2回戦ジャッジ評


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2回戦採点表決定


BFC2 第2回戦ジャッジ評「執筆の生計」

笠井康平

■総評
 前口上は省きます。基礎点(やさしさ)、技術点(遠さ)、構成点(広さ)、素材点(深さ)の4項目に分けて判定します。万全を期すために、全作全文を添削して、基礎点の採点に用いました。捨て文がない状態を100%とし、85%以上に+1点します。技術点は、注目すべき語句や、心に残る一文、見事な場面などを拾い上げて、美点が難点を上回れば+1点としました。構成点は、1作を約500字ごとの5区間(冒頭、序盤、中盤、終盤、結末)に分けて読んだとき、話運びに特筆すべき工夫があるか、もたつきやつまずきがなければ加点します。素材点のみ最大2点とし、文章芸術史に見慣れた問いに応じうるものがあれば+1点、さらに新しい試みがあれば+1点としました。

 誤解を避けるために言い添えると、採点のばらつきは僅差の縮尺を拡げたもので、数値の大小は著者の技量の高低と必ずしも一致しません。さらにいうと、第2回戦はその性質上、短い日数で・衆目を意識しつつ・新機軸に挑みながら・じぶんなりの持ち味を活かして書くことが求められたように思います。それ自体かなり難しい課題であって、とりわけ着想をじっくり寝かせて、心身に馴染んだところで書く作風には、より不利な条件だったにちがいありません。持ち時間は同じでも、仕事と生活に追われて、自作を心ゆくまで手入れしきれなかった方も少なくないのではないか。そのしんどさを思いながら、私情を退けようと、なるべく厳しく、細かく、冷たくて、意地悪な読みを取りいれました。8作それぞれにしっかりと読みどころがあることは、観客の感想がすでに証立てたと感じたからでもあります。

 個別評へ進む前に、各作について手短に述べて総評を終えます(次回戦には進まないかもしれないので)。由々平秕「愚者たち」は、この巧みさを次は何に向けてくれるだろうと期待しました。笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」は、著者の持ち味をよく伝える仕上がりで、この光景を中核とした、際立った短編が仕立てられそうです。白川小六「蟻」は、素材の調理に手慣れていて、ちょっとした工夫が劇的な差を生む勘所をつかんでいるようでした。
 和泉眞弓「プラスチック神殿」には、はずれ者に目を向ける配慮と、常識を裏返そうとする気骨が通底していました。馳平啓樹「エッフェル塔の傘」は、この字数をフルに使わず、ばっさり切り詰めると、持ち前の抒情がより引き立つ小品に生まれ変わるかもしれません。
 冬乃くじ「ハッピー・バースデー」は、著者の過去作のなかで、僕がこれまでに読んだどれよりも、フィクションへの愛情を力みなく表現していました。海乃凧「味幸苑」の試みはまだ萌芽的ですが、身体感覚の分断は意外に類例が少なく、磨き上げるとその先につながりそうです。蜂本みさ「オテサー糠」は、驚くべき完成度のファクトフル・フィクションで、今回の採点法では満点になりました。すごいことをやってのけたひとだ。


■由々平秕「愚者たち」個別評

【基礎点】(+1)
連体修飾がなめらかに多用され、話運びに弾みをつける接続詞も使い慣れている。その反面、不用意な語句の重複がしばしばある。たとえば「説明も何もなく」と「黙って」、「そして」と「続いて」、「最初は」と「一度聴いてしまうと」。それ自体は軽微な瑕疵で、短い制作期間を思えばむしろ粗さは少ない。楽曲紹介が一文でもあると初読者がより読みやすいか(余計な寓意を生むおそれもあるが)。

【技術点】(+1)
時代がかった語りが安定して微笑ましく、パラノイアな読解への愛着と抵抗を両立する。語りが個々のモチーフに立ち止まり、深入りするのを阻んだきらいはある。たとえば2文目「私が住む街」を「この街」などとすると、序盤は人称のない語りを続けられ、第2段落で「私もそうするはずだった」がより新鮮に響く。他にも、概念のようなプレゼント(青い夜、淡い夢、恋心)を地の文に忍び込ませると、このテキストと読者の関係を、作中人物のそれとより近似できるはず。

【構成点】(+1)
物語構造はパラフィクショナルで、歌詞の「あなた」「私」「彼女」と、地の文の「私」「彼女」「新しい恋人」「友人」をどう対応づけるかの判断で読み筋が変わる。どの作中人物が「愚者」なのかを読者が深読みするほど、「他愛もない」「占い」を深読みする「彼女」の狂信に近づく。「冷ややかな寛容さ」で読み流していると、「ほとんど理解のできない」言葉に「さよなら」してなお、(まるで占星術師のように)信じるべき語り手のいない語りを何年も「確認」し続ける「私」に近づく。解釈多義性がきちんと生じている。

【素材点】(+1)
もっとも悲しく読むと、「彼女(私)」は「私(あなた)」を「新しい恋人」だと思っていたのに、「私」は「友人」との「同居」としか思えないまま「さよなら」する薄情なひとのことであって、「愚者たち」は登場人物、作中話者、読者の全員を指すことになる。あとは解釈のバリエーションで、「サンタモニカ鏡子」「編集部」「私」「彼女」それぞれの視点に立つと各論が導き出せる。「読めてなさ」の多重交錯を「読みもの」として提出する野心には共感するものの、狂信者が出奔する結末は、これだけ入り組んだ叙述をやってのけたにしては、やや予定調和か。「では、どうする?」に答えられる力量は秘めているはず。

■笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」個別評

【基礎点】(+0)
出だしで、早朝の室内から見える景色の描写に立ち止まりすぎたか。「シリコン鳥」の解説も、デモ隊や死骸処理のてきぱきした記述に比べて、だぶつきがあり、語句の重複も気になる(たとえば、空の色を模した・乳白色、ドンとかバンとかいう・大きな衝撃音)。その後も寄り道があちこちあるので、肝心の死骸処理の場面の印象が弱まっている。不定形な被写体に苦戦したのか、推定・婉曲表現が多く(らしいが、不思議なのは、ひょっとすると、あるかと思うが、もしかして、目の錯覚なのか)、それらを添削すると、目指す質感がよりくっきり伝わったはず。

【技術点】(+1)
オーソドックスな文章作法で読むなら、オノマトペの頻出と具体に頼った比喩は歓迎されない。けれども視覚化のための指示書きを兼ねた情景描写として読むなら、動きや形状、音声をこまめに示す親切なつくり。さまざまな色味を――ミルク、雲、乳白色、シリコン、アルビノ、タオル――使い分けるよう読者に求めていて、言わば、シナリオよりも舞台美術をたのしませることに振り切っている。

【構成点】(+0点)
膨らませがいのあるモチーフ(超高層ビル、冬型台風、TOKYO UNGA、保護区/一般区、デモ隊、シリコン鳥)が多い反面、その提示と説明がくり返される構成になり、話の起伏がやはり少ない。運河とデモ隊に費やした約600字を、異常気象と保護区/一般区の掘り下げに使えると、死骸処理の不穏さ(専用処理ボックス)を、「わたし」が抱える何らかの弱さ(からだに障る情報は規制)につなげられたか。

【素材点】(+1)
「ふわり」「ふぁさり」「のっぺり」の3語に大別できる質感を、ひとつながりの視点移動のなかで描き出すことに挑んでいて、それには成功している。著者の素質は、ありふれた言葉で言い表しづらい感覚を、視覚的なイメージに満ちた記述に変換する、その手つきのやわらかさにこそあるようだ。魅力的な主題と被写体に出会うと、大化けするかもしれない。

■白川小六「蟻」個別評

【基礎点】(+0)
地の文は無生物主語と二字熟語をたっぷりと使い、できごとの推移と行為の細部を過不足なく語ることで、この作品のあちこちに目を見張る光景を散りばめている。それに比べて台詞回しは冗長でぎこちない。ビジュアルノベルやスマホゲームの、ページ送りを前提にした書き方に近づけたのかもしれないものの。「ええ」「まず」「はい」「ぜひ」「わかった」「では」「また」「私もです」「ああ」は削れるし、年数の指定も、女王蟻の寿命に対応するが、話運びにさほど寄与しなかったか。

【技術点】(+1)
語選択にはキレがある。「クラルククレン」の語感、ヴィルゴ(乙女座、ひよわな白バラ)の含意、「蟻」が「蜂の巣」をつついたような騒ぎになる可笑しさ、ありふれた語彙の奇抜な連結(最大の新女王、やはり羽のある息子達、立方体の薄暗い部屋、十分な数の強い娘達)と、要所で読み手を飽きさせない。本能による生殖と性愛を始めから終わりまで描きながら、卑猥さを避け、清潔に読ませる工夫もある。

【構成点】(+0)
冒頭の手際がいい。題名、小見出し、出だしで場面をつくり、三か条の提示で不穏さを演出する。ところが、続く「女王」の応答は、政治文書としての強かさとポライトネスを欠いたようだ。異文化交流に不慣れな国家の拙文だとベタに読むにしても、文明化された繁殖行動への諷刺だとメタに読むにしても、用語の定義が曖昧で、「ニ」「三」の2文目は前文の言い換え。ぎこちないパロディに留まっている。終盤に向けた侵略関係の転倒はしっかり決まっているものの、ここを整えて、その字数であとひと場面書き足せていたら……。

【素材点】(+1)
「遠い宇宙から」「母星」「冷凍睡眠」の3語がなければ、このテキストは「蟻」の生活と意見を猛々しく語った小話に姿を変える。中心語である「コロニー」が、宇宙戦争、生物学、国際行政の用法をどれも含んでいて、ちっぽけな「女王」の姿に、読者はさまざまに社会的な問題を代入できる。にもかかわらず、その着想は「蟻」の生態に関する基礎知識の引用から成っていて、啓発的でも寓意的でもないところがいい。

■和泉眞弓「プラスチック神殿」(3点)

【基礎点】(+1)
視点人物の動きに沿って、その目に映るあれこれをひとつずつ名指し、形容し、考察と実感をつけ足す。その手つきは丁寧で、感覚の表現で比喩がこなれないところはあるものの、基礎点では「愚者たち」を上回った。19歳のわりに、はしばしで語彙が古風なところは気になった。修辞に凝りたい年齢でもあろうし、作中年代が近年とは限らないと思い直した。

【技術点】(+1)
モノの清潔/不潔と神々しさを結びつけるのに、事物の列挙による光景の描写はうってつけの方法で、しっかりと効果をあげている。会話にも軽みがあり、ドラマチックな表現としては申し分ない。とはいえ台詞回しは大時代で、現代口語演劇の省略と洗練を知った頭で読むと、語調が芝居めいて大振りになったきらいはある。

【構成点】(+0)
踏み鳴らす音の反復で流れを作るパターンがよく、終盤から結末にかけてもう1回くり返せたらさらによかった。「おばあ」の室内描写に力点がある分、「皆~」の一文が読者の解釈を先取りしまっていて、後日譚がつけ足しのように見えてしまう。Googleドキュメントの文字数換算では規定字数を若干超えていて、添削に苦戦したか。

【素材点】(+1)
世間の良識にはっきりと挑んで、美醜の転覆をまっすぐ狙っている。その成否は読み手ごとの判断に委ねるほかないけれど、読み手に何かごとを問い、考えさせるという意味で、このテキストは、著者の意図がどうあれ――というのは、語りの力点は2度くり返される「無駄なものなど何もない」に置かれているから――政治的な言葉として書かれている。


■馳平啓樹「エッフェル塔の傘」(1点)

【基礎点】(+0)
気持ちが途切れそうになるぎりぎりのところで、残された力をふり絞って書いたかのようだ。ハードボイルドを下地に、語りの足どりへ破調を持ち込む志向がはっきりとあって、それは書き出しをわざわざ2文に分けたところにあらわれている(単に静物を描くなら「傘立てには二本の傘があった」でいいのに)。この文体と、つとめて一般化・曖昧化された内面の表現は取り合わせが悪く、一文ごとの足どりの重さが悪目立ちしてしまったか。

【技術点】(+0)
通勤途中に思い出の傘を2度忘れて、結局なくしてしまうひと幕を、語り手「おれ」の動作に認知、心情、回想その他の著述を書き添えることで、情感たっぷりの演出に仕立てる。その狙いは読みとりやすく、たしかに抒情は生じるものの、段落ごとの緩急が弱めで、作中主体の行為よりも心情と回想に比重があることもあって、異化の作用が相殺されている。

【構成点】(+0)
話運びが段落ごとでぶつ切りになっていて、「おれ」が動かないと話が進まず、話が進まないので「フリ」になる動作が作中に放り込まれ、それに「おれ」がことさらに応じるといった、苦しい展開が続いた。この構図が全体に失意と苦悶のトーンを生んでいて、それを工夫された感傷と解するならハートフルな小話として読めるけれど、ポピュラーな純愛物語へ素朴に浸るような物語消費の仕方を、著者はおそらく歓迎しないのではないか。

【素材点】(+1)
6枚のテキストとして読むには、どうしてもつぎはぎが先に目についた。とはいえ精読はひとつの方法に過ぎない。さくさく読んで、なんだか奇妙で、どこかぐっと来る。この読み方で本作にゆさぶられた読者が少なくないこともまた事実だ。より多くのひとに訴えるものが書けるだけの地力を、著者はすでに持ち合わせているのではないか。


■冬乃くじ「ハッピー・バースデー」個別評

【基礎点】(+1)
あまり効いていない時間経過の表現(やっと、続ける、たちまち)、夢から醒めてしまう形容(実際に虎がいなくても、もしかしたら)は削れるものの、登場人物ふたりの動作と会話、被写体(ブロック、いぼ)の扱いをスムーズに語っていて、とくに書き出しと最終段落の勢いがよく、読者に息つく隙を与えない。

【技術点】(+1)
語り手と視点者(F、恋人、二人、わたし)の距離感と、こまめな視点の切り換えが、相乗的に小気味よさを生んでいる。恋人の肉体の一部を切り出して「人形」に見立てる構図は、もちろん作中人物の親密さを示すものであり、同時にささやかにグロテスクでもあって、作中世界が狭く閉じるのを、主語の多様さが防いでいる。

【構成点】(+1)
生活の風景に、ひとつまみの他愛もない嘘を交えた構成としてすんなり読める一方で、(「紙と鉛筆」ではなく)「誕生日プレゼント」の「小さなブロック」でつくった「虎と暮らす浜辺の家」に住む「イボ太郎」の「成長を夢見る」……と、少なくとも5重のフィクションが本作には埋め込まれている。それを複雑なたくらみに気負った風でなく、日常的な空想の自然な広がりとして描いている。

【素材点】(+1)
フィクションへの愛情が曇りなく描かれていて、その心情表現をラブストーリーに重ねる方法はもちろん古今東西にあまりにもありふれているけれど、ひとつひとつの道具立てがうまくかみ合っている。相聞歌は、四季の題詠と同じく、くり返し何度も、その関係ごとに、真新しく語られるべきものだと強く思わせる。


■海乃凧「味幸苑」個別評

【基礎点】(+0)
書き出しの工夫を下敷きに、2文目の第1節の主語をずらして読んだとき、この方法の着想が得られたか。「ある程度の情報を~」「音であれば遠くからでも~」「足繁く通っていたからか~」「鈍感状態が一瞬だけ解除され~」など、この方法の実践に都合のいい挿入句が悪目立ちしてしまった。

【技術点】(+0)
ひとの身体がそれぞれに分散的な考え、気持ち、ふるまいを持つ。この設定は目新しく、掘り下げがいのあるアイデアではある。とはいえその肉づけをするとき、語り手の内心を身体のパーツそれぞれに単に代弁させる表現が多すぎて、一人称を避けるための「少し変わった言い方」以上になれなかったか。

【構成点】(+1)
平日の有給休暇に商店街へ出かけたのに、行きつけの外食先がとり壊されていて、お目当ての「かた焼きそば」が食べられなかった。この短いできごとを6枚分に膨らませて書けるだけの手数はある。食事の場面がしっかりと劇的に描けているので、この調子で商店街の風景も、中華料理店のとり壊しも、緊張感を持続できたらよかった。

【素材点】(+0)
初期コンセプトを試すための習作として受け止めたい。これを何らかの達成と読むのは著者の過去作に失礼だろう。短い制作期間で「どうにか形にする」という力量は伺えるものの、その素質としては、推敲を重ねて構文を磨き上げる熟成型の作風なのだろうと思う。

■蜂本みさ「オテサー糠」個別評


【基礎点】(+1)
基礎点は98,3%と、候補8作のなかで最高だった。省略可能な親切さ(同じ気持ちだったのか、糠床って、言われて思い出した)と、校正で整えられる粗さ(「少し」すっぱ「すぎる」の二律背反、網状にもつれ「ていた」の時制)があるくらいで、捨て文のなさは群を抜いていた。各段落の最終文末ごとのふたりの会話が、場面切り換えに先立つ緊張の緩和の役割を果たしている。

【技術点】(+1)
「糠太郎」にはさまざまな姿・形が与えられる。在宅続きの日々の気晴らし、昔懐かしい料理の材料、ひとつの微小な生態系、成長を見守るペット、不和と不調の温床、曾祖母の知恵と工夫の継承、醗酵の科学と生活実用の合流地、つくり話のなかでだけ生きられる、擬人化されたいのち。その多様さを、長短さまざまな構文の組み合わせで破綻なくまとめた。

【構成点】(+1)
筋書きだけとり出せば、他作と比べてできごとの数は多くない。ふたり暮らしの「わたしたち」が糠床の世話をはじめ、自家製の漬けもの作りに工夫する日々のなかで、喧嘩したり、仲直りしたりする。そのちいさな話から出発して、「部屋」の外にあるいくつもの挿話を招き入れながら、「糠太郎」の成長に合わせてこのテキストが膨らんでいく。

【素材点】(+2)
それがいつのことかは諸説あるけれど、現代日本語の先端表現は2000年代にかけて数十年ぶりのモード転換を経験していて、僕たちは「その後」に世に出て、さらなる新しさを書くはめになった世代に当たる。本人がそれに気づくか、真に受けるか、受け入れるかはさておき、この著者はその支度が済んでいるのだと思う。時代の流れとひとの夢。どちらにも目配りを利かせる困難に挑んで、片手落ちに終わらせない。その安定感に驚かされた。

■採点結果
由々平秕「愚者たち」 4点
笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」 2点
白川小六「蟻」 2点
和泉眞弓「プラスチック神殿」 3点
馳平啓樹「エッフェル塔の傘」 1点
冬乃くじ「ハッピー・バースデー」 4点
海乃凧「味幸苑」 1点
蜂本みさ「オテサー糠」 5点

勝者:蜂本みさ「オテサー糠」




希望、あるいは失望

竹中 朖

 第二回戦に当たって、個別評の前にひとこと述べておきたいと思います。
今回の戦いでは、予選における見事な選別によって粒揃いの作品が揃ったということは紛れもない事実です。作品の尺が極めてミニマムに限定してあるにもかかわらず(そしてそれが無限定な応募状況を招く恐れがあるにもかかわらず)、個々の応募作のスケールは大きく、この枚数で何を語るべきかということをわきまえた冷静な仕上がりの作品がほとんどでした。もちろん、「傾向」というものは主催者の柄や前回の状況から当然生じるものであり、それについてあれこれ評する向きも散見されます(曰く、〇〇小説が有利、云々)。しかしもしその傾向なるものに合わせて自分の作風を自在に操り、特上の小説が書けるなら、どんどんやってみればよい。その器用さが一流のものであれば、既にここで私などが評するまでもないのですから。
 2回戦に進んだ方々は、いうまでもなくそのような素人じみた策などは採られておられないはずです。つまり、自らが考える自分の作家としての核のようなものを信じて、今回の作品を生み出しておられるに違いない。であれば、1回戦の作と併せて見えてくるものが「作品世界」であり「実力」であると考えてよいでしょう。

 今回の8名の作には、正直に申し上げて、ある種の限界を感じました。この上なく欠点のない、抜かりなく書かれた、文章にも文句のつけようのない佳作。そして、ひりつくところも虚を突かれるところもない、微温的な良く出来た作。みな似たようにぼんやりした印象です。善良に過ぎる人々、凹凸のない物語、変化のない世界。
 悪口を言っているのではありません。前回、次を見たいがために作品の核心を、その創作力の核を見ようと努めました。今回は、ふるい落とすために読んでいます。文芸の荒波のなかで他の怪物じみた創作家と伍していけるのか。以前にも申し上げましたが、改めて「ものわかりの悪い読者」としての作業を行ない、加えて「世界観に同調してくれない編集者」の立場で判断を重ねたく存じます。皆さんの実力にはもちろん、全幅の信頼を置いて。
 以下、短評です。

・由々平秕「愚者たち」
 作者の描く物語の眼目はことの理路であって、情感や心情の屈託ではない。個人の印象を言うならば、たいへん好みの筆致であり、英国文学の伝統怪奇譚を想起させるまことに硬派の物語である。しかし小説の手触りとしてこのごつごつした語りと展開はやはり少々無骨で、周到に彫琢されたものとするには少々難がある。語り口の緊張度の高さと対照的に、使用される重要アイテムが少々抜けた感じを醸し出すのはユーモラスで、このギャップはむろん計算ずくの面白さであり、本作の知的な印象を深めているが、どうもそこだけが読みどころであるようなきらいも感じられる。物語を説明されているような、事の顛末を講義されているような気分になってしまうのは、やはり小説として推しづらい。

・笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」
本作の強さと弱さがともに結末部から見て取れる。語り手は世界について何も本質的な理解を示さない者として描かれるが、このような登場人物に仮託すべき主題とは何だろうか。私はやはり、絶望感のようなものではないだろうかと思う。主人公の日々は充足しているが、読み手はそれが閉塞した空間だということは了解される。日常のルーティンに隠された、うっすらとした、乾いた絶望感。無駄なく声高でない丁寧な筆致で、細やかな道具立てを使って描かれるその世界は結末に至って一瞬その実相を見せようとするが、その描写が弱い。ここには本作をより彫りの深いものにする鍵穴があるにもかかわらず、作者はそこを書き流してしまったように読める。漂白された空間に定位されたこの主人公の空虚な目を通して、序盤から作者独自のきわめてハイセンスな絶望を読める予感を持てたのだが、結局ムードで締めたような印象になってしまうのが残念である。後半部を練り直してほしい。

・白川小六「蟻」
直球勝負。いきなりのマニフェスト的文章は今回のような短距離走の場合、焦っているような印象で読者を苛つかせかねないが、そもそもストイックな文体で構成されている作者の物語では、無駄のないものを読んでいる快感を誘う良き導入となっている。全体を見ればこの枚数の中に空間の広がりと時間の広がりが折りたたまれるように描かれ、風通しのよい、気負わない素直な構成と呼応して話の柄を大きく見せることに成功している。このような話柄は永遠性のようなものを透徹した文体で描くのが定番だが、定番と言ったところでなかなかできるものではない。「このようなものが読みたい」という読者がよく見えている。難点としては、「コロニーの侵蝕」というテーマに驚くような革新を与える新味がないところだろう。

・和泉眞弓「プラスティック神殿」
 登場人物全員に存在感がある。語りも快調である。ユーモアもあれば、ちょっとした感情の屈託もある。作者の個性であるところの、空気の中に漂う幸福感も文体の中にふわっと定着できている。しかしその過不足ない作風のショウケースを、この一文で締めていいものだろうか。エンディングの見得の切り方としてはおそらく数種の選択肢の中から悩まれたこととは思うが、やはり駆け足に過ぎるし、ごく常識的な価値観の語をここにすとんと置くのはいかがか。今回多くの方に似たような要求ばかりをしているようだが、最後の重要な2段落の再考、書き直しを乞う。短いながらも読者の中に定位できたおばあと沙弥のファンタジーを受け、作品全体の印象を強くする緩やかな締めがほしい。

・馳平啓樹「エッフェル塔の傘」
 作者の描写におけるある種の頑なさはまさに独自なもので、2作読むことによってその描写が織りなす確固たる世界観が作風を成しており、すなわちその作品の魅力であるということが了解される。ただし語り手の見る世界は狭い。視線は率直だが、端的に言って自己愛も中途半端である。作者の描きたい境涯であればどんどん躊躇なくセンチメンタルな事象や情景は読者に押し付けるべきだと考えるが、どことなくあやふやなまま、あやふやな印象で終わる。等身大の人物を描くためは、等身大の描写を積み重ねるだけでは足りないのではないか。語り手が語る女性の姿に読者はもっと切なくなりたい。その策をもうひと手間かけるべきだろう。

・冬乃くじ「ハッピー・バースデー」
 終末部に至り、構えが大きくなるようでもあり、とはいえ小さな奇想に寄りかかっているようでもあり、少々全体のアンバランスな印象に戸惑う。どう読み取ればいいのか、読者に下駄を預けすぎではないかと思える。無用に親切になる必要はないが、私のファンタジーに付き合えない人は結構です、とでもいった風情のアクセスのしづらさを感じる。これはこの作者独特の詩情を考えるとまことにもったいない。「恋人」と「F」という一種アノニマスな遠い視点で語る手法にもかかわらず「僕らは」とか「僕たちは」という親密な語りが頻出するのもおそらく終末部と呼応させるための意図的なものだろうが、その距離感が生きているとは言い難い。ただしその作戦には共感するところもあるので、終末部の世界観をもとに一考し、そもそも何かを生まれさせる必要があるのかというところから問い直し、全体を構成し直してもらいたい。

・海乃凧「味幸園」
 残念ながら、読むべきストーリーが存在しない。前回も申し上げたが、描写力は抜きん出ているし、文章の力もある。キャラクターも魅力的に造形できる。この見事なスケッチ力で、描くべき「小説」を見つけ出してほしい。完成してしまって伸び悩んでいる連中を抜き去る潜在力は随一だろう。このままセンスでこなすのではなく、あえて負荷をかけて物を書いてほしいと切に願う。

・蜂本みさ「オテサー糠」
 初っ端から言いがかりをつけてしまおう。作者の、語り手自らの内面をすら突き放すような手付きで語られる物語が読みたかった。そのような文体が魅力的な作家なのである。むろん本作にそれがないとは言わない。どう見ても手練れの作である。しかし、するりと身をかわされた感が否めない。片思いの告白に過ぎぬという非難を覚悟で言うが、やはりこの作者によって書かれるべきはこの題材ではなかったのではないか。話の展開にムラはなく、作者の特徴である嫌味のない気の利いた表現でするすると引っ張られる。奇想がある種のアナロジーとなって、小さな可笑しな味を生み出す。が、これで戦えるかどうかを考えるのである。ここからさらに外側の奇想に逸脱するか、内面の暗がりを掘るか、もう一歩がほしい。決して、ないものねだりではないと信じる。

【採点】

由々平秕「愚者たち」 4
笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」 2
白川小六「蟻」 5
和泉眞弓「プラスチック神殿」 2
馳平啓樹「エッフェル塔の傘」 3
冬乃くじ「ハッピー・バースデー」 4
海乃凧「味幸苑」 1
蜂本みさ「オテサー糠」 3

 この期に及んで得点ほどの差はむろん存在しません。結果がどのようなものであれ、この戦いのレベルの高さを誇る、称賛されるべき作品群でしょう。私の評は、職業的な偏りのあるものかもしれませんし、ここから作者との対話を始める、ある種の提案に過ぎないものでもあります。
 その上で、白川小六さんの落ちついた筆捌きを推し、次点を2名としました。最終話での対戦に期待したいと思います。

 天徳4(960)年3月、村上天皇によって主催された「天徳内裏歌合」の二十番におよぶ勝負の果てに判者であった左大臣・藤原実頼は優劣を付けられず、なんとかうやむやにしようとしましたが、察した帝からは勝敗を付けるようにとの仰せがありました。窮した末になんとか判定を下したのですが、私もこの優柔不断判者の列の最後尾に並ぶところを、ギリギリのラインで回避したようです。この苦役を与えてくれた西崎さんと数百名の参加者、予選及び本戦のジャッジの皆さんに改めて御礼申し上げます。



八人の批評家と、八つの批評対象

遠野よあけ


■序文

 二回戦の作品を総覧すると、よくもわるくも文体の多彩さが薄れたことに気が付く(これはやや残念でもある)。とはいえ全作品、クオリティは高く、単純な「おもしろさ」だけでは甲乙つけがたい。ぼくの主観を強めに判定すれば順位付けも可能だが、それはあまりしたくない。そこで、評価基準は一回戦の「おもしろさ」を外し、「なぐりあい」をより重視することとした。
 また「なぐりあい」はBFC2二回戦だからこそのものであることを求めた。BFC2の見どころとして、創作と批評が併走し、互いにぶつかりあったことが挙げられる。ファイターは自由に創作を行い、ジャッジは自由に作品を論じた。最後にファイターが自由にジャッジ評を論じた。このサイクルは少なくない影響を与え合い、双方にとって文章への責任が増したように思う。こうした場はいまの文芸シーンには存外少ない(あるいは散らばっている)。
そうしたBFC2の一面を踏まえ、ぼくは二回戦作品それぞれに対して八通りの「批評家」と「批評対象」の組み合わせを見出した。これを恣意的と感じる向きもあるかもしれない。八作品のうち、ひとつやふたつなら意識しての実践かもしれないが、すべての作品がそう読めることは単なる偶然の可能性が高い。他方で、それは必然だった可能性も否めない。いや、ぼくはここで「それは必然だった」と断言する必要がある。なぜなら批評とは、世界に存在しているがまだ誰も言語化していないロジックを発見する行為であり、つまりそれはぼくが恣意的に生み出したものではなく世界に潜在する必然性であり、それが「ある」と示すためにはその必然性を背負って断言する必要があるからだ。
 それは、まだ世界に存在しない物語を書きだす行為とよく似ている。誰も知らない新しい物語のことばにはいつだって必然性が宿っている。そうした意味で、フィクションを書くことと批評を書くことは、本質的にとてもよく似ている。
 だからぼくは、批評家と批評対象を組み込んだ作品をいかにおもしろく書けているか、という「なぐりあい」を評価基準として採用する。

 今回は、各作品の評の後、総評において点数を決定する。


■作品評

 由々平秕「愚者たち」において批評家は彼女(愚者)であり、批評対象は「星占い」だ。彼女の語る星占いのタロット解釈は、明らかにオカルト的要素を多分に含んでおり、客観的な論理性があるとは言えないが、語り手はそんな彼女との関係を断つわけでもなく忍耐強く彼女のタロット解釈に耳を傾ける。ここで語り手が「聞いている」のではなく「聴いている」のは、彼女の話から徐々に共有可能な意味性が欠落していき、意味をもたない音のように響くからで、語り手にとっては星占いもジッタリンも彼女の解釈も聴くものであり、積極的に意味を汲み取る対象ではない。しかし彼女はそうではなかった。彼女にとっては星占いもジッタリンもタロットも、本来以上の意味がある謎めいたものであり、仮に他の誰もが関心を示さずとも、星占いの謎を言語化する必然性が彼女にはあった。それは価値を認められていない作品の価値を言語化する批評行為と同質のものでもある。しかし批評はときに人を魅惑的な暗闇に誘う。批評という行為に触れる前と後では、見える世界は不可逆の変化を遂げてしまう。そして彼女は失踪する。残された語り手は「彼女の代わりに」星占いを毎月チェックし続ける。そのことは、微弱ながら語り手に彼女の批評が感染していることを意味する。「愚者たち」というタイトルには、「プレゼント」に登場する「あなた」と「私」という意味の他に、彼女と語り手や、「愚者たち」を読んで言いようのない魅惑に触れてしまった読者たちをも含んでいる。批評は感染する。感染し、その人間の世界観を大きく、あるいは小さく、書き換えてしまう。感染は誰にでも起こるわけではないが、どうやらこの小説の彼女と語り手のあいだには起こっていた。読者がある作品に感銘を受けるとき、両者のあいだには目には見えないつよい関係性が生まれているように、ふたりのあいだにもそうしたつよい関係性があったのだろう。それが友情と呼ばれるものなのかまではわからない。

 笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」においては批評家は存在しない。漂白された安全で静かな生活が完成された保護区に対して、TOKYO UNGAの対岸にある一般区の生活はどうにもきな臭いが、両者のあいだには断絶の距離がある。そして批評家の不在は、逆説的に批評家の存在を強調する。一回戦の笛宮の作品「孵るの子」では、第二次性徴を迎えた少女が、周囲の女子や男子や大人たちとのあいだに無理解の距離を覚えるという話であったが、あの小説では少女こそが批評家であり、批評対象はじぶんの「身体」だった。あの小説が示しているのは、批評行為を徹底することは周囲との距離を生んでしまうことであり、「ホワイトライフ」ではその距離はTOKYO UNGAという表象を得ている。その意味で、「ホワイトライフ」の対岸には、「孵るの子」がある。だからシリコン鳥は対岸の一般区から飛来する。一般区のデモの暴力は保護区まで届かないが、シリコン鳥は暴力的に窓に衝突し、そして死ぬ。シリコン鳥はなにもことばを届けず、息絶えた亡骸として現れる。「孵るの子」において卵子が重要なモチーフだったのに対して、白くてのっぺりして、どこにも辿り着かず何もなさずに死んでいくシリコン鳥はまるで卵子に辿り着かなかった精子のようでもある。ここではふたつの暴力が描かれている。一般区の無理解の暴力と、保護区の方角から飛来する一方的メッセージを帯びたシリコン鳥の暴力。特に一般区の無理解と漂白さはある種露悪的ですらある。批評による感染は起こらず、それどころか何も起こらず、しかし物語の最後において、語り手がシリコン鳥の死骸を専用処理ボックスに捨てる間際に、「死んだシリコン鳥の乳白色の目がかすかに動いた気がした」と語り手は語る。何も起こらないが、何かの兆しのみを残して小説は終わる。批評家は不在で、批評行為は起こらず、しかし批評の兆しのみを描くことによって、この作品は他の作品のどれよりも批評家の存在感をつよく濃く描いているといえる。

 白川小六「蟻」において批評家は女王であり、批評対象は惑星ヴィルゴであり、またその「生態系」だ。この小説は二回戦の作品のなかでもっとも批評的暴力を書き切っている。ある視点からは迷惑このうえないことに、批評というのは対象の生態系をかき乱すことがあり、しかもそれが批評の本性でもあるのだから、批評家が疎まれるのも無理ないことと言える。批評家たる女王の戦略はこうだ。まず相手、クラルククレンの論理を聞いて理解しそれに従う。次にその論理の内部でハッキングを開始する。クラルククレンのことばに従いながら、彼らの思惑を内部から食い破ってしまう。そのうえ食料と空気は相手もちなのだから、批評家が「作品に寄生している」と言われるのも無理ないことと言える。そうした点から、「蟻」は批評と作品の関係性の戯画として、この上なく完成度の高い作品だろう(実際、いまぼくはそうした文章を書いている)。とはいえもちろん、それは批評の一側面でしかないのだが、しかし批評と共生することを考えるなら忘れてはいけない視点でもある。こうした関係性を踏まえたうえで、つまり批評に内部から食い破られない強度をもった作品であることは、文芸批評と併走するうえではとても重要だ。「蟻」はその意味で、批評的読解を自壊させるプログラムが仕組まれている点で非常によくできている(批評的に読むとどうしても批評を自己批判してしまう)。とはいえ蟻たるぼくも、できれば平和的に作品と共生したい思いもある。それに実のところ、おそらく蟻とクラルククレンの立場のどちらにじぶんが立っているのか、それはケースバイケースなのだろう。批評という本能の再プログラムが、逆に作品にハッキングされるかもしれないという緊張感は常に絶えない。

 和泉眞弓「プラスチック神殿」において批評家はおばあであり、批評対象は「部屋」だ。また孫である沙弥は批評家の見習いのような存在だ。沙弥はじぶんを「モーセ」に、散らかった部屋の地層を「モーセの海原」に例えている。例えとしては秀逸ともいえるが、それは十九歳の沙弥にとっていかにも背伸びした比喩のようにも感じられる。それに対しておばあの言っていることはなんだかよくわからない。割り箸に対しては「それ、動かすな。触るな。悪いこと起きたら大変じゃ」と言い、ラベルシールのついたラップに対しては「捨てたら今日沙弥と何食べたか、わからなくなるがね!」と言う。よくわからないが、乱雑な部屋に配置された、一見するとゴミのようなものたちは、おばあの人生にとって深い意味と必然性を帯びていることが窺える。必然性は批評にとってなにより重要だ。なぜなら、理屈と軟膏はどこへでもつくという言い回しがあるように、批評のロジックは作るだけなら幾らでも作ることができる(例えば、『桃太郎』に対して異なる批評を十通りほど作ることは難しいことではないように)。そうした必然性に触れるうちに、沙弥は、じぶんが昔遊んだ魔法のクリスタルをおばあの部屋に発見し、部屋にあるごみのようなものたちは無秩序に配置されたわけではなく、おばあの人生をまるごと包み込むような螺旋の魔法陣だったことを知る。沙弥もおばあも、ふたりともふつうに考えれば「片付け能力」が致命的に低い。けれどおばあは、特殊な片付け能力に長けている。ものとじぶんの人生を紐づけ、生を豊かにする魔法。それはフィクションと呼んでもいいし、あるいは批評と呼んでもいいものだ。一般的なそれらと異なるのは、おばあの魔法は受け手に向けたものではなく、じぶんの人生のために行っているということだ。おばあは、じぶんの人生を豊かにするための批評行為を実践している。沙弥はたまたまそれを目撃し、体験した。そのことが、沙弥の人生の進路を力強く決定したことは、よいことであるように思える。フィクションや批評にやれることを感じさせてくれる。

 馳平啓樹「エッフェル塔の傘」においては批評家は待子であり、批評対象は「語り手」だ。人と人は別れのときに相手につよく働きかけることばを投げかけることがある。「いつもと同じ朝」「待子はそこに戻ろうと言った」という描写から、待子のほうから恋人関係を解消しようと提案したのだろう。待子は別れを前提としてエッフェル塔柄の傘を語り手に託したのかもしれない。柄の部分が真っ直ぐでやたら太いエッフェル塔の傘は、語り手の生活にとっては異物であるようだ。「一人暮らしのアパートに、傘は二本も要らない」ことや、傘立てに入れようとすると「真っ直ぐで太い柄が、鍵付きの金具に嵌らない」ことからそれが察せられる。また、現実のエッフェル塔は、フランス革命100周年を記念した建造物でもあり、語り手にしてみれば、雨の日にこの傘をさすことが、待子との川下りの思い出をいやおうなしに思い出させる一品となっている。いつもと同じ朝にエッフェル塔の傘をさして歩けば、川の流れと人ごみの流れとが重なりあって、固定された思い出と、すべてが流れゆくイメージが同時に語り手に押し寄せてくる。それは語り手にとって「無性に悲しくて、ほんの少しだけ喜ばしい」感情として湧き上がってくる。戻るのを恥じてはいけない、と待子は言う。「それは退屈な事でも、楽な事でも、無駄な事でもない」と言う。そして待子はきっと、その先の展開も予想していたのだろう。傘はとても忘れやすい持ち物だ。しかもそれが異物のような傘であればなおさらだ。語り手はコンビニで一度、勤務先でもう一度、傘を置き去りにしてしまう。一度目は取り戻せたが、二度目は本当に失ってしまう。そして語り手は、雨のなかでずぶ濡れになりながら、川下りの日の待子のように笑い出す。「おれは雨が降る直前の空が好きだった。今にも降り出しそうで、降るとかなりやばそうで、まだ一滴も降っていない。そんな空が一番好きだった」待子はきっと、ここまでを想定して、語り手にエッフェル塔の傘を渡したんじゃないか。恋の記念の品を手放しても、人の人生のなかでは100年を待たずにきっとまた革命の雨が降る。語り手が戻った「いつもと同じ朝」にエッフェル塔の傘を添えることが、待子の批評行為だった。そうして待子は、傘を起点に語り手の人生を批評的に読み替えてみせたのだ。川のなかで、雨のなかで、また語り手が笑えるように。

 冬乃くじ「ハッピー・バースデー」において、批評家はFと恋人のふたりであり、批評対象は「凸」だ。Fは恋人へのプレゼントとして「凸凹」のついた小さなブロックを贈り、ふたりで海や家や虎をつくりだす。「凸凹」から様々な可能性を引き出していき、色と形に明確な輪郭をつけてやり、それを名付ける。可能性にロジックという輪郭を与えて名づける行為は批評そのものだ。ところでふたりの性別は作中で明かにされていない。異性カップルなのか、同性カップルなのか。「男か女かわからないんだから」ということばは、まるで読者がふたりに向ける視線を代弁しているかのようにも響く。なぜふたりは、おなかにできたイボに「イボ太郎」という名をつけ、まるでじぶんたちの疑似的なこどものように接したのか。批評は存在しないものを名指すことも可能だ。それはほとんどフィクションにも近いが、よくできたフィクションがそうであるように、よくできた批評もまた現実ではないが現実のようなリアリティを獲得する。「イボ太郎」を媒介に語られるふたりの未来は、ありえないフィクションかもしれないが、同時にふたりにとってそれは現実のようでもある。本文中には存在しない「ハッピー・バースデー」という祝福は、恋人の誕生日も、イボ太郎の誕生も、海や家や虎と名付けられたブロックたちの誕生も、そしてありえないフィクションかもしれない未来の時間がこの日確かにあったことをまとめて祝福している。「凸」とは可能性の兆しである。ふたりが静かに眠るあいだに、世界のどこか遠くで、小さな家が、毛づくろいする虎が、砂浜に生まれている(それは現在かもしれないし過去かもしれないし未来かもしれない)。「ハッピー・バースデー」は、祝福の意味だけではなく、よい未来を信じるために「凸」に向けた批評のことばでもある。ありうる可能性とありえない可能性のすべてから、よりよい未来を引き寄せる。恋人が喜ぶ何か、手にするだけで心が躍る魔法の何か。そんな、ことば。

 海乃凧「味幸苑」において批評家は語り手であり、批評対象は「かた焼きそば」だ。予定のない有給休暇の一日に、ふと身体に沸いてきた、かた焼きそばのリアリティを現実にするべく語り手は家を出る。なぜかた焼きそばなのかはわからないが、語り手が強い必然性に駆られていることは伝わってくる。中華屋の取り壊しを目前にし、語り手の目的は一度挫折するのだが、それでも挫けずに身体感覚を総動員して語り手はかた焼きそばを口にする。その行為は、存在しないかた焼きそばとじぶんとの関係性を言語化する批評行為でもある。その場面に至るまで、語り手の意識と身体が「かた焼きそば」へとチューニングされていく様子は、滑稽さを感じるとともに、多くの読者が過去に覚えのあるだろう「ふと食べたくなった料理へと自分をチューニングしていく」ときの心情が十分に伝わってくる。そして語り手は、解体されゆく中華屋の目前で、意識と身体を総動員して存在しないかた焼きそばを食していく。「口を形作る骨を伝って耳に届く破壊音は、この世の全員が生まれつき共通で備え持つ『よろこび』という感覚に等しい」といった評は、見事にかた焼きそばの魅力を批評している。「人はやさしさをこの瞬間に学ぶのか」ということばも、人とかた焼きそばの関係性を再定義している。それは過去の中華屋で食べたかた焼きそばであると同時に、このときの語り手固有のかた焼きそばでもある。目の前にないかた焼きそばへの批評が、同時に読者にも感染し、まるで読者も語り手と同時にかた焼きそばを食している思いにさせられる(しかしどちらもかた焼きそばを決して食べていない!)。よい批評は、読者に対して批評対象の作品を読みたくなるよう働きかけるものである。この作品もまた、読者に対して批評対象のかた焼きそばを食べたくなるよう働きかけている。良質な批評を読んだような読後感を覚えた。

 蜂本みさ「オテサー糠」において、批評家は糠太郎であり、批評対象は「家庭」だ。糠とは小さな生態系で、それは人が生きる生態系とは質的に異なっている。批評家=糠太郎という異なる生態系との共生は、よろこびをもたらすこともあれば、関係性の不和をもたらすこともある。ジャッジが参加するBFCもまた、「オテサー糠」と同様に異なる生態系を内部に宿している。糠太郎に野菜や隠し味を与えると、おいしい糠漬けが出来上がる。さらには別の糠床を与えてやると大きく変化したりもする。調子を崩すと糠漬けの味も落ちる。批評家のように一筋縄ではいかない存在だ。それでもコロナ禍において、この家庭には糠太郎が必要とされていたことも事実だ。ところで、冒頭で糠床とペットが似ていることが示唆されるが、例えば猫を飼ったとすれば、それまで意味をもたなかったスペースに意味が生まれたり、家具の機能が変わったりもする。どうして人の生活に、糠床やペットのような異なる生態系が有用に働くのか、そのメカニズムは言語化がとても難しいのだが、「オテサー糠」はそのメカニズムのリアリティに関しては十二分に書ききっている。あらゆる生態系は、本質的に異なる生態系との出会いを望んでいるのかもしれない。


■総評

 こうしてみると、どの作品も「批評家」と「批評対象」というモチーフを用いた話がよく書けており、すべての作品にまず1点を加点した。そのうえで、さらなる加点を考慮した。
「エッフェル塔の傘」は批評のポジティブな側面を汲み取った非常に完成度の高い作品だが、他作品の表現が、批評の感染性や暴力性や創造性にまで及んでいたことから、今回の評価基準では相対的に加点が抑えめとなり2点とした。
「ハッピー・バースデー」は批評によって、ありえないが存在する可能性を現実に呼び起こすという力業によってよい未来を引き寄せる話として興味深く読んだ。ただし、ラストの場面は「魔法」ということばだけではやや力業が過ぎるきらいを感じ、加点は2として3点とした。
「味幸苑」は読者に批評対象への興味をつよく喚起させるという批評の力が存分に振るわれていて頼もしかったが、それ以上の伸びはなかった。加点を2として3点とした。
「オテサー糠」は糠床という異なる生態系の活躍が、家庭という生態系に関与する物語であり、批評と作品というふたつの生態系の緊張関係を読み取ることができたことを加点とした。惜しむらくは、夫が実家から持ち帰った糠床の活躍があっさりと終わってしまったことだろうか。ここはもう少し複雑さが書けたように思う。加点を2として3点とした。
「愚者たち」は彼女によるオカルト的批評の感染が、語り手を超えて読者にまで届きかねない作品の力が実に魅力的で、加点を3として4点とした。
「プラスチック神殿」は沙弥がおばあの部屋の螺旋の魔法陣からよい生き方を学ぶという、批評の力の継承をうまく書かれており、加点を3として4点とした。
「ホワイトライフ」は不在によって逆説的に批評家の存在感を際立たせたことが非常に優れていた。この作品のみ前作を参照した理由は、対岸という距離のモチーフや、白と赤の対称的イメージがあることに加えて、二作品を重ねた読解のポテンシャルが重層的に深まると確信したからだ。他作品にも前作との共通性は存在するが、「ホワイトライフ」ほどの飛躍は発見できなかった。最大の加点を付して5点とした。
 最後に「蟻」は、この作品へ批評を行うことが批評の自己批判を招くという構造と、そこから導き出される批評の暴力性の露出が、ジャッジであるじぶんにもっとも刺激的な「なぐりあい」的な読み書きを求めていたことから、最大の加点を付して5点とした。
 こうして5点の作品がふたつになってしまったが、批評がない世界の一端をリアリティをもって書ききった「ホワイトライフ」を、ここではつよく推すことにし、これを「勝ち」作品とした。


〇点数
由々平秕「愚者たち」4点
笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」5点
白川小六「蟻」5点
和泉眞弓「プラスチック神殿」4点
馳平啓樹「エッフェル塔の傘」2点
冬乃くじ「ハッピー・バースデー」3点
海乃凧「味幸苑」3点
蜂本みさ「オテサー糠」3点

〇勝ち 笛宮ヱリ子「ホワイトライフ」



※本ページの文の権利は各著者に帰属します。



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