......」と逐一解説してほしいと思いました。
「ハーバード」のかなり細かい評もたいへん好きでした。「都市の多声性」、いいですね。が、ちょっと細かく見すぎなのではないか、「解釈」を求めすぎなのではないか、というところも気になるところでした。私は短詩型はもっとがばっと大味ですくいたい感じなので、そこらへんは好みの違いです。
ドラゴンボールで言うと、これから最終形態のフリーザが出てくる雰囲気でわくわくするジャッジでした。
以上、どのジャッジの方も決勝には相応しいとは思ったのですが、その中で私は青山さんを推します。本当に些少な違いですが、決勝にあがるファイターとして、青山氏に挑戦したいという気にさせられたのです。自分の最後の作品を出したとき、果たして氏はどのように読み解くのか。そのわくわく感は、紙一重で他のジャッジの方より上であると私は感じました。
なお、点数は勝ち抜けを決めるために点差をつけただけであり、ほぼ意味はありません。
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伊島糸雨
由々平秕:4
鯨井久志:4
冬木草華:4
青山新:5(★)
(敬称略)
★=勝ち抜け
〈評価基準〉
1回戦におけるジャッジのジャッジでは、12人全員を評価しなければならなかったため、批評にまったく不慣れな私は、「振り落とし」を行いつつ、一定程度の説明可能性を確保できるように【明瞭さ】【解体度】【公平性】などという基準を設けていました。しかし、準決勝のジャッジをジャッジするにあたって、前述の3要素はもはや前提条件であり、まったく無意味であるとの結論に至りました。というのも、準決勝のジャッジは1回戦で私が5点と4点をつけた方々でもあるからです。
1回戦において私が結果的に求めることになったのは「評の形式的バランス」と「個人的な期待感」でした。比較的判断し易い全体の形+私情という非常に無難な仕上がりです。これについて今改めて振り返ると、BFCという場に初めて参加した私にとっては、BFC1やBFC2、またその間の期間において発生したどんな事柄も当事者となり得ないものであり、実感や連続性などは意識のしようもなかったことが、この要求に至った一因であるように思います。
しかし、1回戦を経た今、準決勝において私はBFC3の線上に立っており、思い入れや愛着に似たものが形成されつつあるのも確かです。それは例えば、「この人のファイトスタイルに惚れた」とか「このスタンスは大変好ましい」とか「この文章を書く人を推したい」というものであり、表現は違えども、ファイター、ジャッジ、観客の誰もが、どこかで感じるものであると思います。今回は、この感覚を大事にしたいと思いました。
よって、【好み】【面白さ】を複合した【推し】という新基準を設定し、単にこれの有無によって勝ち抜けを決定しました。基礎点を4点とし、【推し】点は1名にのみ付与可能としています。これも詭弁と言ってしまえばそれ以上のことはなく、説明可能な論理で選べない私のエゴでしかないのですが、前回のように「次も戦う」ファイターとしてではなく、「戦いを終えた」ファイターとして評価をしたいと考えたときに、この形式が私にとって最も妥当であると考えた次第です。そして、以上のことを踏まえて検討した結果、やはりどうしても青山さんを推したいと考えたため、青山さんを勝ち抜けとして選出するに至りました。
また、上記のような評価をすることから、「ここがイマイチ」という形での〈個別評〉は書かずに、拙作「Lata-Echne」への評に対してのみ言及し、「この読み・指摘がよかった/嬉しかった」というプラスポイントへの評を書こうと思います。こと創作において、言葉は好きに読んでもらえればそれが概ね最善であると思うと同時に、そこで生じたことの多くに私は責任を持てません。読み手と書かれた言葉がそれぞれに内包するポテンシャルを駆使して相互性のあるやりとりをする中に、私の視線は介在できないからです。どのように読むかということの意義は個人の内にのみ存在し、複雑に絡み合った論理から生じる揺らぎこそが、評価をわけ、戦いを豊かに彩っていくものと私は考えます。
とはいえ、「自分の意図が通じている」という喜びもまた自然と生起する想いであって、これを否定する理由はありません。読み手に「好きに読んでもらうこと」と書き手が「意図が通じた喜びを示す」ことは同時に存在できて然るべきであり、私もそのことには素直でありたいと思います。
以下、拙くはありますが、個別評へと移ります。
〈個別評〉
A:言及されて嬉しかった点
B:評によって励まされた点
C:指摘として納得できた点
・由々平さん
A:「揺らぐ二人称の仕掛け」「手紙の主に対するRquitvaの『裏切り』がAtih-Latoの伝承に重ね描きされている」「『真実の言葉で語りたかった』のにそうできなかった手紙の主とRquitvaの愛憎」
→二人称の仕掛け、2人の母の裏切りに言及いただけてホッとしました。構成と併せて手紙の主とRquitvaの関係性にも目を向けてくださったこと、(註十五)にまつわる諸々に考えを巡らせていただけたこと、とても嬉しいです。ありがとうございます。
B:「異教風の舞台設定により悲壮さを増幅された」「作品を主導する美意識の一貫性は評価に値する」
→舞台設定の効果や美意識の部分は、今後の活動の上でも伸ばしていけるところかなと思います。言葉選び等、武器にできるものは積極的に増やしていきたいですね。
C:「『註十五』の仄かしめいた書きぶりは学術的に見ていささか誠実さを欠きはしないか」「論文への擬態に若干の不徹底があること」「読者が十全に安心してそこに浸るための足場の強度がいま一歩足りない」
→首尾一貫して枠を活かしきる術を選ばなかったこと、見抜かれてしまいお恥ずかしいです……。物語の基礎的な強度(現実への錨の強度)は他の方もおっしゃっているので、課題としてしっかり向き合いたいと思います。
・鯨井さん
A:「凝った枠物語」「最初は何の話かさっぱり分からないが、本編と註釈を読み進めるうちに、作中世界や時代、書き手の素性などが浮かび上がる構成が実に巧み」「徹底された言葉選び」
→枠を強く意識したこと、一言一句悩んだこと、構成の上で世界の広がりを意識したこと、読んでいただけてとても嬉しいです。組み上げたシステムがちゃんと機能すると面白いものだなと改めて思いました。
B:「ゴシック的な過剰装飾文体も、世界構築において一翼を担っている」「背後に広がる読み手に解放された世界の大きさは、準決勝作品の中でも随一」「壮大で読み応えがある」「奥行きのある設定」「この世界設定で別作品を読んでみたい」
→全体的に作中世界が持つ広がりについて評価いただいていると感じました。見えない部分や次へと繋がる可能性を見てくださっていて、まだ頑張れるなと思わされました。ありがとうございます。
C:「本編での筋の物足りなさ」「もう少し展開がなければ、『文体と仄かしだけ』という謗りを退けることは難しいのでは」
→Bに列挙した記述と併せて理解しました。好きなもので戦おうと力んで色々詰め込みすぎたかもしれないですね……。次回作、あるいは今後の活躍にご期待いただければ幸いです。
・冬木さん
A:「註は、その語句の説明にとどまらず、その手紙からでは読み取れないような作中の『筆者』による私的な内容を含む情報が記載される音で、手紙外の地続きの世界が浮かび、そこへ視線が向けさせられる」「手紙内の語り手が誰なのか、〜更なる厚みを増していく」
→手紙の外の広がりを示すだけでなく、多方面から考察していただけていて気分が高揚しました。自分の手を離れたお話がどのような視点の広がりを見せるのか興味があった部分もあるので、読んでいて楽しかったです。
B:「独自の世界を作り出す、そのために選ばれた語彙、文体は、息を長くさせることが非常に難しいものではあるが、息切れをほとんど感じさせない」「本文だけでは単調となっているものに註を入れることでその世界をより多層的に広げている」「より長い文章で過不足なく読みたい」
→このやり方でどこまでやれるか、という挑戦でもあったので、語彙や文体の持続性についてある程度やれることがわかったのは、新しい試行錯誤の入り口に立てたようで嬉しいです。私もこの世界観は気に入っているので、もっと奥行きと強度のあるものに昇華させたいと思います。
C:「形式に縛られすぎている」「手紙の内容だけで見ると〜それも少し弱い」「もっと広げられるはずの世界をなんとか6枚におさめたような印象」
→1回戦の影響もあって、世界や言葉を枠の中に押し込もうと躍起になった部分は否定できません……。ジャッジの誰もが同様のことをおっしゃっているので、まだ強くする余地のあるものと捉えています。頑張ります。
・青山さん
A:「〈純粋な物語世界の構築〉」「前作の『爛雪記』と同じく、一見すると神話や異民族の文化資料として映るが、ある種の多自然主義的な世界との関係の取り結びにまつわるものだと解釈することで、より切実な現実への影響力を読み込めるだろう」「タイトルの『Lata-Echne』は作中の註によれば『母の呪い』ということ」「祖母以前から繋がる因縁を伝え続ける本作の構成自体がある種の『呪い』でもある」「『呪い』が〈祈り〉として機能しうることの端的な指摘」
→「言語から物語世界をつくること」への憧れが準決勝作の動機でもあり、その意味で「Lata-Echne」の意味するところから構成における“呪い”に着目していただけたのは良かったなと思いました。今作との共通点として「爛雪記」について触れていただけたことも嬉しいです。
B:「〈書き続けられていくこと〉が註の多用や、引用という形式から構造的に立ち現れてゆく点は本作の達成」「この評点は単独の作者による閉じた物語に対するものであり、本作は公開され、流布され、現実世界の中で実行されてこそ輝きうるのでは」
→拙作がそのテキストにおいて達成した事項に加え、現実における広がりの可能性を示してくださっており、この部分は「そのようになったら良いな」と私の中でも新しい展開が想像されるものでした。力をつけて実現したいと切に願います。
C:「これが現実の何にも繋がらない〈純粋な物語世界の構築〉の中で試みられていることをどう解釈するかが問われる。(中略)この物語が現実と見分けがつかないほど、あるいは現実を包み込むほどに育まれたならば、その答えも見えうるかもしれない」
→作品の曖昧さが持つポテンシャルをいかに育て、自分の書くものをいかに抱えていくかという話であり、フィクションや現実とどう向き合うかという話であると受け取りました。これは現時点において私に自覚されている課題でもあり、乗り越えていくべきものと考えています。一つ一つ堅実に取り組んでいけたらと思います。
〈謝辞〉
何よりもまず、運営、ファイター、ジャッジ、そして観客の皆様に感謝を。今回、特筆すべき理想も疑念もなく、「色んな人と私の小説で戦えるってこと!?」というようなふわっとした欲求に従って(私にとっては)混沌とした戦場に飛び込み、準決勝まで戦い続けることができたのは僥倖という他にありませんでした。その上で、一連の戦いは、今持てる全力を賭し、今出せる/出したいと思う最善を尽くした挑戦であったと自負しています。観客を沸かせるという意味での“良き”ファイターであったかは観客のみぞ知るですが、パズルを構想、作成し、それをぐちゃぐちゃにしてぶちまける役としては、まぁ悪くなかったかなと思います。
ここからは観客として決勝を楽しみつつ、次の戦いに向けて牙を研いでいこうと思います。改めて、ありがとうございました。
〈最後に〉
もし今回のファイトを見た上で、“伊島糸雨を伸ばしたい”と思われた方、投資や温かな見守りはいつでも歓迎しております。先立っては、私が参加しているアンソロジーなどを読んでいただけると、この上ない励みになります。
今後とも伊島糸雨をよろしくお願いいたします。
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左沢森
4名すべての評に感銘を受けました。そのうち、青山さん、冬木さん、由々平さんの3名の読みに特に驚かされ、このなかのどなたが勝ち抜けても、私としては異存はありません。
その前にまず鯨井さんの拙作に対する評に触れておきたく思います。
【鯨井久志】2点
自分の作品にこんなにも怒りを向けられることが初めてだったため、大いに戸惑いました。決勝に進出した喜びなどはほとんどなく、鯨井さんのジャッジ文に対する感情、それにどう返事をすべきかのほうにこの数日頭を使っていました。このジャッジのジャッジも、鯨井さんへの返答にほとんどを使うことになります。本当は青山さん、冬木さん、由々平さんのジャッジ文から、感銘を受けた部分等をたくさん伝えるに終始したいのですが、しかし鯨井さんの真摯な問題提起には答えねばなりません。なるべく感情的にならないように書きます。
まずは関西弁の歌に対する反応とその弁明から始めます。鯨井さんは関西弁話者として「腹が立った」「見下すのもいいかげんにしてほしい」とおっしゃいました。そういった反応が出る可能性は頭にありましたが、その苛烈さはわたしの想定を超えていました。元の歌はこうです。
関西にも生まれたかった関西弁でボウリングしてたのしいやろな
作歌姿勢そのものを問われていると思いますので、作中主体等々の概念をここでは一度とっぱらって、作者としてこの歌を作った背景を説明すると(本来わたしは自作の解題はしたくない主義なのですが、やります)、これはある種幼稚な、関西弁へのあこがれを発端として作られたものでした。関西弁で書かれた小説、最近ですと柴崎友香さんや津村記久子さん、岸政彦さんらの作品等にわたしは感銘を受けており、その軽やかさ、のびのびとして情感をため込んだ感触にはないものねだりのような憧憬を抱いています。ある種の語りの特権としての方言に踏み込めないかと考え、非関西弁話者であるわたしが関西弁をしゃべる歌を作るにはどうしたらいいかを画策した、その結果が上記の一首です。それが表層的であるという指摘については自覚がありますし、本来ならそんなエクスキューズなどせずに関西弁で堂々と歌を作るべきだったかもしれません。しかしそうはできない技術的心情的な理由があったことは事実としてあります。自分が関西圏に住んだことがないという当事者性の問題もありました。
もちろんこれは作者の意図にすぎず、実際に読者が一首を読んでどう思うかはまったくの別問題です。(一応「関西にも」と表記することで可能性を留保している点などいくつかの工夫はしましたが、)特に関西圏の方がこの歌をそのような素朴な感情としてとらえてくれるのかには一抹の不安がありました。その点を探るため、わたしはこの歌を関西の歌会に出したことがあります。
歌会とは参加者が一首ずつ無記名の歌を持ち寄って、票を入れたり、批評をしあうイベントです。この歌に関する反応は賛否半々といった具合でした。好意的にとってくれる、ありえた可能性を探る歌として評価してくれる人が思っていたより多くいる一方で、やはり批判的な意見も出ました。覚えているのは、言語というのは後天的に習得できるものであるため「生まれたかった」に違和感を覚えるというもの、「ボウリング」という状況の選択を疑問視するもの、また関西の人ではありませんでしたが、方言というセンシティブな問題を扱う手つきについて疑問を覚える方もいて(その人は方言で過去に嫌な思いをしたとおっしゃっていたと記憶します)やはりそういう意見は出るかとは思いました。ただ一方で、このあたりのことは連作という文脈で解消できるのではないかともわたしは考えました。
「ハーバード」の主体は東京への上京者です。「銘菓」も合わせて読めば東北の生まれであることも連想できるかと思います(明言はしていませんが)。主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました。ほかに考えたこととしては「文化の盗用」という概念をどう回避するか。これはマジョリティ側がマイノリティの文化特徴を借用することを問題視するものですが、今回のケースがこれに当たるのかどうか、わたしには判別できませんでした。それは関西弁をマイノリティといってしまっていいのかという躊躇を感じるからでもあり、一方で、作者自身のパーソナルなことをいうなら、わたしは実際に東北の生まれだからです。
ここまで説明をしたうえで、やはり鯨井さんはこの歌を「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。ひとの差別意識について、差別をしていることを認識していないひとこそが根深いケースがあるというのは昨今さまざまな事例を見ていてもわかります。わたし自身の意識下で関西弁を見下しているような感情があるのか、改めて考えてみましたがやはりどうもよくわかりませんでした。わたしは関西に生まれてみたかったと思ったことがありますし、関西弁話者をうらやましいと思うことはあっても、それを否定的に言ったり思ったりしたことはないと思います。関西弁を話す友人の真似をしたことならあります。しかしそこに方言を揶揄する意識があったのかどうか、いまいち判別がつきません。
たしかに茶化したようにも読めてしまうという危うさのある歌ですが、逆に憧れの感情を持ったという背景で読める可能性が本当にないのだろうかとこの稿を書きました。本来やはり方言はセンシティブな問題かもしれず、もっと文脈などでじゅうぶんに言葉を尽くして説明すべきことだったのかもしれません。それができなかったことはわたしの力不足であり、短歌という言葉足らずの形式への甘えであったかもしれません。そういう誹りであれば甘んじて受け入れます。しかしただ単に「見下すのもいい加減にしてほしい」と言われることに関してはわたしにはやはり弁明したい気持ちが残っていました。
以上が関西弁の歌についての包み隠さないところです。決して見下してなどいないことは言っておかねばならないと思いましたし、一方でだからといって鯨井さんの個人の見方を変えられるなどとは思っていません。ただもっと可能性に開かれたものとして読んでもらえればそれに越したことはなかったですし、そういった読み方ができるような歌の配置を作れなかったことが心残りではあります。ここまではジャッジ文の評価とは別問題として取り上げましたので、評価には影響させていません。
そのうえでもう一つの論点に移ります。上記の読まれ方の遠因ともなっている(と思われる)のが「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」問題です。鯨井さんはこう書いています。「「読み手にはわかるだろう」と思って委ねるその無意識的な共犯性」「「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」。拙作にいけ好かなさを覚えるのは致し方ないですが、これにはどこか首肯しかねる部分がありました。固有名詞が万人に伝わるとはたしかに考えていませんが、そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからないからです。
たしかにわたしはすべての歌を十全に読者に理解してもらおうという意識には乏しいのかもしれません(固有名詞の有無にかかわらず)。それは短歌という文字足らずな形式に拠っているところもありますし、一方で作者としてもすべての歌などわかっているわけがないという思想で動いているから、とも言えます。短歌という形式を選んだ以上、つねにわたしは韻律に縛られて生きており、それは無意識の理に、ある程度身を任せることから始まります。鯨井さんは「その意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと」だけだとも書いていますが、まずもって「その意図」などという明確なものをわたしは想定していません。上記の箇所を読んだとき、このあたりに話のかみ合わない原因があるのではと思いました。「下北沢」にしろ「フィッシュマンズ」にしろ「ローマではクリムト展のおしらせ」にせよ、実生活上のできごとが発端になっていますが、それを表出することが「一段上から世を眺める視点、優越性」になるのでしょうか。「下北沢」はたしかに「下北沢」ですが、一方で再開発の行われているすべての都市を代入して読んでもらっても何らかまわないはずです。そこには主体と「下北沢」の距離を抽出できる構造が組み込まれていると考えます。都市生活者としての自覚ならもちろんあります。しかしつねにどの創作においても自分のコミュニティ外のすべての人までを同じ射程にいれなければならないという必要性はないはずです。都市生活者は都市生活のことをうたってよく、それはおのずと都市生活者以外にも届くだろうと考えます。わたしは自コミュニティ以外のひとが書いた文芸を(十全にかはわかりませんが)読めるし、逆もまた然りなのではと考えます。そこに優劣などありません。
それに固有名詞を使うことが、そのまま読者を排除することに繋がるともわたしには思えません。たしかに「高の原」「ピエロ公園」「三森司」これらの固有名詞をわたしは知りませんが、これらの単語を使って面白い短歌を作ることはいくらでも可能です(わたしが、というより誰かが)。現にわたしはなじみの薄い地名の描かれたいくつかのよくできた短歌を知っています。ここでは阿波野巧也の『ビギナーズラック』というとてもよい歌集をあげるにとどめます。要所要所で関西にまつわる固有名詞がたくさん出てきますが、この歌集を読んで思うのはそういった都市の固有性であり、それと連なってくる感情の普遍性です。それに「銘菓」には「キャロライン」が出てきますが、このキャロラインはおそらく私以外の誰にも理解しえないキャロラインです。その点で「三森司」と「キャロライン」とどこに違いがあるのでしょう。わたしは読者にキャロラインの解き明かしをしてほしいとは思っていません。知らなくても浮かび上がるものがあると信じて歌を出しています。なじみのない固有名詞ならばネットで検索してもいいし、訪れたことのない土地の小説をグーグルマップを参照しながら/せずに面白く読んだ記憶がわたしにはいくらでもあります。
鯨井さんとしても現実の固有名詞が出てくるフィクションを全否定されることはないと思います。便宜上今回の連作では実際にほとんどの舞台設定を東京としましたが、いくらそこに東京/それ以外の権力の構図が透けて見えてしまうにせよ、その固有性自体を否定するような物言いには納得できませんでした。
固有名詞を知っている/知らないで受け取り方が変わってくることはたしかにあるでしょう。作歌するうえでもちろんある程度は考慮に入れています。ただそれをもって作品の瑕疵とする姿勢には疑問を覚えざるを得ません。「明るい」や「ビル」といった普通名詞のみを使って歌を作るべきだとは思いません。誰にでも好き嫌いはあり、わたしの作風が鼻につくのもわかるのですが、そこにはすこし決め打ちが多いような気もし、さらにはいささか感情的な言葉に頼りすぎているとも思います。
本来であれば鯨井さんの感想は感想として尊重すべきですが、ジャッジという仕組み上このような書き方になりました。自分でもわかっていないことがたくさんありますし、論点をいただいたという意味では有益なものだったと思いますが、その最後で感情に走られてしまった部分についてはどこか不信感があります(それがたとえ関西弁の歌の解釈を起点にしているとしても)。
最後に、これも鯨井さんとわたしの相容れない部分だと思いますが、たとえば今回のジャッジ文の「優れた文芸作品は、「正気」では書けない」という一節。ここにはわたしのフィクションに関する認識とは大きな開きがあります。そもそも「正気」と「狂気」をだれがどう定義するのでしょうか。また、この基準で照らされてはわたしの作品は勝てないでしょう。まぁそれはルール上、仕方のないことです。ですので今回は鯨井さんを戦略的にも勝ち抜けには残せません。そもそも一回戦の勝ち上がり、わたしは全体のなかで由々平さん、青山さん、冬木さんを順に高く評価していました。一方でフィクション観の違いから鯨井さんには自分の作品をよく読まれないだろうという気持ちがあり、点数を低めにしました(2点)。その認識は現在でもあまり変わっていません。
【青山新】5点
鯨井評からもわかるとおり、準決勝では拙作の評価/ジャッジについてのみを問題として扱っています。これは宮月さん、坂崎さん、伊島さんの作品を改めて精読する十分な時間がとれないからであり、その点はご了承ください。
思いもよらない評をいただいた部分について、言及するにとどめます。お三方のどのジャッジ文でも、閉じられた文章を読みによって開いてもらうという快楽を味わうことができました。
特に青山さんの「ハーバード」「左沢森」の57から一首目を巻き込んだ解釈には驚かされました。短歌連作について、いまだかつてこのような解釈をした人がいたでしょうか。またBFCのフォーマットにおいて短歌が二行にわたってしまう点から、短歌そのものの回帰性にまで話が広がっていくのにも衝撃を受けました。短歌一首の円環性、回帰性についてはよく言われていることですが、それを文章のフォーマットからも引っ張ってこられたことに驚きます。
また言及を受けた「信長」の歌について、わたしはこの歌を先週とある歌会に出しました。そこでの主な読み筋はドラマ等で信長が死んでいく、そのシーンを目をはなしたために見ていなかったというものでした。しかしこの連作中において、また一首目からの連続性において、青山さんが解釈するにおいては構造的なものが反転する。文字の信長は生きていて、目をはなしたときに現実の信長は死んでいる。この読みは本当にうれしかったです。歌単体の読みがあって、連作内の文脈における読みもある。そのふたつの解釈は共存しうるということを端的に示していただきました。
【冬木草華】5点
タイトルの「ハーバード」をアメリカの大学、2000年ごろ生産停止されたお菓子の名前、とここまでは調べると出てきますが、「英語直訳の彼女の鳥」とまで読んだ部分に驚かされました。冬木さんのおかげで拙作に別の思いもよらない文脈が生まれたことを感謝します。「遠かった/ながいのに」の時間的距離的な隔たり、「ほんとうにそう」の追認など、連作の肝となるところを大げさではないそぶりで掬いだしてもらえたところについての言及もうれしく、グループCを担当していただいたときからずっと、冬木さんの評の瑞々しさに救われるような気持ちがしています。
【由々平秕】5点
「語るのも書くのも聴くのも読むのも本当はあまりに不自由なくできてしまうから、ここではわざと言葉を折り、すげ替え、短絡し、絶句する。」このあたりに由々平さんのオリジナリティが出ていましたし、由々平さんの読みでいちばん感銘を受けた部分でした。一回戦でもそうでしたが、こころの一部を変な方向から貫いてくる評に感動しています。特に「誰が最初に言い出したのか」「自分が言ったとは思えない」このあたりは自分の創作のうえで一番大事にしている部分なので、ここに触れていただいただけでもうれしく思います。その中で「固有」の領域を名指そうとする姿勢を汲んでいただいたこと、Twitterでもありましたが「こころ/心」の表記に踏み込んでいただいたのも斬新でした。
【総評】
作品をつくるにあたっての作者側の意図などは無視されてしかるべきだと思いますが、どのジャッジもわたしにはまったく予期しなかった読みを探し出してくださったことにまず感謝を申し上げます。
その中での説得力の強さとして、青山さん、冬木さん、由々平さんのうちからどなたかを推したいのですが、これは本当に決められません。ファイターとして、どの方にも決勝作品を読んでほしいと思っていることは付言しておきます。ただやはり一番驚かされたものとして、青山さんの序盤の読解をあげたいと思います。どこか普遍性に届きそうな感触を青山さんの評に感じました。青山さんを決勝ジャッジに推します。
最後に決勝の作品はいただいたそれぞれの評を読んだうえで、その指摘への返答を反映させたものにしたいと考えています(が、能力的にそれができるかはわかりません)。その意味で鯨井さんの指摘は重要なものでした。相容れない部分はあると思うのですが、読んでいただいたこと率直な感想をいただいたことに感謝いたします。
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宮月中
●まず準決勝を終えての所感です。
一回戦でご一緒したファイターの紙文さんはBFC3を「優等生ファイトクラブ」と呼びました。各回によって色や性格が違うのは大変いいことだと思います。準決勝に関してはひとえに、「防御力重視のファイターが残り、防御力重視のジャッジが残った」ため、全体としてより優等生めいた作品と評の往還がなされているのではないかと思います。
●準決勝の四作はそれぞれが別のアプローチで書かれたものでした。拙作が物語る事の根底を突き詰める傍で、坂崎さんが物語る事のその先を見据えている。左沢さんが言葉の時間・空間的な間隙を掬い取ろうとしている傍で、伊島さんの物語は積み重ねることを志向している。四者とも自らの足の付くフィールドに立ち、それぞれに表現の何たるかについて探求を深めたといった感触でしょうか。ここにおいて誰も他ファイターへの対策を念頭に置いておらず(たぶん)、だからファイトをしている感覚もあまり覚えませんでいた。トーナメント戦の舞台上でみんながみんな、装備品を磨いている。不思議な景色でした(これまでもそうだったのかもしれませんが傾向は一層強まったように思います)。この光景に対して一定の評価軸を設けることはもはや不可能とも思え、ジャッジのみなさんは苦心されたことと思います。
●ジャッジ評についても、各人いっそう防御力を高めてきた感触がします。一回戦のそれに比べてより具体的で個性の出たものになっていたので大変満足でした。きっと対象作品が絞られたこと、字数の自由がきいたことで、各作品について費やす言葉が大幅に増えたためではないかと思われます。一回戦のJ・J評でわざわざ突っつかなくてもよかったなと反省しつつも、僕らが放った作品や評が何かしらの起爆剤(の一部)になっていたら良いなぁ、などとひそかに思っております。
●評文全体の傾向として、「袖をひく石」「フラミン国」では読みの確定が、「ハーバード」「Lata Echne」では取りこぼしが目立った印象でした。各々の作品理解の基準が散文の構造的な可読性に依っているためと邪推します。そこから決勝に勝ち上がったのは「フラミン国」「ハーバード」ですから、決勝にふさわしいジャッジには、以下のことを期待したいと思います。
①「読めた」と思ったときには立ち止まり
②「読めない」と思ったときには人を頼ってでも突き詰め
③その逡巡と奮闘をわれわれに余すところなく、つまびらかに見せてくれること。
③は僕の趣味です。
というわけで、上記三点をほのかに念頭に置きつつ、作品ごとに四つの評を読み通し、総合的な納得度の観点から1点~4点をそれぞれ振りました。この点数は相対的なものなので、1点だからと言って評をまったく評価していないという事ではありません。
出た点数をジャッジごとに合計し、合計点の高かったものを勝ち抜けとしました。また合計点の高かった順に5.4.3.2点を付けました。こちらもやはり、ジャッジの絶対的な評価を意味しません。
以下個別評
●青山さん 5点 ★勝ち抜け
まず序文の「加えて言えば、私が否定的表現を切り詰めているのはやさしさでも戦略でもなく、単にせっかく読んだからには多少なりとも(自分にとって)価値のあることを抽出しようという点に尽きる。これは独善的ではある。しかし、全員がこの基準によって作品を消費する場合、結果的に積み上げられる知見の総量は、解説・添削めいた利他的な読みが跋扈する場合よりも大きくなるものと信じる。」という言葉におおきく頷き、一回戦時点での認識を改めました。また「今回はひとまず」という言葉遣いから(次もあると思ってるな)と感じてニコニコしています。
・「袖をひく石」評
「本作は強度の高い物語世界のなかで<語り>の不明瞭さを強調し、自らが組み上げた強度そのものを揺るがしていく」という読みが嬉しかった。炭鉱の「欲望と人命をトレードする」側面を想定していたことも看破されているうえ、褐炭の発火性、黒玉としての価値など、作者の想定していなかった読みの広がりを与えてくれた。3点
・「フラミン国」評
「フラミンゴの檻に屋根がない」展開への解釈が四評中最も見事だと感じた。また動物たちが解放されたわけではないという点や、人の蒐集・分類・観察欲への指摘、動物たちを想像することの不可能性への言及は作品読解を大いに助けるものであった。4点
・「ハーバード」評
技巧への言及にチャレンジ精神を感じる。句またがりと非定型が都市の寄る辺なさと呼応するという読みは良いと思った。一方タイトルと作者名の五七、公開作品の体裁上あらわれる「二行詩」への読みは面白いが飛躍を感じる。2点
・「Lata Echne」評
「呪い」を<祈り>として機能しうることの端的な指摘」という点、<書き続けられてゆくこと>への評価は本作の芯を射抜いているように感じる。一方「現実の何にもつながらない<純粋な物語世界の構築>の中で試みられている」という点の取り扱いについては、やや「作品外への影響力」という評価基準に縛られ過ぎているようにも見えた。4点
●由々平さん 4点
模索しながら核心を掴もうとしていくような評につい声援を送りたくなりました。読者感情に近いジャッジだったと思います。
・「袖をひく石」評
「砂鉄の即物性」「物語ることをめぐる高度に倫理的な問い」について触れていただいたのがありがたかった。さらに「作品側が担いうる責任の余地はもう少しあったのではないか」という指摘には大いに納得するところがあった。4点
・「フラミン国」評
「彼や彼女はそのまま作品自体の語りへと紛れ込」むという指摘、また「スヒョンさんが「日本語」との間に抱えるいくばくかの距離」という視点は面白かった。末尾の一文への疑問も、個人的には納得するところがある。本作においては作品の軸を「ことばをめぐる」物語と絞って評するには少し勿体無いと感じる。(もちろん多様な軸で読み込んでいるとは思うけれど)3点
・「ハーバード」評
作中主体の存在と実感に焦点を当てるのは良いと思った。一方で本作中に想定される「他者」の存在感(一回戦作よりも飛躍的に増している)を無視し「都市の寄る辺なさと私」という普遍的感情に収斂させてしまうのは少し無理があるのではないかとも思う。3点
・「Lata Echne」評
二人称のゆらぎに着眼し、また註釈者と史料の信頼性に疑問を呈したのは慧眼と思う一方で、そこから「論文への擬態の不足」をとるのは早計と感じた。ぎりぎりまで私情を排するフィールドにおいてなお私情の漏れ出てしまうこの不徹底こそが「記された」テクストと、それを「読み解く」作中行為との本質的な同一性を導きはしないか、とも思う。2点
●冬木さん 3点
ときたま作品解釈が独特なところがあって「そうきたか!」と唸りました。一緒に読書会すると楽しそう。いやみんな楽しそうなんだけれど。
・「袖をひく石」評
「ラストに大きく印象を変更させる」書き口は僕の手癖で、それをまんまと見透かされた気分だった。「正体は「坑夫」」説は面白いが、整合性が取れない点が多々ある。僕は基本的にどんな読みでも歓迎するし嬉しいが、ある読みを採用した際に発生する矛盾については誠実であってほしい。2点
・「フラミン国」評
動物園を「限定された空間内に置いてラベリングする」ものととらえ、そのうえで市役所での場面に言及する流れはなるほどと思った。ただ作品が明示していない背景について「もったいない」と評しつつ、本評についても読み手に不親切な書かれ方がされている箇所がやや目立った。(逆説的な響きとは何か、通奏低音は具体的にどういった筆致から成立しているのか、など)2点
・「ハーバード」評
タイトルの連想と直接の繋がりは不明だが「隔たり」を中心とした読みには納得感がある。四人中もっとも多く個別の歌について取り上げている点も好ましかった。4点
・「Lata Echne」評
Rquitvaの信条に思いを馳せた点、手紙が「筆者」の元に届く過程への解釈は素敵だと思った。他のジャッジにも言えることかもしれないが、本作は「筆者」の著作からの一部抜粋である点、その著書名、および註釈に滲む個人的事情から、十分な世界の広がりを持ち、同時に作品構造の必然性も担保されていると思う。1点
●鯨井さん 2点
「狂気」の渇望に根差した「奇想性」とそれをいさめる「コミュニケーション希求力」という評価軸がやはりとても面白く思います。読みで暴れつつ、最後には各作者への目くばせも忘れない評文にもそれは現れているように感じて好きでした。
・「袖をひく石」評
本作において老人の行動そのものをある程度想定して描いたが、その意図については(あえて)明確に設定していない。じっさい読者や評者によってその行動原理には読みの幅が広くある。もし「意図がわかる」という風に読んだのであれば、その読みの詳細を展開してほしかった。1点
・「フラミン国」評
フラミンゴの檻に屋根がないことを「権利の傘の隠喩」ととらえた点は独創的で面白かった。ただその理由の部分について、スヒョンさんが「どっちの話の方がよかったんだろう」と明言し、対比がなされている点を取り落としているようにも思われる。1点
・「ハーバード」評
固有名詞、関西弁についての言及は非常に面白く読んで、同時に自分にも当てはまる問題だと背筋を伸ばした。一方で作中主体に上京(異邦人としてのアイデンティティ)が想定されている点が考慮されておらず、また作中主体=作者とすることに躊躇が無いようにも思われた。1点
・「Lata Echne」評
読みの経過が見て取れ、また文体、構造、テーマそれぞれに言及があった点が良かった。「神に対する愛と憎しみというテーマ」については僕の読みと合致しないところもあり十分に読み取ることが出来なかった。また本作の展開は作品構造そのものが担っており、内容においてまで分かりやすい時間経過を与えるとむしろ陳腐化するのではないか、とも思う。3点
●さいごに
ジャッジの決定、作品、勝敗含めて、決勝おおいに楽しみにしております!
みんな、せっかくだから、はめ外して盛り上がろうよ。文化祭の当日にまで、テスト期間みたいないい子ちゃんの顔してても楽しくないと思うんだ。
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