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切れ痔小説の可能性 

鞍馬アリス

 どうして切れ痔で小説を書くようになったのかなぁ。
 切れ痔をテーマにしたお話を書くたびに、そう思うことが多くなりました。
 私と切れ痔のお付き合いは、中学三年生の時に遡ります。ある朝、いつものようにトイレに入っていると、お尻にピリッと痛みが走ったのです。おかしいなぁ、変だなぁ、妙だなぁと思いながらトイレットペーパーでお尻を拭き、便器を振り返って立ち竦みました。
 便器の中が真赤に染まっていたのです。綺麗な紅色でした。私は自分の血でも見るのが苦手なので、あの時は本当に怖かったです。お尻も痛いし、怖いしで、泣きそうでした。
 それから一年に一回とか、二年に一回の割合で切れ痔を患うようになりました。お医者さんに行って、薬を貰ったりしても、のど元過ぎれば何とやらで、一年もすると元の生活に戻ってしまい、また切れる。そんなことを繰り返しながら、すでに十五年が経ちます。
 生まれて初めて切れ痔でお話を書いたのは、大学生の時でした。この痛みはお話のネタになると考えて、ホラーに託して書きました。井上雅彦さんの吸血鬼小説に夢中だったころだったので、「切れ痔は痛い」という厳然たる事実と、紅色の血をモチーフに書きました。
 大学時代はその一話だけでしたが、社会人になってから、コンスタントに切れ痔をテーマにしてお話を書くようになりました。
 考えてみれば、切れ痔というのは非常に優秀なテーマです。世間で考えられているような「ゲテモノ」的なテーマにも、大真面目なテーマにも合います。自分の切れ痔体験を源にしているからか、日常を基底にした怪談やマジックリアリズムとの相性がいいのではないかと感じています。切れ痔の痛みというリアルがもたらす勢いを利用して、幻想や怪奇を生み出す、そこに可能性があります。
 経験が導く幻想と怪奇の可能性を開拓する相棒。それが切れ痔なのだと、信じています。


歯車香

糖屋糖丞

 秋学期の開始は金木犀の香りと共に。――実際のところ、各授業が導入の説明などを行い教授も学生も「授業の練習」をやる第一週目には、あの甘やかな香りはどこを探したって見つかるものではなかった。それが人間生活の遅刻者たる私がようやく陋宅の安楽椅子から腰を上げる頃、待ち構えていたかのように匂い出したのだから至極光栄である。
 私の金木犀好きは、親しい友人の間でなくとも多少有名な話になっているらしい。気に入りの香水も金木犀のもので、これがまるで生花のような、造りものの感じを一切排した匂いなのである。毎年、夏頃になると何だか待ちきれなくなり、香水を撒きながら秋を待つ。やがて丁度今日ごろになれば馥郁と本物の匂いが世界に充溢するので、香水の方はいったん箪笥に仕舞われる。現在する真実を目の前にして模倣品のみを愛でるようでは大恥だからだ。さながら金木犀と私の香水は、プラトンの述べるところのイデアと個物の如し。しかし、果たして洞窟の中で育つ金木犀が存在しようか!
 有名な話として、芥川龍之介の生涯の苦悩のひとつに「半透明の歯車」の幻視がある。正しくは幻視ではなく閃輝暗点といって目や脳の領域で引きおこる疾患なのだが、当の芥川はこれを分裂症の兆候として認識し、「半透明の歯車」が現れるたびに発狂の到来を恐れたという。先日出席した近代文学演習の授業でこの話題が出た際、私は自身の生来の飛蚊症という性質にこれを照らさずにはいられなかった。長期的な頭痛と視野の異常は、確かに不安の呼び水となるのに十分な体験なのだ、私にはそれがよく理解できた。
 目下の私の不安は、この異常が他の諸感覚に転移することである。もし嗅覚の領域で飛蚊症的、不随意的なノイズが生じてしまえば、いよいよ秋の楽しみがない。ともすれば、生活の楽しみさえ。これは困った、そんなことになっては大学どころではない。こうしている間にも無数の透明な虫が踊りだして。
 あと一押しで、発狂しそうだ。


優劣をつけない練習から始めることにした

寒竹泉美

 わたしは、いつでも、相手のことを、ひとりの人間として尊重することができていない。
 誰かを尊重することは難しい。
 思えばわたしは、これまで、人間を「優」と「劣」に分類しながら生きてきたのだと思う。自分が「劣」と見なされないようにがんばって、「劣」に分類した人たちを見下して、実体のないレッテルをそこら中に貼りつけながら、そして自分にもペタペタ「劣」を貼り付けながら、生きてきた。
 でも本当は、優も劣もどこにも存在しないのではないか。
 赤と青に優劣をつけられないのと同じように、人と人の間のどこにも優劣は存在しないのではないか。あるのは特徴だけで、それぞれの唯一無二の個性と心と人生と、それらに否応なく影響を与えてきた、本人にはどうしようもない不運な環境、もしくは幸運な環境があるだけなのではないか。
 人間に優劣がないなんて、にわかには信じられないのは、きっと、資本主義経済にとって有用かそうでないかということが、唯一の絶対的な物差しだと思いこまされているからだ。そんなふうにわたしを洗脳してきた誰かは、きっと、わたしの幸せなんてひとかけらも考えていない。たとえ考えていたとしても、それは全部間違い。なぜなら、自分の幸せは自分で創造するしかないのだから。
 ともあれ、わたしは、誰かが儲けるための優秀な部品になるために生まれたわけではない。それを証明するため、わたしは、まず、人に対して、優劣をつけない練習から始めることにしようと思う。(作品のジャッジはするけどね)。


かぐやSF2最終候補作「昔、道路は黒かった」の感想

吉美駿一郎

 これ、めっちゃ異彩を放っていました。
 まずタイトルと、最初の一行目の遠さがいい。「昔、道路は黒かった」、の次に、「戸川さんにはこっちじゃない」ときたら、何なにって興味を惹かれてしまう。道路からも、黒からも連想しない一行目って、うまいなと思うんです。
 一般的にフックというのは「冒頭で読み手の興味をかき立てるもの、印象的な出来事や文章」などと考えがちですが、ぼくはこういうのもフックだと思うんですよ。
 遠い言葉という考え方は、たとえばタイトルと一行目にも応用できると思うんですよね。タイトルと一行目を遠くする。あるいはテーマである「未来の色彩」とタイトルを遠くする。「未来の色彩」と一行目を遠くする。一行目とラストを遠くする。これは色んな形で応用ができるはずです。
 話を戻しますが、最終候補作の中で最初の一行に関してはこの作品が一番、遠さ、連想のしにくさ、みたいなものが際立っていて印象に残りました。
 もうここで、手練れだなと思うわけです。
 ここから本題に入るまでにSF的な説明をしつつ、設定も語るという手際の良さも素晴らしい。テンポが良いので初読のときは見逃していたんですが、ここに行数をかけず的確にきびきび進むので、本題にたっぷり行数を費やせるんですね。本題に入ってからは、あっという間に引きずられる。そうかこのお話はプロジェクトXだったのかと気づいたときには、どっぷりお話に浸っていて、だから最後の最後で唸ってしまう。
 うまいなあ。手練れだなあ。
 独自性が高くて、もしかしたら十年後に覚えているのはこの作品かもしれないと思います。
 ある日ふと、そういえば、昔道路の話を読んだなって思い出しそうな気がします。


「ゆめうつつ」について

冬木草華

 ロートケプフェン・ヴォルフ『Traum und Wirklichkeit (邦訳題:ゆめうつつ)』について、あらすじは以下の通りだ。あるひとりの男の生活と夢のパートが交互に描かれる。彼はその中で次第に現実と夢のバランスが曖昧になってゆき、最終的に夢が現実にとって代わられる。本作は、ひとつのフィクションと現実の関係を描いている。
 まず、本作では現実と夢を以下のように定義している。
 現実は確固とした存在として、それそのものがそれそのもの以外ではありえない状態とされている。対して夢は、構成する各部は現実と変わらないが、総体として見たときにはそれが現実ではありえない状態のこととされる。
 この定義を前提に見ていく。
 最初の夢のパートで、男は巨大な蟹が高速で回転するという夢をみる。いかにも荒唐無稽な話だ、巨大も蟹も高速も回転も現実にはあるが、それすべてが塊となるのはありえない。
 次に、巨大な蟹の夢をみる前には生活のパートで、「一匹の蟹がクルトンを食べるのを男は見た。」「巨大なクルトンは自身の巨大さに怯えているように見えた。」という文章が書かれている。共通するのは、一部が夢に現れているということだ。
 いずれの文章も、男の生活が描かれる中で記述されているが、どこか浮いている。ただそれもこの二文のみ違和感があるだけで、それ以外に不自然さはない。ただ作品は頁を追うごとに、浮いた文章が目立つようになっていく。冒頭にあったような自然な語りは失われ、彼方此方と振り回されるように男が見たものを乱雑に描写していく。それは男の夢をみたいという意思、願望がそうさせるのだ。
 しかしそんな生活パートとは打って変わり、夢においては段々と豊かな場面が描かれる。現実と夢の転倒。現実は部品調達の場になり、夢の中で構築された形として現れる。最後、現実は描かれない。ただ現実のようで現実でない夢だけが描かれる。夢が現実を喰らって終わるのだ。
 本作が一方的な形で終わるのは一個の世界が幕を閉じるからだ。作品として、世界が格納されるから。しかし、私たちはこの現実世界で永遠の往復をしている。現実が変われば創作されるものも変わってゆく。私たちは変化し続ける現実と変化し続ける夢を死ぬまでみることになるだろう。


名を奪われたものたちのための

紅坂紫

 ある演劇が「二十四時間体制のケアを必要とする複数の難病をかかえた子ども」をあつかっていると聞くと、子どもが主人公であると考える人は少なくないだろう。しかし、エイミー・ハーツォグの演劇『メアリー・ジェーン』において、観客が子どもの姿を見ることは決してない。声帯麻痺のためにかれの声を聞くことすらもできない。警告ブザーや吸引機の音によってのみ、かれの存在は舞台の外側に暗示されている。では『メアリー・ジェーン』の主人公は誰なのか。
 母、メアリー・ジェーンだ。
 『メアリー・ジェーン』に登場するのは看護師、音楽療法士、そのすべてが女性だ。これは、賃金が発生しないか少額であることの多いケアワークが女性固有の領域とみなされてきた、そして実際に主に女性によって担われてきた性差の歴史と重なる。
 実際、メアリー・ジェーンのはたらきには賃金が発生していない。母親として、特に難病をかかえた子どもの母親として、当然のはたらきであると社会が信じたがってきたからだ。メアリー・ジェーンと看護師が子ども部屋のブザーを聞くたびに「舞台上を去って」処置をしにいくこと、つまり演じるという行為からの疎外は、ケアワーカーたちの社会からの疎外を暗喩している。
 メアリー・ジェーンという名前もその運命を指し示す。彼女の名前は、聖母マリアから「母性」「母の愛」を想起させるメアリーと、「名前のない」という意味を想起させるジェーン・ドウから取ったジェーンで構成されている。戯曲のタイトルに彼女の名前が使われていることは、メアリー・ジェーンが主人公であることを示すのみならず、「母親であること」を期待されながら報酬を与えられなかった多くの母親の人生を象徴している。
 『メアリー・ジェーン』は、ケアから逃げ出した父親を登場させない。子どもすらも登場させない。演劇は、文学は、名を奪われてきたものたちのための、メアリー・ジェーンのためのものだからである。


千里塚直太郎

へのへの

 吉祥寺駅から家まで帰る途中に、壁にへのへのもへじの落書きがしてある駐車場がある。近づいて確かめたわけではないから、それがスプレーによるものか、ペンキによるものかはわからないが、へのへのもへじ。今日び。他にもっと描くことはあるだろうに。それしか描くことがないなら描かなきゃいいのに。
 まあ百歩譲ってそれはいい。私が気になったのはその顎のラインだ。
 なぜか異様に下膨れなのである。バズライトイヤーかミスターインクレディブルかというような、ピクサーキャラを彷彿とさせるたっぷりした下顎で、それが「へのへのもへ」の間の抜けた感じと相まって妙にふてぶてしく、変におかしい。
 へのへのもへじなんか誰が描いても似たような感じになりそうなものだが、その壁のへのへのもへじは違っていた。そこには確かに表情や個性のようなものがあった。たまたまそうなっただけなのか、狙ってそのように描かれたのか。
 もし後者なのだとしたら相当な描き手だ。
 特に理由はないが、その道を通らない時期がひと月ほどあった。
 先日、久々に例の駐車場の前をチャリで通った時、私は何気なくその壁の方へ目をやった。
 へのへのもへじはまだそこにあった。
 が、少しだけ様子が違っていた。
 顎のラインが滅茶苦茶シャープになっていた。
 そのまま通り過ぎてしまったが、おそらく見間違いではないはずだ。
 あの時去来した感情に、私はまだ名前をつけられていない。


「サークルクラッシャー麻紀」小論

田島一五

佐川恭一の小説が大衆にまで届く魅力を獲得している理由は、そこに絶え間ないバトルが描かれているからだ。本作において舞台となる文芸サークルの面々は、京大生として受験バトルの勝者であるが、京大生の中にはコミュニケーションの強度によるヒエラルキーがあることが早々に明かされる。芸術という価値観に集ったヒエラルキー下位の文芸サークルの面々は、しかしサークル内においても文学賞の選考にどこまで残ったかでランク付けされている。最終選考まで残った「部長」、「三次」、「一次」、そして一次選考にすら通らない「ケンタ」という呼び名とともに。まさにブンゲイファイトクラブ。麻紀はそこに性愛という新たなバトルを持ち込むことで物語を駆動させる。童貞か非童貞か。どれだけいい女を抱いたか。麻紀によって文芸サークル内の勝者と敗者は逆転する。麻紀に抱かれたケンタが最初に勝利を手にし、拒む部長が負け犬となる。ここで新たに起きるのがメタバトルとしての価値観対決である。部長は受験予備校においても恋愛慣れした美女「れいにゃん」をしりぞけ、性愛バトルの土俵に乗らなかった。性行為の強度というジャッジを否認することで部長は最後まで部長としての面目を保つ。しかし他の3人は「童貞が何か言うとるわ」としか思わない。痛み分けに思われた勝負は、大学生活の終了とともに就職戦線という新たなバトルに流されてうやむやになる。ここでの新たな勝者は大手証券会社に就職した麻紀であった。麻紀が最終的な勝者となるのはタイトルからも明かされた予定調和であったかもしれない。だが就職で人生は終わらない。文芸バトルの勝者は、女性であったがゆえに麻紀をめぐる性愛バトルに巻き込まれなかったサークルメンバーの「紅一点」だった。意外な勝者を提示して完結するかと見えた作品は、最後にバトルそのものへの懐疑を提出して新たなメタ構造の存在を示す。人生はバトルではないし、ジャッジは自分の中にしか存在しないのだ。


ブンゲイファイトクラブ4開催に寄せて

小山内 豊

 熱帯林業を専攻しているH君と食事をしたとき、居酒屋のファサードの話になった。ファサードとは建物の正面構えのことだ。
 そこから近所の園芸好きな高齢夫婦のことに繋がって、その家の園芸棚の荒廃について話をした。その家では旦那さんが具合を悪くして長期入院した結果、鉢植えのならんだ棚が一夏で荒廃してしまった。道路に面した園芸棚はいわば夫婦の家のファサードだったが、血を通わせている者を失うことで、その構えは荒廃した。

 小説を書こうといろいろ考えていると、人間にもファサードがあるよな、と、思い当たる。SNSで活躍している人間も、会ってみるとナイーブでどこかしら苦しいところを抱えているわけだけど、現実でもウェブ空間でもそれを装う正面の構えがある。
 そこらの建物の内部には入っていけないが、ときどき人間の内部には入っていける。親しくなり、あるいは仕事や共同体で運命を共にして、心の内を話したりする。
 そして人間のファサードもまた血を通わせる意思がなくなれば、その構えは荒廃する。

 文芸は人間のファサードと心の内を自由に扱える。建築物、街や社会についても自由に扱える。これはとてもおもしろいことだし、無限の可能性を秘めている。そんな観点から、はっとさせられる小説に出会いたいという気持ちが、だんだん強くなっている気がする。

 bfcという文芸競作は原稿用紙6枚という厳しい制限はあるけど、意欲を持った人が「我こそは」と作品を寄せてくるイベントだ。若干おこがましい気がするが、その作品を品定めするジャッジとして参加できれば幸いだ。


イグナイトファングマン

サクラクロニクル

 イグナイトファングマンはイグしようとしてイグするイグブンゲイファイター及びその作品であるイグブンゲイを許さない。それは真の意味でのイグブンゲイではなくただのブンゲイにすぎない。そういう作品はブンゲイファイトクラブへ送るべきだ。ただふざければよいと考える浅薄さを認めることもない。イグナイトファングマンはわかりやすい味しか理解できないが、わざとらしさを同時に嫌悪する。面倒な男ってモテないわよ。
 イグナイトファングマンとは不愉快な騎士の牙を持つマンである。その不愉快さは自然発生的でなければならず、鶏油を浮かべるが如き読者への媚びを検知次第イグナイトファングする。
 イグナイトファングマンにはブンゲイがわからない。だからこそみずからのイグナイトファングを信じてジャッジを行う。それは己の感性の愚劣さを他人に晒しながら戦うという蛮勇がそうさせる。そこには他人の言葉の介入があり、蔑視があり、無力がある。そうした月並みな感情がイグナイトファングマンの凡庸さを際立たせている。そもそもイグとついていればなんでもいいからと選んだのがイグナイトファングだ。それにマンをつけてできあがったイグナイトファングマンが軽率な存在でなくてなんなのだ。そんなものはブンゲイファイトクラブマンも許さない。ブンゲイファイトクラブ光線で灰にしてくれるわ。
 今年もイグBFCが始まった。それは3度目だからイグBFC3なのである。軽率だ。だからイグナイトファングマンに付け入る隙を与えた。イグがこれでは、本体の方も同じ構造的問題を抱えている可能性がある。率直に言って心配している。
 ならばわたしみずから打って出る。かかってこいブンゲイども。よくわからなくても感じ想ったことを書いてジャッジメントですの。
 これはイグナイトファングマンがブンゲイファイトクラブマンを兼任することを決意したことを示す文章だ。
 対戦よろしくお願いします。


工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」を読んで』

夏川大空

 小説の読みに正解はないと私は常々考えている。今回工藤庸子さんの『大江健三郎と「晩年の仕事」』を読んで、私はさらにその思いを強くした次第だ。
 まず、この本は大江先生の、とくに後期の作品を一作も読んでいない人には当たり前だがおすすめできかねる。
 著者の工藤庸子さんのバックボーンはフランス文学やフェミニズムなどで、それらの知識はあればあったほうがよい。
 この本は大江健三郎論と同じくそれも楽しめた、が、不満もある。
 まず「定義集」などのエッセイはこの本の研究対象から外れたのか。後に私なりにその読みを書く。
 吾良さんを、大江先生の妻ゆかりの兄である伊丹十三と同一視しているのも不満だ。この二人をイコールで結ぶことには私は異を唱えたい。大江先生は作品で何度もこの件について書いている。
 私は何度も大江先生が「書く」うちに、この件はさながら「自分のもの」に、ちょうど事件に巻き込まれた人が何度も「語り直す」ことでさながらセルフ・カウンセリングのように、あるいは、ときにそのものの意味も変えているように思える。
 最大の不満。私は、ゆかりさんと千樫、吾良さんと伊丹さんを同一視はせずに読んでいる。そのうえで私は、どこかに「三人の女たち」や「コギー」の存在をずっと感じていた。シャーマン体質、という言葉を知っているだろうか?たまに作家などに、どこからか聞こえる「声」を書く人がいらっしゃるらしい。
 今もどこかにいる、千樫、リッちゃん、アカリ、浦さん、コギーは。
 やっとおおきな仕事から開放され、自由を満喫しているのだろうか、それとも、何をしてよいのか戸惑ってはいまいか。泣いていまいか。
 最後に定義集について。
 もし、千樫が「青色の色鉛筆をなくす」としたら。やはり震災の後だろう。
 空がとても蒼く、いくら色鉛筆で塗っても足りないだろうから。


不在の気配:アピチャッポン・ウィーラセタクンVR作品『太陽との対話』感想

岡田麻沙

 国際芸術祭「あいち二○二二」では、二○二二年一○月四日より一○月一○日までの七日間、アピチャッポン・ウィーラセタクンによるVR作品『太陽との対話』が公開された。本作は六○分間の映画作品で、前半・後半の二部構成により展開する。
 冒頭の三○分間、観客はVRゴーグルをつけぬまま会場内を自由に歩き回り、中央に設置された一枚のスクリーンに映る映像を思い思いの場所から鑑賞する。投影される映像は背中合わせで二種類。異なる人物が眠る様子が映されている。出来事らしい出来事は起きない。
 双方を同時に眺めることは不可能だ。私たちは裏と表を行き来し、それぞれに目を走らせながら、心のどこかでは常に「見ていない方」のことを考えることになる。目撃できない、けれども確かにそこにあり、続いていると信じられるもの。
 後半ではVRゴーグルを装着した状態で、前半と同じ会場内を回遊する。VRゴーグルに内蔵されたディスプレイはまず、現実のスクリーンと全く同じ映像を暗闇に浮かび上がらせる。そうして、人々の目がスクリーンの外に広がる夜の果てしなさに慣れた頃、前後左右に大量の映像を出現させる。闇に浮かぶ無数の矩形。その内側では、誰もがみな眠っている。夢を照らすように、巨大な太陽が落ちてくる。太陽はスクリーンを突き破り、二つ、三つと分裂しはじめる。
 VR鑑賞の間、私たちはディスプレイ上に灯る小さな灯りの存在によって、ほかの観客の存在や位置を知ることができる。姿が見えないけれども確かにすぐそばにいる、かすかな「仲間」の気配。果てのない夜や、落下する太陽に対峙するとき、目に見えぬ何者かによって勇気づけられている。
 浮遊する光の粒に、顔はなく、名前もない。ただ「いる」という事実だけが、立ちすくむ我々の足に次の一歩を踏み出させる。


科学とSFと文芸と

嶌田あき

 科学はSFを追い越したと言われます。物理法則的に無理なものを除き、過去のSFで描かれた宇宙旅行やAIは軒並み実現したと言っていいでしょう。ここで「実現」というのは物理的なものでなく論理上の「実現」ですね。例えば、火星に人を送り込む宇宙船とかが該当します。
 こういう論理上の「実現」可能なアイディアの集合を考えましょう。科学者やSF作家が思いを巡らせる仮説空間「デザインスペース」です。
 冒頭の「科学がSFを追い越す」とは、科学のデザインスペースが急速に広がり、SFのそれの大きさを越えたと言い換えられるでしょう。もちろん超多次元の空間ですから、全自由度について個々の科学者が個々のSF作家の思考を上回ったということにはなりません。けれど平均的には科学のデザインスペースのほうがSFのそれよりも広いのではと思わされる例がいくつもあります。
 例えば、最先端の物理学では、「It from qubit」といって私たちの宇宙は量子もつれという情報としてエンコードされているのだとする考え方があるそうですが、こういう設定のSFを私は知りません。
 文芸の批評で見かける新規性や意外性の欠如の指摘も、既存のデザインスペースから離れたアイディアを書くのが難しいことの裏返しでしょう。しかも、「既存のデザインスペース」も万人で共有されているDBみたいなものはないわけですから、評価は主観的にならざるを得ません。
 もちろん、幾度となく繰り返されて陳腐化してしまっているはずのテーマにも新規性が出せる余地はあります。話題の「三体」も、ファーストコンタクトや連星系は既視感しかないですが、「黒暗森林理論」は新規性がありました。これは科学デザインスペースの外側にあり、しかも科学的にありえそうだが検証しにくいという優れたアイディアでした。
 SFはもっとはみ出ていい。文芸なら、はみ出られる可能性が高い。SFでもSFじゃなくても、BFC4でのはみ出た作品との出会いを楽しみにしています。


畳屋の王子

白湯ささみ

 小学校三年のとき同じクラスだったタクミ君は、狐顔の小柄な男の子だった。私は「たっくん」と呼んでいたが、みんなからタタミと呼ばれていた。実家が畳屋だったのだ。
 当時、わが家では「漫画を読むこと」が許されざる禁忌だった。親に見つかると表紙ごと真っ二つに引き裂かれ、阿鼻叫喚のお説教タイムが始まる。そこで私は策を講じた。わざと歯磨きのあとに飴を舐めて虫歯になり、近所の歯医者に通う口実を作った。待合室には古い少女漫画がたくさん置いてあり、ひとりで行けば親を出し抜いて読むことができる。こぼれそうな瞳の少女たちが織り成すストーリーは、背徳感のぶんだけいっそう面白かった。
 ある日、歯医者で偶然たっくんに会った。彼は私が読んでいた『パタリロ!』を自分も好きだと言い、次に『ガラスの仮面』をすすめてくれた。学校では無口な我々だが、話し始めると止まらなかった。そのまま家へ遊びに行った。彼の部屋には千冊を超える漫画があり、私は玉の輿を夢見る下女のように漫画王子の虜になった。
 毎日学校帰りに畳屋の二階に寄らせてもらい、日暮れと共に帰宅する。そんな幸福な数か月が過ぎた頃、父の転勤が決まった。引っ越し前の最後の日、たっくんと私は別れ際に、クラスで流行っていた我慢比べをした。向かい合って同時に相手の腕をつねり、痛みに耐えきれず手を離したほうが負けだ。こうして遊ぶのも最後だと思うと名残惜しくて、渾身の力を込めてつねった。両者一歩も引かず、数分間にらみ合う。少女漫画の別れのシーンとは程遠い、劇画タッチの真剣勝負がそこにあった。先に手を離したのは私だった。たっくんは「おれの勝ち」と言い、涙目のまま手を振った。
 今も私の左腕には、小さな白い傷痕が残っている。それを見るたびに、青い畳の匂いと、たっくんと読みふけった漫画のことを思い出す。もしまた彼に会えたら、一緒にビールを飲みながらいろんな漫画の話をしたい。お酒の強さなら負けない。


フェイクドキュメンタリー「Q」と現実の死体について

淡中圏

『フェイクドキュメンタリー「Q」』がなぜ怖ろしいか。
敢えて乱暴に言おう。写真にしろ動画にしろ、録音や文書にしろ、全ての記録は実際のところ死体だ。それらはもう生きた現実ではない。それらがフェイクだろうがなかろうが関係ない。
それらは全て非現実への入り口だ。その向こうに何があるかなんてわからない。極端に言えば、そこには何もない。だがそんな極端な答えでは、我々の大事な現実も存在しないことになってしまう。写真の中の自分や家族、録音された聞きなれた声。様々な記憶、想い。
それらをうまく区別する方法は実はないのではないか。我々の大事な現実を確保したければ、現実と非現実の間の曖昧な怖しいものたちも一緒に招き入れてしまう。
普段我々は何気なくそれらを眺めている。何も気づかないことが一番の解決策だ。
『フェイクドキュメンタリー「Q」』は、そこに「日常の裂け目」を発見する。しかしそれは裂け目なんかではない。ずっと深淵は口を開けていた。我々はずっと深淵を覗いていた。
ふとあなたは気になり始める。
「なぜこんな動画を撮ったのだろうか?」
「この録音の声は誰?」
「そもそもこの写真は誰が撮った?」
今まで気にもしていなかったが、細部を見ていけば、残された記録からでは何もわからないことばかり。そこに誰がいて何を想ったか。どんな存在が蠢いていたか。
見慣れたものしか見ないあなたの目がそれらの上を滑っていただけだ。
ある日あなたは気づく。写真写真フォルダにある見覚えのない写真。それが怖しいものであることに。
あなたのフォルダは死体でいっぱいだ。それらがあなたの前で怪しく変色していく。『フェイクドキュメンタリー「Q」』第10話『東北地方に存在した幻の儀式・来訪の記録映像 - The Visit』の死体のように。

追記:ジョー・ヒルの『20世紀の幽霊たち』という短編がある。映画館に出る幽霊の話だ。あれを「映画自体が20世紀の幽霊」という視点でぜひ読み直してほしい。


アンダーグラウンド・ガールズ・ラフィング・エキセントリック・ジョーク 書評

子鹿 白介

両目洞窟人間
https://note.com/yunokilibrary/n/n8bb05a5845c5

長いタイトルの小説だ。私にとっては初体験の両目洞窟人間さん作品だった。
本作は〝サイバーパンク〟をテーマに書かれたSF短編小説。
荒廃して人類絶滅を待つばかりの未来の地球では、ロボットのお笑いがエンタメ業界を席巻している。主人公とその友達である猫の女の子〝あくびちゃん〟は地下で暮らし、ほのぼのだけどどこか不安で閉塞感のある日常を送るなか、生身の人間が出演するお笑いライブを体感して……。というあらすじ。

BFC4ジャッジ部門にエントリーするにあたって本作の書評を提出すると決めたのは、BFCが掲げ、競い合うところの『強さ』を、私がこの作品に見たからだ。つまり私のジャッジの基準を示すことになる。
テンポよく簡潔なナレーションで引き込まれるオープニング。
SF的なリアリティとかわいらしさを両立するディティール・小ネタ群。
そしてぶっとんだ発想のパフォーマンスに衝撃を受け、感想を熱っぽく語り合い、未来に思いを馳せる少女たち。
ブラックユーモアと優しさが複雑に折り重なった、ハロウィンの綿菓子みたいなお話に、心を揺り動かされた。小説としての絶妙な『強さ』を感じたのだ。

この小説ではテロが起こる。
中央公共広場で爆発が起き、人口マグロたちが全滅してしまい、あくびちゃんは言う。
「みんな気が立ってるんかなあ」「でも、爆発とか、しちゃだめだよね」
初読時、(そこは〝爆破〟なのでは……?)と思いつつ、あくびちゃんの言葉づかいかわいー、などと読み飛ばしていたが、再読時に気づいた。この時代のテロが、頻発する自爆テロであったならば、ニュースを聴いて〝爆発〟と言い表したあくびちゃんの文脈が正しい。(『リア充爆発しろ』が『リア充爆破しろ』でないように)
かわいさの演出と作中背景の匂わせが巧みな部分も、本作の魅力だ。とても好き。

ここまで読んで少しでも興味を持たれたなら、冒頭リンクからこの小説を読んでもらえると、本当に嬉しい。
もしあなたが日常になんとなく閉塞を感じているとすれば、気持ちがちょっと前向きになると思うから。


ゴンブリッチ『美術の物語』について

冬乃くじ

 ゴンブリッチ『美術の物語』は美術史についての本だが、その読者層は広い。なぜならこの本は、「作品」つまり「表現されたもの」と、わたしたち鑑賞者がどう向き合うかについて書かれた本だからだ。
 序章はこう始まる。「これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。」――すべてはこの二文に集約されるのだが、ゴンブリッチは以降、わかりやすく解きほぐしていく。――「作品」とは突然に出現するものではなく、ある時期、ある人がある事象を表現しようとして、どう表現するかを懸命に考え、試行錯誤し「これで決まり」となるまでこだわり続けた切実さの結晶である。それらの文脈を理解しようともせず、限られた見識によって不当に嫌い批判するのは愚かな態度だ。また知識を得たがために「立ち止まってじっと見ないで、記憶をさぐって作品にふさわしいレッテルを見つけようとする」のも愚かだ。同様に、たとえばひと目でわかる美しさや正確なデッサンをもたぬ名作の存在を知り、「その知識を自慢したくて、美しくも正確でもない作品だけを指して、これが好きだと言う。そんな人は、ひと目で楽しく感動的だと思える作品を好きだと告白すると、自分が無教養だと思われはしないかと、いつもびくびくしている」。そんな「俗物根性を助長する生半可な知識を持つくらいなら、美術についてなにも知らない方がよっぽどましだ」。そしてこう言う。「私が手助けしたいのは目を開くことであって、舌が回るようにすることではない」。
 これを読み、内省しない者がいるだろうか。続く本編では、文脈を知るごとに作品の味わいが豊かで複雑なものになっていくのを実感できる。だからこそこの序文が重みを増す。知識は不可解なものを早合点し不当な評価を下すためにあるのではなく、ただ表現の切実さの一端を理解するためにある。新鮮な心で、自らの俗的心情に囚われず作品と真摯に対峙できるかどうかが重要なのだ。美術だけでなく、人の手による「作品」との向き合い方に迷ったとき、その道筋を照らしてくれる本である。


書評二本転載

ときのき

①津原泰美『たまさか人形堂ものがたり』
〈企みのある、優れたミステリ短編連作集であると同時に、一ジャンルに留まらない越境性が魅力。名匠の傑作。〉

お仕事もの連作ミステリ、という類型に一見すると思える。
 
 お仕事もの連作ミステリとは、主人公が自分の職業と絡んだ事件に毎話巻き込まれ、あれやこれや経て解決する、というパターンの一群の推理小説のこと。読者は謎解きを楽しみながら知らない業界の内幕を垣間見たり、主人公の成長を見守ったりする。

本作でも、“たまさか人形堂”に持ち込まれた人形にまつわる謎を、経営者の女性主人公と従業員二名が解決する、という定型が一話目で示される。もし掲載紙が休刊の憂き目を見ず、雑誌連載が続いていたらこの路線で書き継がれたのだろうか?そこは興味の沸くところだ。
 
 著者あとがきによれば、単行本収録時に全体の調整が行われ、“最終公演”が書き下ろしで追加されとのことだが(そして文庫化にあたって更に1篇追加されている)、この作品で連作ははっきりと、ミステリからより幻想的な方向へ踏み出している。

面白いのはここで描かれているあり得ないような出来事が、あくまで地に足がついた描写によって成り立っていることだ。チェコの人形芝居がモチーフとして使われているのだが、精巧な作り物が幻想を演出する様子はそのまま本編自体の作りを連想させる。
 津原泰水が描くのはふわっとした幻ではない。目で見手で触れることができ、仮に誰かの体験談として聞いたとしても、“不思議なこともあるものだね”と納得してしまいそうな、現実と地続きな虚構なのである。

キャラクター小説として、或いは人形業界お仕事小説として、謎解き探偵小説として、そしてそれらジャンルフィクションを巧みにずらした幻想小説として、様々に楽しめる多層的な物語だ。
 この短いページ数でこれだけのことができてしまうのは驚異だと思う。
 
 炉辺での楽しい読書にどうぞ。

②むらの英雄 (エチオピアのむかしばなし)
 〈おはなしがおはなしを生む不思議な絵本〉
 
 エチオピアのある村に住む12人の男たちが、粉を引いてもらうため街へ向かう。
 首尾よく仕事を終えたその帰り道、男のひとりが全員の人数を数えると、なんと11人しかいない!
 実は男は自分自身のことを数え忘れていたのだが、男たちは誰も気づかず、突如仲間がいなくなったことに騒然となる。
 いなくなった“あいつ”は一体どうしたのか―――

エチオピアに古くからあるほら話。
 男たちが、いなくなった村人についての物語を思いつくままにどんどんと膨らませていくところがおかしく、真相が判明してもそれすら一度発生した物語の中に取り込んでしまうラストは、多分意図はしていないのだろうけれど、風刺的でもあると思う。
 一度聞くと、誰か別の人に語りたくなるような野放図な魅力がある。

 にしむらしげるの絵もこの空想的なお話にあっていると思う。表紙は虎とむらの英雄が戦う一幕を描いたものだが、あらすじからわかる通りこのような場面は実際には起きていない。
 しかし村人たちの心の中にはまさにこの光景が広がっていたのであり、読み終えると、神話や伝説が生まれる瞬間に立ち会ったかのような不思議な感慨がある。


これまでのあらすじ

紙文

 石を拾う。
 誰がはじめたのか。何のためだったのか。わかっていることはひとつもない。ただそこに石があり、拾いたいと思って拾った。きっとそれがすべてだったのだろう。石は誰のものでもなかったし、探すまでもなくそこらじゅうに転がっていたのだ。
 拾った石を置いてみる。しばし眺める。新しいのを拾う。となりに置く。見比べる。さらに拾う。次々と並べられていく石たち。どれも異なるかたちをしていることに気付く。そしてひらめく。それらは自分の手で変えることができるのだと。削ったり、砕いたり、磨いたりすれば、ある程度は好きなように調整できるのだということ。石そのものを生み出すのは無理でも、そのかたちを作ることはできる。そうやってわたし達は作りはじめた。
 月日が過ぎて、たいていの石は誰かのものになりつつあった。相変わらず足元には石が無数に転がっていたけれど、それらを石と見なす者はほとんどいなかった。みなが自分だけの石を欲していた。誰も持っていないような特別な石を見つけてくるか、あるいは他にないようなかたちに作りかえるかしなければ、石は石と見なされなくなったのだ。しかしなかには変わり者もいて、彼らは石を石のまま愛し続けた。自らが拾った石はどんな石であってもそれだけで特別であり、自ら手を加えた石のかたちは自身にとってのみ特別で在り続ける。それは小さな信仰のようなものだった。
 石が売り買いされる時代になっても、かの小さき信仰は生き延びていた。石という物にではなく、石を拾うということ、石のかたちを作るという行為にこそ、触れるべき何かがあると悟った者たち。彼らは湖の底に眠る石がじつは恐竜の骨であることを覚えていたし、巨匠の手によるその石がしかしただの石でもあることを忘れたりはしなかった。ひとの生涯に値札が付けられてしまうその時代を彼らは真に生きることだけに費やした。
 石の置き方、並べ方、ひかりの当て方について指南する者たちが現れたのは、石が捨てられるようになってすぐのことだ。「捨てられないようにするには」そう彼らが語るとき、それは捨てられてもよい石を選別したに等しかったが、彼ら自身にその自覚はなかった。彼らはことのほかひかりの当て方に執着した。石にひかりを当てたときの、そこから伸びる影のかたちにばかり言葉を尽くした。彼らにとって影のかたちこそが石の本体だった。ひかりの傾きによってありありと移ろう影のかたちを、彼らは彼ら自身が作ったものだと考えていた。そのため彼らはまだ影があきらかになっていない石を好んだ。彼らはよく日陰を歩いた。日陰に飾られた石を見つけると、太陽の位置から割り出した、自身が望むかたちの影がちょうど生まれる場所を正確に選んで、明るみのほうへと石を動かした。そしてそのときの影のかたちがその石のすがたとして広く知られることで、石と影は分かちがたいひとつのものとなる。彼らは影のかたちを作る者たち。影のかたちを作ることで石のかたちをも作りだす。影こそが石のかたちを定義する。その考えが当たり前になる頃には、石を買う者は石を見ていなかったし、値段を左右するのはむしろ影のほうになっていた。だが、太陽とて延々と同じ場所に留まっていてくれるわけではない。時が経てば影のかたちは移ろっていく。やがて相応しくない影のかたちが見出されたとき、その石は相応しいかたちの影が伸びるよう第三者の手によって削られるか、あるいは誰からの視線も届かないところへと捨てられるのだった。特に忌み嫌われた石などは粉々になるまですり潰されて、二度と返ってこられぬよう川に流されたりした。
 ありとあらゆる石がいつかは捨てられる運命にあった。捨てられた石はしばらく足元に転がって、拾う者が現れるのをひたすらに待った。そしていつの日か誰かが石を拾うのだ。その石はあなたであり、わたしでもある。


物語が視えるとき

笛宮ヱリ子

 子どもの頃、鼻歌が好きだった。好きと言っても、実際にほかの子がどのくらい鼻歌が好きだったか調べてみたことはない。ただ、わたしほどには鼻先に歌をひっかけない子のほうが多かったのではないかと思うだけだ。記憶に残るうち初めての鼻歌は、「モモイロトイキ」だった。さかせて さかせて ももいろといき。そのあとの歌詞はよく知らないから、メロディラインをふんふふ~ふ~とやった。四歳のわたしは、ひとりでそれを歌うのが好きだった。歌うと唇から密かにピンク色の花びらが広がるようで、あんまり蠱惑的すぎてなんだか恥ずかしく、いつもごまかすように右手で絨毯を弄った。絨毯は順手で撫でると毛並みがそろって滑らかに、逆手で撫でるとゴワゴワと硬くなった。
 一方で、文字はとても苦手だったと思う。書けばすぐに鏡文字になったし、字が詰まっていると小さな蟻が密集しているようで何だか背筋がぞわぞわした。だからわたしは本を読まない子どもであり、文字から世界を構成するにはずいぶんと成長を待たねばならなかった。あらすじが頭に入っていた物語はほとんどないが、断片は少し覚えている。たとえば、「機関車トーマス」シリーズの「でてこいヘンリー」というお話の中で、緑色の機関車が目の前に煉瓦を詰まれトンネルの中に閉じ込められてしまう光景に、重い鉛を飲み込んだような衝撃を覚えたことをよく記憶している。もう一つ強く印象にあるのは、「マドレーヌといぬ」という絵本だ。ミス・クラベルというシスターのセリフに「うみのもくずとなる」という表現が登場する。それが海の中にただよう不甲斐ない藻のような死骸になることを意味するのだと知り、子どもながらにその表現が持つうつくしくて侘しい死の匂いに耽溺した。
 そんなわけで、あまり国語を解さぬまま鼻歌をしょっちゅう歌っているだけの、ぼんやりした子どもだったと懐古するほかない。ただ、わたしの中で桃色吐息は恋や性に、ヘンリーは呵責や拷問に、ミス・クラベルは憐憫や虚無に抱く質感の原点となり、それらは今でもわたしのささやかな文学的興奮とつながっていると思う。
 転機は、十五歳になる頃に訪れた。転機というのはわたし個人の中で起きた他者からすれば取るに足らない変化という意味だ。家庭環境は主に経済循環という点で存続していたし、特に意志のないまま志望校ということになっていた普通高校に進学した。だがその頃、わたしの芯でほとんど常に流れていた音楽の断片が不意に止み、プツリと鼻歌を歌わない身体になった。音のない世界に突如放りだされた日常は心もとなく、わたしは縋り付くように言葉にたよるほかなくなった。言葉は音色のように滑らかにはいかない。逐一「意味」が邪魔をしてごつごつと岩みたいに角が多いし、整理して捨てたり一時貯蔵したり宝箱にしまったりと、区分けも難しい。処理が追いつかないと汚部屋のようにどこから手をつけていいのかわからなくなるし、拘泥すると人に囲まれるほどに孤独になってゆく。わたしは、群衆のもつ速度に膨大な言葉の仕分けが追いつかぬまま、競歩のように歩調を合わせていたと思う。そのうち、行き場を失った言葉たちが澱のように身体の底のあちこちに溜まり、ちょうど胃に潰瘍ができるようにそれらは内側から溶け、日常に無数の昏い穴が出来上がってしまった。この現象は、わたしにとって大きな不幸の種だった。穴を持たない人たちが羨ましくて仕方なかったし、長い間、いつかこの昏い穴に殺されるかもしれないと恐れてきた。
 けれど、それらの昏い穴にはわたし自身も知らない秘密があった。何年もの間、ただの真っ暗な空洞だと思い続けていた無数の穴は、穴の中に落ちた言葉の澱たちを樽の中のワインのように熟成させ、物語を醸しているらしかった。「昏い穴には、物語が落ちている。」あんなにも疎ましかった穴たちと生きる運命を、わたしは少しだけ気に入るようになった。生きるほどに穴が増えてゆくことを、以前よりも恐れなくなった。
 洗い物をしているとき、洗濯物を畳んでいるとき、子どもを膝に抱いているとき、地下鉄で電車を待っているとき、缶ジュースを買いに夜道をぷらぷら歩くとき、昏い穴は不意に現れる。その現象は今だにいくぶんの恐怖を誘うが、わたしはその穴の中をそっと覗いてみる。すると、やはり在るのだ、物語が。ピントを合わせて穴の中をはっきりと視るには、いくつものレンズがついた複雑な顕微鏡をうまく調整する必要がある。だから、ピントがはっきり合うことは残念ながら少ない。けれど、たとえ朧げで不鮮明であっても、そこには確かに物語の存在が視えている。それらの物語が真にわたしの肉声として言葉を得て、いつか全ての穴から取り出され尽くしてしまったら、わたしはまた芯から鼻歌を歌えるのかもしれない。その日まで、穴の中をじっと視てみようと思う。こうなったからには、仕方がないのだと思っている。
       *
 少なくともわたしは、こういう個人的な「穴」を事情に書くことになってしまったが、当然ながら書く人ごとにそこに至った経緯は異なるだろう。作家、翻訳家、建築家のように、そのひと自身が「家」と呼ばれる仕事には、他のひとにはわからない「家庭の事情」があるものなのかもしれない。物語を編むひとは、時代も国境も超えて無数に現れる。それは、時代も国境も超えて、たくさんの家が在るのにきっと似ている。思い立って誰かの物語を探しにゆく瞬間、わたしはそんな街の景色を視ているのかもしれない。


BFCジャッジとしての金森まりあ論考

虹ノ先だりあ

 金森まりあはアニメ『キラッとプリ☆チャン』のキャラクターである。彼女はあらゆるものに「かわいい」を見出し、その証としてかわいいシールを貼る。この行為は一つの批評である。
 ある対象を見るとき、その対象の中にはなにかしらの「かわいい」が必ずあると金森まりあは確信している。例外は負の感情からなる争いで、それは「かわいくない」。この絶対的な価値観において彼女は「かわいい」を発見する(『シンラバンショウ かわいいでしょう』)。この「かわいい」という言葉は多義的であるために、また金森まりあが輪をかけて幅広く使用するために、単に愛らしい・キュートである、という意味をはるかに超えて発せられる。金森まりあによれば、ウサギは「かわいい」であり、また、頑張る人の姿も「かわいい」であるのだが、この二つは当然違う意味で使われている。
 通常の批評においては、この差異を説明をしないことは許されないだろう。だがあえて金森まりあ流の批評システムを採用し、それを実践してみると意外にも難しいことがわかる。争い以外の万物に「かわいい」を認め、それを他者の目を気にせず主張することはほとんど不可能だからだ。「かわいい」に違和感があるなら「よい」と言い換えてもよい。あなたは理解できないものに対して向き合い「よい」を発見してそれを主張することができない。だが、金森まりあはあらゆる角度から対象を検討し「かわいい」を必ず見つけ出す(『トキメキはそれぞれだよ(かわいい憲法だよ)』)。
 金森まりあはBFCのジャッジとして通用するだろうか? する。BFCのジャッジは個々の作品に可能な限り適切な評価をくだした後、それぞれを比較して採点しなければならない。つまり
①各作品に対応する評価軸
②異なる土俵にある作品群を採点する評価軸
の二つが基本的には必要である。金森まりあがジャッジであれば、それぞれの「かわいい」を見つけ出し、それぞれにかわいいシールを貼った上で、どちらがより「かわいい」のかをシールの数で示すことができるだろう。くしくも彼女はBFCジャッジの一つのあり方として、ある種理想的なのである。
 かわいいファイターのみなさん、みんなの作品のかわいいをかわいく競い合いましょう。かわいいに優劣をつけるなんてかわいくないかもしれません…… でも精一杯頑張るのはかわいいから、わたしもかわいくジャッジして、みんなでかわいくなりたいな。


紺野天龍『シンデレラ城の殺人』感想 

白髪くくる

 御伽噺の古典『シンデレラ』をベースにしつつ、ストーリーとしてもミステリとしても大胆な改変を加えた一作。主人公のシンデレラは原作のイメージを覆すキャラクターとして描かれ、継母たちの普通の要求を一級の嫌味と屁理屈で跳ね返していく。怪しげな魔法使いによって、童話『シンデレラ』のように、舞踏会に参加することになったシンデレラ。彼女は舞踏会の場で王子様に見初められ、十二時の鐘が鳴る頃に王子様の部屋に招かれる。招かれた部屋でシンデレラがみつけたのは、無残に殺された王子の死体だった。兵士たちによって王子殺害の犯人として逮捕され、裁判にかけられるシンデレラ。彼女はこの絶体絶命の状況を得意の屁理屈で切り抜けることができるのか!?
 多くの人が知っている童話が、一癖も二癖もあるキャラクター達と一つの死体によって、全くの別物に変質していく様が面白い。ミステリの謎として、密室状態の部屋で男が殺されたというミステリ的な謎は、シンプルだが強固な不可解現象として、今も昔もミステリ読みの心を惹きつづけ、数多の作者が魅力的な答えを提出しているものだが、本作の解答も、この作品ならではの必然性を備えた解答なのがミステリ的に素晴らしい。過去作『錬金術師の密室』をはじめとして、設定とミステリの融合に優れた作品を生み出し続けている作者の確かな手腕を感じさせる。裁判という舞台設定も、二転三転していく展開と見事に嵌まっており、上質なカタルシスを味わうことができた。


チューニングとモーニング

ゼロの紙

鍛えられた筋肉を携えた踊り手の幾人か
が、波のようにうねっている。その上下す
る動きは、彼ら一人欠けてしまっても均衡
が保てなくなるような危うさとかけがえの
なさでもって、波を表現していた。
しばらくすると、その波のてっぺんにむ
かって年配の女性ダンサーひとりが、から
だをゆだねる。
彼女が波にからだをゆだねるときの絶対
的な信頼を、彼らが身体全体を使って拵え
ている波そのものに感じている、その関係
性に戸惑いつつ。彼らがひとのからだをもっ
ているのに。もう波の一部でしかないよう
な、錯覚。凪だった水面が乱されてゆらめ
き、もとあった水面の場所へを戻ろうとす
るときに、やむをえず生じてしまうのが波

であったとしても。
踊り手である彼らの波の中で翻弄しながらも、

凛とした身体を保ちながらどこかへと運ばれ
てゆく。あしもとに見えない波が彼らを導い
ている、ひたすらにもとの場所へと波ともに
戻ろうとしている男たちの静かな逞しさの輪
郭は、ありありとまぶしい。

ふたりの手の動きが、うそみたいに絡んで。
でもそれはまだひとりのもので。でもよくみ
ているとそれはふたりがひとつになっている
腕と手首と掌のことで。

いま見ている手が右の人のものなのか左の人
のものなのか。そんなことを知ってどうなる
んだという気にさせられて。
 
わたしは、ベルギーのアントワープ出身の振付
家、演出家でダンサーのシエルカウイという人の
舞台を観ていた。演奏家も踊り手も世界中から集
まってきていて。
彼らがひとつになるまでの葛藤が描かれていた。

テーマは、「フラクタス」だった。破片。

「骨は折れると強くなる。一度壊したかった。
人生を」
「花は開花しきったあと、一度捨てることで、
成長できる。捨てるから生まれ変われる。自
分を壊し、こわして自分を受け入れる」
 
人の話ばかりに耳を傾けている。自分の人生
なんてはじまりも終わりもなくとかって、ス
ガシカオの詞のようなことを思っていたら、
人の話ばかりをコレクションすればいいのだ
と気づいた。自分の人生を生きるってなんだ
よ、とか言ってみる。誰にでもなく、俺に。
いやわたしに。どっちでもいいだろって。俺だ
ろうと僕だろうとわたしだろうと。誰だって。

でも、変化することにおそれのあるわたしにとっ
てはシエルカウイの発する言葉は、とても痛かっ
た。ただ痛かった。

誰か自分以外のひとたちとものをつくるとき、自
分のしようとしていることが、どれだけ相手に理
解してもらえるか。それがもし文化の違いという
枠をも超えなければいけないときの、大きな壁と
葛藤ともやもや。そんな緊張感を伴いながらの舞
台稽古を見続ける。これは踊りの枠を超えた、い
まの世界を表現しようとしていることに気づかさ
れるとかってあの頃は思っていた。
 
その頃、見ていた時には気づかされたのに。今は
またちがうフェーズを迎えていることを誰もが知っ
ているけれど。日々を自死のように受け入れなけれ
ばいけない、日々を。

最後にフラメンコダンサーと打楽器の世界が溶け合
うとき、ゆずったりうけいれたりがまんしたりその
思いのプロセスを観るものが共有しているようで。
観終わった後もどこかで、じぶんのなかで、フラク
タスの思いが舞っている感じが続いていた。あのと
きは、続いていた。

あのひとの物語だけが線路のように伸びてゆく。
そんな気がしてページをめくる。「線路はつづくよ
どこまでも」を聞いたのは幼稚園の時だったが、
あの線路がほんとうは、「線路工事は続くよどこま
でも」だと知って、倦んだ思いにすこしばかりス
ラッシュが入る。
なんとなくこころが、ざわざわして。落ち着かなく
て。ってわたしは思う。ひとのことばが、いちいちか
らだのどこかに刺さったままのような気がしている日
が少し続いているから。

春が来たらしいから、冬の手袋を洗った。
ブルーカナールっていう色だと教えてくれた人がいて。
カナールはフランス語で鴨の意味らしく。その人は俺
にも気があるらしく。
ぱっとみは深緑のようで、そこに青も混じりあってい
るようなそんな色合いなんだよねって言った。息が鳥
の息のような人だった。
 
雪でも降りそうな空模様の時、なんとなく口のなかで
ぶるーかなーると遊ばせながら、凍えそうな指を幾度
か守ってもらった。守られるってなんなんだと思いな
がら。

鴨は冬の季語でもあるし、なんとなく思い出してはそ
の色の名前を教えてくれたひとのことも同時に思い出
したりしていた。息は鳥の様だったけど、肌は鶏のよ
うだった。逆なでするなって言葉が頭の中に浮かぶ。

逆なでされたのだ。いいたくない場所を。
ただ、ブルーカナールのことは嫌いじゃない。
色の名前は遠くに思いを馳せる眼差しみたいに、ふし
ぎな音を纏ってる。
忘れそうになって忘れないように、なんどもくちずさ
むように覚えていようとしたりして、すこしだけ、ほか
の名称よりも気持ちを注ぎたくなる。

俺、林田は記憶をいちいち人にタグ付けしないから、ブ
ルーカナールのことはあの人にまみれていない。

でもなんどもくりかえしてるうちに、ふいになにかちが
うものへと変化してるように感じることがあって。
もともとの意味はどこかへ飛んでいってしまって、ただ
の音として存在しているような。
そんなことを教えてくれたのは鳥の息みたいな人ではな
くて、好きだった人で。
アメリカの作曲家、スティーブ・ライヒがインタビューに
答えていたんだけどねって、サイフの中に折りたたまれて
しまわれた記事を見せてくれた。

「同じ言葉を繰り返し聞いていると、おのずと旋律の形を
成してくる。肉体の奥底から洗練とは無縁の土俗的なリズ
ムも湧き上がってくる」
あの人は、そういう趣味があった。写真とかではなく記事を
サイフの中にしのばせるような。
ブルーカナールも意味を聞いた時はとても、美しい鴨の姿を
想像したけれど。それを繰り返しているうちに、空気になん
ども触れてゆきながら、いい感じに酸化してるようなそんな
響きに変化している感じがする。
もともとあるべきだった場所にもどってゆくそんなぼんやり
とした輪郭が、浮かんだり消えそうになったりしながら。







※作品の著作権は著者に帰属します。

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