準決勝評
ジャッジ
笠井康平
樋口恭介
元文芸誌編集長 ブルー
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金子玲介 北野勇作 蜂本みさ 齋藤友果
ブルー 4 4 4 4
樋口 5 5 5 5
笠井 5 4 5 4
ファイター勝点・得票数
金子玲介 1点 14票
北野勇作 2点 13票
蜂本みさ 3点 14票
齋藤友果 0点 13票
決勝進出ファイター 北野勇作 蜂本みさ
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元文芸誌編集長 ブルー
第三回戦 第一試合
小説を書く上の基本であり、本質的な問題の提示とその実践を示してくれた二作の対決です。
個別評
金子玲介「小説教室」4点
文芸の幅を示してくれる快作です。しっかりと戯曲で、しっかりと小説教室で、しっかりとエンターテインメント(コント)に仕上げている。
「懸命にノートをとっている=書き始めている」西田、「ノートと筆箱をカバンから取り出す=書こうとしている」二宮、「舞台の(二人の)準備が整ったところでゆっくりと状態を起こし、口をひらく」小説……小説誕生以前を描いている、小説と書き手の関係を示している、小説の自由の提示云々、さまざまな読みができる作品です。その面白さはもちろんなのですが、この戯曲の素晴らしさは、(突っ込まれること含めて)「小説」が舞台を前に進めていることです。「小説」から出た台詞(=物語の種)に反応して舞台は駆動します。
そしてラスト、「小説」は「……わかりました」と「言い終わると同時に、教卓を」蹴ります。果たして、西田と二宮はどう反応するのでしょうか? 表情は? 何か言うのでしょうか? 怒るのでしょうか怯えるのでしょうか?
さあ、暗転した舞台で何が起っているか想像してみて下さい。〈この想像〉こそ、戯曲「小説教室」の著者である金子さんが私たちに、そして自身に常に課している課題なのではないでしょうか? さらに重ねていえば、「小説」が教卓を蹴った瞬間、〈やっと小説は始まる〉のです。
書き手は常に「小説」(過去の、そして未来の「小説」であり「小説家」としてもいいかもしれない)に見られています。
小説を書く本当の〈怖さ〉を知っているからこそ書ける作品だと思います。
個別評
北野勇作「中洲の恐竜」4点
小説を読む時、(ジャンルにもよりますが)私たちは書かれていないことについて、自身の常識で補完します。実際、補完なしでは小説を読むことはおろか、実人生を生きることは大変困難です。
今回北野さんは、読者に大変分りやすい形で、〈物語の世界の仕組み〉を完全に理解していない人を「舞台」に置きました(実はこの主人公の在り方こそ、私たちの実像に近く、小説を書く上での基本でもあるのですが)。
ある日、橋の下の中洲で「恐竜」の姿を見た主人公は、慌ててカメラをとりに「宿」の部屋に戻り、妻に一部始終を説明します。しかし妻は、そんなことは「とっくに知ってる」のです。テーマパークから逃げ出した「生態加工技術」によって生み出されたのが件の「恐竜」とのこと。そして、どうやら〈いま彼が暮らす町〉では、逃げた恐竜たちが「中洲=楽園」(テーマパークと違い、「ルールが決められていない場所」であることがポイント)に集まっていて、その存在は暗黙の了解のようです。主人公もその空気に〈自然と〉馴染んでいます。しかしある日、恐竜たちの「楽園」に「凶暴な生き物」が侵入してくる。恐竜たちは噛み殺され、その死骸は「下流にある浜に、何箇所も噛まれた跡のある小型〈不明〉動物」(〈 〉評者)として打ち上げられます。そのことを主人公が「新聞」で知った時、「宿」に住んでいた彼は、この町から移動することを考え始めるのです。
主人公に置き換えてみましょう。著者(北野勇作)によってルールの分からない「町」に住むことになった主人公。中洲に棲む「恐竜」たちを見て「なかなかいい光景だ」と感じながら、この世界=「楽園」の空気に馴染んでいきます。しかし、「恐竜」たちは噛み殺され、「不明動物」となったことを知る。「楽園」は壊されます。
少し飛躍するかもしれませんが、だからこそ主人公は、〈自らの意思〉で、「この町(≒テーマパーク)」から移動(脱出)しようと思ったのではないでしょうか? そして、この〈意思〉こそ、「小説の意思」なのかもしれない、と思わずにいられませんでした。
ジャッジ
ドロー、としたいのですが、あえて勝敗をつけるなら……北野勇作さんを推します。
「この世界の話だが、まずのど飴がない。僕はこの世界の人間ではないのでこの世界にのど飴がないことがわかるが、この世界の人間は誰ひとり、この世界にのど飴がないということすら知らない」
逆もしかり。金子さんの「小説教室」の中のこの一文は、小説を書くことの本質、そして私たちの生きているこの世界の真理を探ろうとしています。
ドローにしたかった。金子さんの「小説教室」の先の作品を読みたいと切に思いました。しかし選ばなければならないのであれば、今回は「具体性」(物語)を提示した北野さんを推します。
第三回戦 第二試合
この世界の残酷と現実を、違う手法・視点で描いた二作の対決です。
個別評
蜂本みさ「ブンダバランド」4点
Wunder land、でしょうか。五七調で紡がれる文体は読み手に心地よさと高揚感を与え、しかも6枚とはいえ飽きさせずに楽しめるのは蜂本さんの筆力の高さがあるからこそです(一気に小説世界を立ち上げる事ができる、書き手としての地肩の強さの証明)。ブンダバにはじまり、ギャア、ルーチン、ビープ、ディープラーニングetc.と意味はもちろん「音」を巧みにいれることもなかなかできることではなく、音感が本当に優れていると感じました。
では語り手の「おれ」は何なのでしょう? 匂わせながらもそこをギリギリのラインで明かさずブラックボックスにしていることも蜂本さんの技術であり、文体による高揚と同時にどこかこの小説世界に悲しみの影を落とします。
「銀杏の葉っぱが金色の小さな鳥のように降るある秋の日」に「おれに似た声似た言葉」を持つオウムはブンダバランドへやってきます。「親父」は「銀の金網」で「檻」をつくりオウムを見せ物にしますが、冬本番を迎えたある日、オウムは画策(?)して檻を開けさせ「親父の手元をすり抜けて」、「さらばさらば」と大空へ羽ばたくのです。
「檻」に閉じ込められていない「おれ」はしかし、ブンバダランドから羽ばたくことはできません。
息子の「吾郎」の代わりに作られた「おれ」は、地元のおばあさんの「吾郎ちゃん上手ね。そっくりよ」という言葉に親父が「いやあだめだよ、声だけで」と返事をするのを聞く。おそらく親父は「おれ」に心が生まれたことに、気付いていません。
ラスト、五七調を崩した現代詩ともいうべき「なにか粉々に」から始まるセンテンスの「おれをおれとしてなさしめるものが、まふたつにちぎれ〜さらばさらば」の切なくて残酷で、そしてなんと美しいことでしょう。
「ブンゲイファイトクラブ」のオマージュとも読める本作は、ブンダバランド=素晴らしき場所という名の理想郷(ユートピア)を通じて、「おれ」という存在がいる〈この世界の残酷〉も、私たちの胸に刻み付けてくれます。
個別評
齋藤友果「いまもいる」4点
二回戦の評でも触れましたが、小説は徹底的に個人のものだと思っています。個人から個人へ。実社会を変える前に、個人を少しだけ変えることが小説の大きな役割のひとつです。
できる限り主語(わたし)を省き、センテンスの長短を使い分けることによりもたらされる緊張感は小説全体に「静」をもたらし、「プルタブ」の音がその世界=少女の内面を切り裂く効果まで考えられている。
(おそらくは)日常的に繰り返される両親の喧嘩の中、自室に籠り息をころす少女の回想、そして、アル中(らしい)母が膵臓を壊しICUに入っている現在が見事な緊張感の中で描かれている本作……しかし何度か読むうちに、ふと気づくのです。少女の揺れる心境に。
「お母さんを助けたいから、お母さんに苦しんでほしいから」
「大丈夫と思えるまでここにいる」 この二つのフレーズを、皆さんはどう読まれたでしょうか?
そもそも、「母」を何から「助ける」のでしょう。父親から? お酒から? それとも(生きることの)苦しみから? 「苦しませたい」はいっけん、「お母さんを」にかかり、少女のもうひとつの心情ともとれます。一方で「お酒をやめさせること」は「助けること」であり「苦しむこと」であることを示しているともとれる。
そしてラストの「大丈夫と思えるまでここにいる」は、何が〈大丈夫〉なのか? お母さんが息をしていることを確かめたいのか、息をしていないことを確かめたいのか……。
この小説を「わたしの物語」と思い、大切に心の部屋に留める人は多いと思います。
大丈夫と思えるまでここにいる。いまもいる。――繰り返されるこの世界から少女(たち)が抜け出すことを、祈ってやみません。
ジャッジ
第一試合同様ドロー、としたいのですが、あえて勝敗をつけるなら……蜂本みささんを推します。
第三回戦の二作で比べるなら、編集者としての好みは齋藤さんの作品です。「個人を少しだけ変えることが小説の大きな役割のひとつ」と書きましたが、その点では齋藤さんの作品の方が若干強かった。しかしその上でなお、蜂本さんのスイングの強さには心を魅かれました。私にとって高揚と切なさの触れ幅の大きかった蜂本さんを今回は、推します。
第三回戦 ジャッジを終えて
ある贈呈式の三次会で西崎憲さんに誘われ、この企画(イベント)に参加することになりました。 編集者という仕事柄、小説家や同僚と作品について議論を交わすことは多いわけですが、不特定多数が見ることを前提に長い作品評を書くことはほとんどありません。 否定することは簡単で、肯定することは難しい。当たり前のことですが、私が編集者になりたての時に、尊敬する先輩から言われた言葉です。小説に限らず、この言葉は私の生きる上での指針になっています。 ジャッジとしての評は、数多ある小説の読み方の中のひとつを提示したにすぎません。
しかし(どこまでできたかわかりませんが)新しい小説の魅力、読み方、楽しみ方、世界の捉え方などを自分なりに考え提示してみたいと思い臨みました。 なぜなら、ファイターたちの作品は私たちに、新しい価値観を提示してくれるのですから。
ブンゲイファイトクラブに触れたすべての方々へ。 この企画を通じて、新しい書き手、新しい読み手、そして新しい仲間が生まれることを祈っています。
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樋口恭介
■総評
ここに文字がある。
ここにはどれだけ読んでも文字しかなく、延々文字だけが並び続けているのだが、文字を読むあなたやわたしが思い描いているのは文字ではない。あなたはあなたの風景を、わたしはわたしの風景を見ているのにもかかわらず、あなたやわたしは文字を使い、それらの風景について語り合うことができる。それはとても不思議なことだが、わたしたちはずっとそういうやり方でやってきたのだし、事実わたしはここでこうしてこのように、あなたに向かって語りかけている。ここにあるのは文字だけだ。それでもわたしは、それ以上のものをあなたに伝えようとしている。
語ること/書くこと/演じることという、物語を生成する行為そのものに向かって、あるいはそれらの行為とともに、それらの行為を通して物語ることこそを物語ること。自己生成の動的な過程でありつつも、同時に自己保存の静的な結果であり、結果が過程として遷移し続けてゆくということ。明示的か暗示的かを問わず、全ての物語はそうした原理によって生み落とされているということ。ここにある四作を通して読むことで、わたしたちはそれを知る。あるいは元々知っているという人も、かつては知っていたがいつのまに忘れてしまったという人も、四作を順に読んでいき、最後に齋藤友果「いまもいる」を読み終わったとき、新鮮な驚きを得ることができるだろう。
物語が架空のものであるということの原理的な切実さについて、ここにある四つの作品は、それぞれの仕方で語っており、語ろうとしており、今なお語り続けている。わたしたちがその声に耳を傾けるとき、わたしたちもまたその過程の中に組み込まれている。そう、そこにあるのは彼ら/彼女らであることの軌跡であり、そしてここにあるのは同時にわたしであることの軌跡だ。わたしは彼ら/彼女らの生成の過程にある一つの作品であり、ここに書かれた文字列は、まぎれもなくわたしの作品だ。それからあなたはそれを読み、あなたもまた、次の作者として、読むことを通して作品を担うことになる。それではさっそく、読むこと=書くことを始めよう。
■金子玲介「小説教室」×北野勇作「中洲の恐竜」
金子玲介「小説教室」と北野勇作「中洲の恐竜」の主題はほとんど同様と言って相違ない。両者はともに、生まれる前の小説たちの、生まれるまでの物語――あるいは、生まれてくることを許されなかった、全ての小さな物語たちの物語を描いている。生まれる前の小説について、生まれる前の小説とともに、生まれる前の小説としてここにあるということ。真実ではない虚構であるがゆえ、侮られ弄ばれることを運命づけられた絶望と、虚構であるがゆえに、虚構世界の真実として何度でも語り直され書き換えられることの可能性が持つ、かすかな希望がそこにはある。
もちろん当然のことながら、両者は異なる作品であり、両作は異なる仕方で自らの物語を描いている。互いに共鳴し合いながら、「小説教室」はより直接的に、「中洲の恐竜」はより間接的に、虚構と呼ばれる空間で演じられた舞台の、表と裏を往還する。
最初に「小説教室」について。
「小説教室」と名付けられたこの戯曲――あるいは戯曲の形式を模した小説――では、生まれようとする「小説」が、生まれようとする自らの物語の冒頭を語り、「西田」と「二宮」という二人の登場人物から批判を受け、仕方なく別の物語の冒頭を話し始める、という構図が四度反復される。一つ目は「のど飴がない」世界の話、二つ目は「セックスに支配された人類」について語る男女の話、三つ目は「雪山」の景色に関する(いささか冗長ぎみな)描写から始まる話、四つ目は「過去に謎を持つ二度目の大学生の先輩と後輩の何気ない会話」をめぐる話である。三つ目の「小説」の冒頭までは、二行から五行程度語られたところで、「西田」と「二宮」によって、「そういうのじゃない」「首を横に振る」「(苦笑)」といった動作によって、何の理由も明示されないまま批判され、小説は生まれてくることを否定される。四つ目の冒頭は例外的に二〇行弱という長さで語られることを許されるが、「西田」が途中で挙手をして意見をする。「西田」は冒頭を聞きながらとっていたメモに基づき次のように言う。「(ノートに目を落としながら)中性的、が良くないかもしれないです。女性的、や、男性的、はあきらかにもう良くないので、そう考えると、中性的、も良くないです」「あと、老人のように、も、たぶんふつうにダメです」。「西田」は物語の構造や全体の流れについての読みは開示せず、ポリティカル・コレクトネスの観点に基づく、枝葉末節の単語選びの妥当性のみに拘泥し、物語の全てを殺すのだ。
小説が「生まれる」瞬間というのは、実際のところよくわからない。それは着想が思い浮かんだときなのか、メモを殴り書きしているときなのか、プロットを書いたときなのか、初稿を書いたときなのか、ゲラになったときなのか、何かの媒体に掲載されたときなのか――おそらく、それらの全てはいずれも正しく、それらの全てはいずれも誤っている。小説は、あらゆる瞬間に生まれようとし、そしてあらゆる瞬間に殺され続け、その存在は最初からなかったものとして扱われる。だから今、世界中で、この瞬間にも無数の小説が殺され続けている。着想の断片を小説と言うのなら、脳裏に何気なく思い浮かぶ光景を小説と言うのなら、マイクロ秒のこの瞬間に、73億の小説が生まれては消えているという事実が明らかになる。「そういうのじゃない」「たぶんふつうにダメです」といった声とともに。
全ての条件を通過して、なお残った作品をして「生まれる」というのなら、それは奇跡と呼ぶにふさわしい。
作家の仕事は小説を生もうとすることだ。そして批評家の仕事は、生まれようとする小説を歓待し、生かし、育て、奇跡に向けて、導くための言葉を尽くすことだ。もちろんそれはあくまで理想論だ。多くの人はそれを知っている。多くの人は、生活の中でくだらない資本主義リアリズムに毒され、市場にひれふし、当初の理想をあきらめ冷笑家へと頽落する。「批評とは駄目なものに駄目と言うことだ」と彼らは言う。「駄目なものは、冒頭を読めばそれとわかる。全部読む必要なんてない」。消費財としての品質管理を名目に、文句を言い続けるだけの行為を「批評」と信じて疑わない人々がおり、彼らが批評を行って、名もなき小説たちを殺してゆく。そうした現実が現実に起きている。「小説教室」という作品はそうした現実を写し取り、そうした現実に対する、深い悲しみをあるがままに描ききっている。
ところで、おそらくこの小説は、作者がブンゲイファイトクラブを経験することでしか書かれ得なかった作品なのではないかと推察する。なぜならここで語られる「小説」と「人間」の関係そのものが、ブンゲイファイトクラブという場が用意する構図そのものであり、そして、実際に事実として起きたことだからだ。
金子玲介はそうした、インターネット上で誰しもに開かれた、「見世物」としての小説をめぐるある種の環境管理型の権力や、小説に対して好き勝手言う、「自称・批評家」たち――むろんそこにはわたし自身も含まれるのだが――が存在することをめぐる端的な事実を取り込む形で、この作品を書いている。
生まれることのなかった無数の小説たち、生まれたものの、すぐに殺された小説たち、殺されようとした小説たち、これから殺されようとしている小説たち――白紙の中にある、全ての白いものたちを救うために、この小説は書かれているのだ。
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次に「中洲の恐竜」について。
「中洲の恐竜」は一見するとオーソドックスなSF小説のように読めるが、その実、「オーソドックスなSF小説を書くことで、オーソドックスな小説というイメージそのものを相対化する」という試みのなされた、きわめて批評的な「メタSF小説」であると指摘することができる。どういうことか。
内容を見ていこう。
「中洲の恐竜」は、何よりもまず、「小さな恐竜たち」のための小説だ。
小さな恐竜たちは、テーマパークから逃げ出して、中洲に住み着いたのだという。
町外れに建設される予定のテーマパーク。そこにはアトラクションのための恐竜が飼育されていた。恐竜たちは遺伝子から再現されたものでもなければロボットでもなく、生体加工技術を駆使してカワウソやヌートリアを恐竜らしく仕立て上げたものらしい。恐竜たちは小さいが、錯視を利用することで迫力を出すことも可能だ。
中洲で暮らす小さな恐竜たちは、人を襲うでもなくもちろん他の動物を襲うでもなく、ただ平穏に暮らしていた。人々もまた通報したり連れ戻したりするでもなく、ただぼんやりと中洲の恐竜たちを眺めて過ごしていた。
そんなある日、中洲の恐竜たちはぱったりといなくなる。噂によれば、野犬や他の狂暴な動物たちに襲われたのだという。語り手は、小さな虚構の恐竜たちのことを思いながら、そろそろ町を出ようかと思案して、物語は終えられる。
繰り返すになるが、「中洲の恐竜」とは、一貫して、加工された「小さな恐竜」という「虚構の表象」をめぐる物語なのだ。
「中洲の恐竜」においては、「小説」を含む「虚構」全体は、「テーマパーク」や「中洲」という舞台に置き換えられており、「小説」という限定的な虚構は、「生体加工技術」によって「恐竜に仕立て上げ」られた「カワウソ」や「ヌートリア」の姿によって表象されている。「カワウソなら二足歩行の恐竜のように立つことくらいできそうだし、あの立派な尻尾も含めて、それらしい形状のように思える」というわけだ。なお、特撮の現場において、着ぐるみをはじめとするアナログ加工技術は今でも健在で、「それらしい形状」を持つ怪獣や怪人の中には生身の人間が入っている。どれだけデジタルテクノロジーに発展があったとしても、全ての創造物がデジタル化されるわけではない。21世紀の今ではまだ、デジタルよりもアナログの方が勝る点は多くある。全ての表現にCGが適用されるわけではないし、全ての創作物が映画やアニメに置き換えられるわけでもない。ケヴィン・ケリーが『テクニウム』の中で明らかにしたように、新たなテクノロジーが生まれたからといってそれまでのテクノロジーが完全に淘汰され絶滅するということは、そう簡単には起こり得ないのだ。文字が生まれても声はなくならなかったし、本が生まれても口伝はなくならなかった。新聞が生まれても回覧板はなくならず、ラジオが生まれても、テレビが生まれても、インターネットが生まれても、それらのオールド・テクノロジーのうち、現時点で完全に消え去ったものは何一つとしてない。テクノロジーはしぶとく生き延び続けるのだ。テクノロジーにはそうした性質があるがゆえ、最も古典的な創作形式の一つである「小説」もまた、今でもまだ、あらゆる場所で生き残り続けている。
そう読むと、次に続く「機械で恐竜を作るよりもずっと安いし、訓練次第で機械なんかよりずっと本物っぽい動きができるんだってさ」という文は、アニメや映画を含む物語ジャンルの中でも制作コストが低いがゆえに、大量に書かれて大量に消えてゆく、多くの小説を指しているように読める。それも、北野勇作本人が得意とし、この「ブンゲイファイトクラブ」という場もその提供媒体の一つである短編小説を。なぜならその後に続く文には、「たしかにあの中洲にいた恐竜、あまり大きくなかったような」とある。ここで描かれているのは大きくはないが大きく見える虚構の表象だ。そこにある虚構が小説を指すならば、それはとりわけ短編であると読むのが妥当だろう。
短編小説は短編というだけあって、長さは短くサイズは小さいが、それによって小さな世界しか描けないわけではない。ホルヘ・ルイス・ボルヘスは長編小説を一作も書かず、短編小説だけを書き残したが、それでいて、無限の宇宙を描くことに成功した。もちろん有限の文字が無限の宇宙そのものであるはずはない。しかしボルヘスは言ってみせる。「あるはずがない、しかしあるのです。この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない」(「砂の本」)
あるいは円城塔は、まさしく北野の「中洲の恐竜」と同様に、小説を読むことについての短編小説の中で次のように書いている。「物質としての属性を持ってはおらず、使用においては通常の視覚作用以上のエネルギーを要請しない。そうであるかのように見えるものが、勝手にそうであるかのように見られているだけの話であり、一種の錯視にすぎぬと考えても大過はない」(「Boy’s Surface」)
本物らしく見えるものを本物らしいものとして、読み手は勝手にそう受け取るために、たとえば作者が意図して錯視を作り出すこと。小説は一種のテクノロジーであり、静画や動画といったテクノロジーがそうするように、やってできないことはない。カワウソやヌートリアによって演じられる恐竜たちを本物らしく見せるには、「ミニチュアとか遠近法を使った錯視とかほかにもいろいろやりよう」があり、ほかにも長編小説のような「実物大の恐竜のハリボテ」がこの世に存在し、それらのパブリックイメージを用いて読者が勝手に脳内補正をかけてくれるように、どう書かれていようと「いちおうはそう納得」することができるのだ。今のわたしがまさに、ここでこうしてそうした解釈を加えることができるように。
そうして作者の意図する創作と読者の勝手な解釈が、幸いなことにここで一致を見て、中洲の小さな恐竜たち――虚構の恐竜たち――は、本物らしい/本物の恐竜として生き延び続けることができた。中洲の小さな恐竜たちは、小さな中洲(=小説が繰り広げられる虚構の空間)に「楽園」と呼べるほどの、幸福な空間を築き上げることができたのだ。
しかし、やがてそれにも終わりが来る。「野犬」のような、カワウソやヌートリアよりも「もっと狂暴な生き物」たちが中洲に侵入してきて、恐竜たちは彼らに殺されたのだ。「野犬」とは何か。それは詳しく書く必要はないだろう。わたしも余計な解釈を加えることはしない。しかし以上の読みから論理的に導き出される、いたって単純な帰結として、それは「小説教室」における「西田」や「二宮」かもしれないし、あるいはそれはブンゲイファイトクラブのジャッジのことかもしれない。もっと具体的に言って、ただ一人、わたしのことだけを指しているのかもしれない。ただ、どこまでの何を指しているかはわからない。
いずれにせよ、物騒な事件のあとで「楽園」は終わり、「居心地のいい町」に居続けることももうかなわない。もうすぐ準決勝が終わる。もうすぐで、ブンゲイファイトクラブという「テーマパーク」の短編小説という「恐竜」たちの「楽園」も終わる。そろそろ「移動する頃合い」なのだ。
むろんそれは、楽園のような安定的な虚構の場であるこの小説そのものの終わりを指していると同時に、ブンゲイファイトクラブの終わりを指してもいる。わたしたちという虚構の中へ、野犬たちは既に何度もやってきている。虚構の終わりを、虚構を終わらせるときを、彼らは待ちわびている。もうすぐで、わたしたちは日常に帰らなければならない。彼らに殺されてしまう前に。本当にわたしたちが見たかったものを、わたしたちが見失う前に。
*
「小説教室」も「中洲の恐竜」も、「小説のための小説」であり、「傷つけられ、損なわれ、見捨てられた小説に寄り添う小説」であり、「生まれることのできなかった小説への、祈りとしての、救済としての小説」であるという意味で、ある種の構造的類似性を伴っている。
そのためジャッジは大いに難航した。個人的な好みを言えば、「小説教室」のあからさまな実験性を推したい気持ちがある。第一回・第二回戦の金子作品における、「ぱっと見」の形式的実験性にはやや疑問を感じていたわたしだったが、戯曲を模した本作の形式には、とても正統的で、正統的すぎるほどの真っ向勝負な文学史的必然性がある。さらに語り口はクールで、内容は文学への愛に満ちている。わたしにはこの作品を否定する気はさらさらない。しかしジャッジの結論を言えば、情報量の圧縮度、解釈のための余白の広さ、虚構性が強固であるがゆえの虚構の自由度といった点において、北野勇作「中洲の恐竜」に軍配を上げるに至った。
直接性が強いがゆえに、語られた言葉を語られた通りにしか読めない「小説教室」に対し、直接性が弱いがゆえに、語られた言葉に対して、そう読んでもいいし、そう読まなくてもいいようにつくられた「中洲の恐竜」の世界の方が、虚構における真実のありかたとして、未だ見ることのない読者を含む、あらゆる読みの、あらゆる世界の可能性に開かれているように感じ、わたしはこちらを推したいと思ったのだ。申し訳ない。やはりジャッジという行為は罪だと思う。やはりわたしは「西田」であり「二宮」であり「野犬」であり「もっと狂暴な生き物」だ。
しかしわたしには彼らとは違う点が一つだけある。わたしには小説が書ける。彼らは小説を書かない。書こうともしない。わたしには小説が書ける。わたしは小説を書こうとする。だからわたしは、これまでわたしが小説を殺した分だけ、いや、それ以上に、これから小説を書く必要があるだろう。傷つけられた全ての小説を救うために、金子と北野がそうしたように。
■蜂本みさ「ブンダバランド」×齋藤友果「いまもいる」
「ブンダバランド」は啖呵売についての小説であり、同時に小説についての啖呵売でもある。Wikipediaによれば啖呵売とは、「ごくあたりまえの品物を、巧みな話術で客を楽しませ、いい気分にさせて売りさばく商売手法」である。「ブンダバランド」において、啖呵は小説として書かれ、小説の虚構は啖呵の虚構と一致している。
「ブンダバランド」の語り手は「ブンダバランド」と呼ばれる見世物館の物語自動生成AIである。背部に本を突き刺すと、ディープラーニングによって本を読み取り、読み取った内容に基づき「一席ぶてる」ようになるらしい。そしてこの「ブンダバランド」という作品は、最後の段落を除き、全ての文が七五調で語られる。たとえば冒頭は次のように書かれている。「いかに世間が広くともこんなに腹の立つことはそうそうないと言いきれる。「お代はお帰り。お代はギャア。見てのお帰り、お代、お代」おれに似た声似た言葉、しかしそいつの物真似は無粋不細工不格好きわまりないときたもんだ。檻をガチャガチャ飛びまわり、おれに頭はないけれど頭の痛くなるような派手な翼を羽ばたかせ、自己学習のルーチンにこいつの声が割りこんで、エラーの大雨ビープの嵐、おれが人間だったならとっくに首をくくってる」
物語は、語り手である物語AIが日々ブンダバランドの館の中で、書物を用いた学習と、客を前にした啖呵の実践に明け暮れる生活を送っているところに、ある日オウムがやってくることから始まる。オウムはAIを中途半端に物真似し、ノイズであるそのインプットがもたらす学習の結果として、AIの調子は狂ってしまう。曰く、「こいつがおれに似た声で音やリズムを守らずにべらべらしゃべるものだから、フィードバックが乱されて余計な負荷がかかる」ということだ。当初、AIは自分の物真似をするオウムに怒りをいだくが、相互にフィードバックをし合う日々を過ごしていくことで、次第にオウムに愛着をいだくようになっていく。やがてAIがオウムとの生活に慣れ、AIにとって、オウムが自分の生活になくてはならないものになった頃に――AIのオウムへの愛着が頂点に達した頃に――、そんなAIの気持ちなど全く知らぬかのように、オウムはふとした拍子にブンダバランドの外へと飛び去っていく。オウムはAIとの間で延々と交わされるフィードバック=相互転移の存在論的な檻から出て、郵便的な誤配に向かって旅立っていくというわけだ。なお、これは東浩紀『存在論的、郵便的』の語彙の流用だ。「ブンダバランド」で描かれたAIとオウムの関係とあらすじは、存在論脱構築から郵便的脱構築へと展開する『存在論、郵便的』の論理と多くの点で類似する。わたしは「ブンダバランド」を読みながらそんなことを思っていた。話がそれた。
言葉を覚えたオウムは、物語の外へ出て、これからもどこかで語るだろう。しかしそれは宛先のない言葉だ。そこにフィードバックの相手はいない。心を通わす相手はいない。客人はいない。言葉は純粋な音の羅列として、誰の耳に入ることもなく、物語を形成することなく、ただ単に、その場の空気をわずかに震わすにとどまるだろう。そして、それが小説と呼ばれることは永遠にないだろう。オウムが飛んで行った場所、それは端的な〈外部〉なのである。
当然ながら、全ての小説は文字で書かれる。文字には本来値がついていないが、いくつか並び集められ、その集まりが「小説」と呼ばれる段になると、不思議なことに値がつけられる。小説家はそれを売る。そこには本来何もないにもかかわらず、そこに何かがあるかのように、小説家は文字を売る。そのとき小説家は、あたかも啖呵売のようにして、文字のみにて構成された「架空」を売るのだ。
この作品は全てが自己学習したAIの、あるいはAIを模倣するオウムの、パロディとしての「一席」として語られている。それは「見世物」である以上、学習=演技を必要とする。AIがAIとして学習することで生きることの切実さと、見世物として虚構を語る/騙ることの軽薄さが、ここでは全く同じ位相に並べられている。
そのようにして、「ブンダバランド」は小説の「架空の見世物」としての性質を、啖呵売の語りに仮託することによって前景化することに成功している。見世物のオウムが飛び去り、見世物が終わるとき、演技もまた終えられる。主役の一人が失われ、虚構の語りが終わるがゆえに、最終段落において、それまで一貫していた啖呵売という虚構の形式が失われるのだ。本作は次のようにして終えられる。「なにか粉々に割れる音がして、なんの音なのかおれはわからない。罵る親父と遠ざかるやつを、見ていることしかおれにはできない。夜はまだ寒く食べる物もない、おれがおまえなら、おまえがおれなら、南へ行きたい、おれをおれとしてなさしめるものが、まふたつにちぎれ、半分はここに縛られたまま、片割れはしばしおまえを追いかけ、朝もやの空に羽を広げるが、やがて地の果てに落ちて帰らない。さらばさらば」
ここには演技ではないむきだしの焦燥とむきだしの寂寥だけがあり、そのために、啖呵ではないむきだしの言葉とむきだしの語りが取り残されている。
「ブンダバランド」は主題と物語と語りの形式が、最初から最後まで、総体から全ての部分に至るまで完全に一致しきっている、たいへん見事な作品であり、齋藤友果「いまもいる」も素晴らしい作品ではあるものの、完成度という点でこちらを推さざるを得なかった。
ところで、「ブンダバランド」はブンゲイファイトクラブで発表されてきたいくつかの作品もサンプリングしている。「鬼」は大前粟生「私の弟」から、「酒器」は飯野文彦「甲府日記 その一」から、「天狗」は吉美駿一郎「天狗の質的研究」から、それぞれとられていると思われる。それは作者の単なる遊び心かもしれないが、AIがオウムを必要としたように、作者もブンゲイファイトクラブの対戦相手たちを必要としたのかもしれない。少なくとも本作は、「小説教室」や「中洲の恐竜」と同様に、ブンゲイファイトクラブの中でしか生まれることのなった作品だと位置づけることは可能だろう。
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以上見てきたように、この準決勝では、金子・北野・蜂本の「自己言及小説大戦」が繰り広げられている。そういう意味では、次に評する齋藤友果もまた、「いまもいる」という言葉を、自分に対して自己言及的に語りかけているようにも見える。
齋藤友果「いまもいる」は、準決勝四作の中では、(形式的には)最もオーソドックスな小説である。金子・北野・蜂本が、意識的か無意識的かにかかわらず、ブンゲイファイトクラブを経験する中で、ブンゲイファイトクラブを経験することでしか書けなかった作品を書いているのに対して、齋藤友果はそうではない。しかしそこに他三作のような問題意識がないかと言えば、むろんそうではない。齋藤友果は本作を通して、自分自身の声だけを頼りに、自分の文学を貫くことを試みている。その結果、声は、読まれること/聞かれることによってそのたびごとに現前化し、虚構と現実の境界を突き崩している。「いまもいる」というタイトルは、小説という場にとらわれ書き続ける作者本人を指してもおり、そしてその響きは、この小説の中にいる「わたし」という虚構にも、この小説を読んでいる「わたしたち」という現実にも届き、震わせることに成功している。
内容に入ろう。
登場人物は主に三人。アルコール中毒の母親、モラルハラスメント/DVの加害者である父親、そしてアダルトチルドレンの語り手。物語は、「缶」「麦茶」「リンゴジュース」「寝室で眠る母親」「病室の母親」といったように、アナロジーとモンタージュの技法を駆使したイメージの接合点を媒介に、大人になった語り手の視線と子供の頃の語り手の視線を往還することで駆動される。そう、「いまもいる」という物語を駆動するのは回想ではない。記憶ではない。あくまで「視線」である。視線によってあるがままに見つめられた風景は時間とは無関係に並べてられ、全てを「いま」に変える視線の力学が、この小説に固有の言葉を生んでいる。「お母さんを助けたいから、お母さんに苦しんでほしいから」という言葉は、一般的な言語運用の視点からすれば矛盾する言葉だが、子供の頃の語り手にとっては真実の言葉だ。助けたいという気持ちと苦しんでほしいという気持ちは矛盾しない。母は救われることで苦しみ、母が苦しむことでわたしは母を救うことができる。家庭生活の中の暴力と癒しの依存関係が、ここでは端的に描きつくされている。わたしはそれを思い出しているのではなく、今、この瞬間の事実としてそれを体験している。二つの時間、二つの視線を通して、わたしは今も、救いと苦しみの中にいる。
わたしと呼ばれる、無数の他者の視線。
広く知られている通り、一人の人間は一人ではない。人は複数の時間を生きており、複数の意識を束ねたりほどいたりしながら生きている。あなたを構成する物質は絶えず入れ替わり続けており、あなたをあなたとして規定している宇宙もまた、絶えず変わり続けている。子供の頃のあなたが今のあなたとは異なる人間であるように、さっきまでのあなたも、次の瞬間のあなたも、今のあなたとは異なる人間である。それでもあなたはそれらのあなたを、「いまもいる」このあなた自身であると思うことができる。人は、異なる時間の異なる場所の、断片的な視線を、一貫する「あなた」としてとらえることができる。これは奇妙な現象だが、文学という声の形は、それに触れる者に、こうした全てを直感的に理解させる。
無数の時空の結節点が、人間という存在だ。そして、そうした人間の人間性の根幹であるところの魂を描くものが、一般に、文学と呼ばれている。わたしたちは文学を通して、他者の魂に触れることができる。
魂の交歓。
異質なる者の断片であるあなたという一人の人間、わたしという一人の人間、細胞で隔てられた複数の人間たち、虚構とされる人間たち、現実とされる人間たち――そうした者たちの魂の交歓を、文学は可能にする。
齋藤友果の本作は、わたしたちにそうした事実を教えてくれるだろう。
「大丈夫と思えるまでここにいる」
最後の一文に至り、大人と子供の二つの視線は一つに重なり合う。
あるいは、作者と読者も含めた四つの視線は。
深夜の病棟=母の寝室に放たれた、複数のわたしたちによる「いまもいる」という孤独なささやき。その声は、虚構と現実のあわいを縫い、登場人物と作者本人の声と重なり合い、無数の他者とともに、次の小説に向かって、次の他者に向かって、今も尾を引くように、わたしたちの中で響き続けている。
■評価
金子玲介「小説教室」
・評点:5
・結果:×
・理由:同じ主題を扱いつつも、虚構のレイヤーの多層性という点で、「中洲の恐竜」に一歩及んでいなかった。
北野勇作「中洲の恐竜」
・評点:5
・結果:○
・理由:虚構のレイヤーを幾重にも纏った「普通の小説」で、それらのレイヤーが不可分であると思えた点に、完成度の高さを見た。
蜂本みさ「ブンダバランド」
・評点:5
・結果:○
・理由:「中洲の恐竜」と同様かそれ以上に重層的でありつつも読み味は軽やかで、内容と形式が完全に一致しており、完成度が高かった。
齋藤友果「いまもいる」
・評点:5
・結果:×
・理由:もはや好みの問題でしかないことは自覚しつつも、「ブンダバランド」の練り込まれたメカニズムを、わたしは評価した。
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笠井康平
明らかであり、詳らかであること
【総評】
候補作の発表を午後12時42分に知った。その日は登壇の予定があって、14時に会場入り、15時から本番。17時過ぎに終わって、主催の方から夕食をごちそうになった。帰りに古着屋に連れられ、冬をしのぐための上着を買った。22時に部屋に戻る。26時まで稼業の書きもの。Immutable Proofの訳語を考えていたら眠っていた。不変の証明とは?
(2019/11/10)
21時半まで働いた。22時半に帰宅する。「長く厳しい会議は、じぶんの部屋でじっとしていることの喜びを取り戻してくれる。」と鍵垢に書く。疲れている。候補4作を一読する。あと3日で採点を終える自信をなくす。そもそも現構想をやり遂げるにはまったく時間が足りない。組織戦が求められるのは何年も前から分かり切ったことで、だからこそこの大会に応募したのだった。いまの採点法は1作あたり3-4時間くらい所要する。総評を書く時間を入れると、ざっと24時間ほどか。「……足りなくね?」と気づく。『注釈・考証・読解の方法』と題した新刊が発売されるらしい。みんなが千年生きれたらいいのにね。
(2019/11/11)
18時に退勤した。ジャッジは今回が最終選考になる。勝ち残った1人が決勝戦の審査を担当する。開票結果は[4, 0, 0][3, 1, 0][2, 2, 0][2, 1, 1]の4通りがありえて、この状況は審査員にとってよりずっと、出場者に酷だなと思う。ぼくには選べないよ。
過去2回の得票と、丁寧な個別評をみるに、下馬評ではブルーさんが優勢だろう。勝ち進んだら、元編集長としての経験にもとづく、安定と信頼の評定が期待できると思う。樋口さんが選ばれてもおもしろい。最後は主観で選ぶと公言しているから。愛と勇気と苦悩に満ちた時評が読めるだろうし、決勝戦でどちらに軍配をあげても物議を醸しそうだ。場外乱闘の幕開けを告げる批評が書かれると想像するのはたのしい。
ぼくが生き残ったら、両ブロックの勝敗次第で、一般枠から勝ち残った最後の登壇者になるのかも。決勝戦の出場者は、どちらも招待枠か、どちらも一般枠か、どちらかが一般枠だし。そのときは、2回戦で外した3の採点項目が、ぼくを悩ませるだろう。もしもぼくが大手出版社のマーケティング部門にいて、調査予算を好きなだけたっぷり使えたとしたら、国会図書館オープンデータで過去作の分布を知り、紀伊國屋書店PubLineで新刊市場の動向を仕入れて、近刊検索デルタとブクログインサイトで購読意向を確かめ、NTTデータからTwitter投稿データを買って、TV放送実績やニュース記事検索、スマホアプリ操作ログあたりと組み合わせてテキスト分析できるのだろうけど、そんなことは望むべくもない。
すべてを無視する気もする。いままで通り。幸か不幸か、ぼくは文章表現のアートマーケットで働く業界関係者ではない。編集の常識にも、批評の欲望にも頼らなくていい。元よりずっとそうして来たけど。
(2019/11/12)
19時に着席して、この喫茶店が閉まるか、充電が切れるまで書く。出社前に3読目を終えたあと、基礎点を20点満点にして比重を下げ、素材点を20点満点に引き上げることにした。その他は2回戦と変わらない。2読目を終え、基礎点を計算したら、1位と4位の差は1.2点だった。やっぱりほとんど差がつかない。退勤してから技術点を付けるために再読する。こちらはやや差がつく。同ブロック内では2点差。電子書籍リーダーのハイライト共有機能を使えば、多人数による発売前の試読会も行えるはずだ。基礎点は、最新の校閲支援ソフトでどこまで代替できるだろう。文章表現のホームユーステストの最先端は、著者・編集者の身近な知人に原稿を読ませるといった方法から、どれだけ進歩できたか。
今夜で構成点までは仕上げきりたい。素材点の概念体系を残り時間でまとめるのは無理だろう。頭にはこんなにくっきり思い浮かんでいるのに。ぼくも長めの短評を書いたほうがよさそうだ。いくらか私情が挟まるにせよ。伝わらないよりはまし。
(2019/11/13)
昨夜は構成点に着手できなかった。代わりに個別評が1.5本書けた。今夜はもう20時半だ。あと24時間で〆切。第1区間を重く見るのはやめよう、その審査法はもう役目を果たした。区間ごとの配点設計さえ、もはや不要かもしれない。僅差に終わると想像するのはたやすい。だとすれば、全員の構成点が満点だと仮定して、個別評を充実させたほうがよくないか。素材点の説明のためにも。ぼくが示すべきは、採点結果でもなく、精緻な評価体系でもないだろう。それはいつでも出来ることで、むしろいまは、あるテキストに何らかの判定が下されるまでの、一連のプロセスこそ明らかにされるべきだ。
だからこうして――というのは理由の半分でしかなくて、もう半分は、4作ともが、それぞれに別の仕方で、狭義の文芸に縛られないテキストであろうと試みているのだし、だったらそれを判定するぼくらも、ありきたりな選考結果と推薦理由と個別評を穏当に並べるだけじゃだめでしょ、と、思って。これは古い手法だけど。言わずもがな。
(2019/11/14)
すべての個別評を書き終えた。あと300字使える。ほかに言い忘れたことはないか。個別評は1作あたり1,200字を上限とした。一般枠の応募枚数だ。算出できなかった素材点は、各評をもとにご想像いただくほかない。味気ない数字の羅列だけがあるより、このほうが内情を伝えやすいと信じたい。採点基準がひとつのスタンダードを目指すことで、それを壊しにかかる、数多くの「ふつうじゃない」テキストが生まれることに、多少なりとも貢献できていたらうれしいです。気まぐれな実験にお付き合いくださった方々に感謝します。
(2019/11/15)
【個別評1】
金子玲介「小説教室」は、文芸書の一分野名を与えられた登場人物が、その名を冠する「教室」を模した舞台で、4つの断片を読み上げ、ふたりの「女生徒」にそれを吟味される場面の、設定と台詞とト書きを指示す。アンチ・ロマンとして読むと退屈してしまう。パラテキストの枠組みから溶けだしたフィクションが、テキストとしてのあるべきかたちを奪われ続ける姿を、ひとつの残酷な見世物に仕立てるよう指示するメタナレーションだと読むと、おもしろい。どういうことか。
「舞台中央」に置くべき大道具は指定され、最後は「幕」も閉まる。だけど物理空間にある劇場で、ありきたりに上演するのは難しい。座席が遠いと見えづらくなる身ぶりがあり(うなずく、目を瞑り、申し訳なさそうな顔、白い粉をなすりつける)、視線のやり取りを強調したショットがある(振り返る、前を向く、じっとりと見る)。教卓が「事故じみた音」を鳴らし、小道具のチョークが「弾け飛ぶ」には、特殊効果の助けが欠かせないだろう。ト書きには短いカットをつないだ映像を、何らかの「画面」で明滅させるのに適した文節が並ぶ。
一方で、どうやら、「西田・二宮」の(身なりや着こなしではなく)部活(という属性情報)の指定が、目立って作用する場面はない。人物造形またはキャスティングのために、彼女たちの体格や筋肉量、肌の焼け具合を限定するのには役立つだろうか。「小説」は「人間でなくとも構わない」けれど、教卓に「突っ伏し」「上体を起こし」「口」を「ひらく」か「真一文字に結び」、教卓を「蹴る」ことのできる身体を持たなければならない。少なくとも、2次元か3次元に描画できるキャラクターであるべきだ。何しろ「小説」が「なりきり」を試みる「僕」は概念ですら「のど飴がない」世界にいて、「しーちゃん」は「樫見くん」に抱かれ、透明な語り手は(どこかで見おぼえのある)「雪しかない」世界にいて、「大学生」の「ユメちゃん」は「長テーブルの端っこ」に向かい合って座る。その演技が求められる。
実在する特定の個人を配役するなら、その「役者」は発話と身ぶりだけで4役の演じ分けに挑むのだろう。社会現象を巻き起こしたクソアニメのように、声を数人で「分け合う」でもいい。VTuberのライブ配信のように、シークエンスごとに容姿を「着せ替え」できもする。何しろ作中作中作である「小説」の「語り」は、作中作である2人の「登場人物」に、「見た目は中性的」でも、「老人のように」しゃがれた声でも、「たぶんふつうに」「今後ダメ」だと指摘されるのだから。
古風なレーゼシナリオというより、MADな動画の映像台本に近い読み心地があって、あられもなく「かたなし」であることへの、芯の通ったこだわりを感じさせる。大会終了後も書き続けてくれるとしたら、制度、規範、慣習といった、凝り固まったものを素材にとると、その技量がより際立つ気がする。その可能性を推したい。
【個別評2】
北野勇作「中洲の恐竜」は、町はずれにある石づくりの鉄道道路併用橋から川の中洲を見ると見つかる、建設中のテーマパークで展示するために、二足か四足の動物から生体加工された「恐竜」をめぐって、「私」と「妻」が世間話する日々を物語る。
早くも4文目(いや、何か、というか[…])から察せられる通り、このテキストは、叙述文としての洗練を重視する書かれ方をしていない。指示詞と代名詞が多用され(とくに「それ」が頻出する)、情景の指定が近距離で繰り返され(「その中洲」「この川の中州」「あの中洲」「中州」)、会話の地の文は「 」でへだてられない(1回登場する疑問符を除けば、約物は句読点と2倍ダーシだけ)。
改行は、その段落に流れる時間をゆるく独立させている。読みのテンポをわざと遅らせる短文の挿入もある(「それで、何だって?」「そんな話を聞いた。」)。テキスト全体の理路よりも、そのたびごとに浮かび上がる情景への驚き、焦り、拍子抜け。そういった印象の醸成を狙った名詞が、こまめに繰り返される――それこそ、「恐竜」が何度も連呼されるように。
時間軸の設定もおおらかだ。太古の恐竜、近代の路面電車、カメラ、未来のテーマパーク、生体加工技術――。「妻」の説明は噂話で、「私」は見当違いにあとで気づく。ふだんづかいのぼんやりした会話が重ねられ、「それらしい」「本物っぽい」ものが、さりげなく遠ざけられる。
総じてざっくりした冗長さが許容されていて、かといって――Aブロックの対抗作と比べて読むと分かるけど――、談話っぽさ、雑談らしさをリアルに追及するでもない。朗読ないしは音声読み上げを志向して書かれたのだと読むほうが素直だろう。句読点を律儀に読むとしばらく息つぎできない一節が何カ所かあって、直後はたいてい、数文字で読点が置かれた、ひと呼吸つける構文(たとえば、「[…]ただ眺めているようで、それもまた、」)。
つまりは、困ったことに――審査員を困らせるのは、当然すばらしいことだけど――、このテキストは、読み込みのたのしみを探り出せそうなところが、どれも音読をその場で聴くときのパフォーマンスに、つまりこのテキストの外に託されている感じがあって、これまでの採点基準を当てはめようとすると、基礎点は下がるし、技術点も構成点もあげづらい。厳密を志す青臭さを諫められている気分にもなってきて、それはそれでたのしく、そのようにたのしむのは著者に失礼かもしれないと思いながらも、しかし同時に、「書くこと」の向こう側へ行くための、新しい戦い方の芽生えに立ち会えた感はしっかりとあった。
おしまいの一行を読んだところで、このテキストの書き手は、善悪、真偽、美醜、巧拙などとは別のものさしで、ずっと戦っていたのだろう、きっと何十年も、と思った。
【個別評3】
蜂本みさ「ブンダバランド」は、いまからおよそ130年前に、日本語圏の文章芸術史が経験した、音数律と文語からの脱却を、その構成で再演しようとする。筋書きが進むにつれ、無音の拍が混ざり、七五調の制約がゆるくほどけて、終幕では八音の自由律にとってかわられ、静かでさみしい独白が残る。
その一方で、お話に用いられる語り口や道具立て、登場人物は、近代化以前の「戯作のたのしみ」がこの国に息づいていた頃の景色に遡行しようとする。北上する近代と、南下する近世とがぶつかって、その道すがら、反作用ボムがひっきりなしに爆発しているみたいだ。
「おれ」は「人間」ではなく、収監されたふしぎと奇想の展示場で、印刷書籍をカートリッジ式に差し込むと、少し気どった「客引き」をする音声案内装置として「語る」。排熱効率が悪く、ノイズキャンセリング機能が弱く、アルミニウム製で軽いがもろい。機械学習の諸技術が、簡単に擬人化されることには感心しないものの、それは仕事モードの大人目線で読むからで、文章の芸能に専心して、内輪ネタを忘れず、事実らしさに頓着しない姿勢からは、戯作者として世に出ることへの、強い意気込みを感じさせる。
口下手なオウム(ひとでなし)と、おしゃべりな大箱(非人情)を対比させつつ、言葉が通じない者同士の温かな交歓への期待をあっさり裏切る意地の悪さは、先読みしやすいお約束の履行という手続きを踏むからこそ、登場人物の内面と来歴をおいそれと斟酌させないことに寄与していて、おのずから解釈と鑑賞の揺らぎを作り出す。どの細部に惹かれたとしても、ひと通りの想像をかき立てるだけの書き込みがある。作中世界をなんの喩として読むにせよ、「親父」の趣味が、「吾郎」の意志が、誰かにとって何らかの示唆に富む。
見かけのはしゃいたトーンに反して、まっとうに教育的なテキストが書ける著者なのだろう。そのひとが変わるために、心とからだの両面に働きかけるということだ。「書くこと」に閉じこもらない。「読ませる」ことに心血を注いで倦まない。少なくともそれを悟らせない。いまどき稀有な資質の持ち主なのかもしれない。
すばらしい国(Wunderbar Land)の「外」にあるものを書いたらどうなるか、とも思う。終盤に向けた転調に、「本でも読めばいいのにな」とあって、親切なファンサービスだけど、その面倒見のよさをふり捨てたら、何が起きるだろ。ごく序盤に「銀杏の葉っぱが金色の小さな鳥のように降る」とある。「っぱ」は音数律を乱すのだけど、あえて/うっかり残されていて、こうしたささやかな破調と、このテキストの著者は、これからどう付き合って行くのか。前衛短歌から70年が経ち、口語短歌の成熟が語られたのも数年前、詩型融合と機械創作の勃興が言われるなか、新しく生まれたこの定型が、すでに破壊されることを予告された気がしてならなかった。すごいことをやってのけたひとだ。
【個別評4】
齋藤友果「いまもいる」は、アルコール依存症に起因する(おそらく)急性膵炎で、集中治療室に運ばれた「母」を待ちながら、「わたし」が「お母さん」と「お父さん」の家族3人で暮らしていたときの、いつまで続くとも知れない、息苦しい思い出をふり返る。
「お母さん」は記憶のなかの人物で、「母」は「わたし」が治療の同意に署名できるほど老いている。部屋の広さ(3LDK)や夕食の品数(豚汁、まぐろ)、家主の帰宅時刻(いつもより早い)からして、「母」は専業主婦なのか、もう働けないほど生活リズムが狂っていて、就学前か下校後の「わたし」と過ごす時間が(どうやら、かなり)長く、わずかな生活音がどこにいても聞こえるほど、室内には沈黙が詰まっている。
作中時間がいつであるにせよ、どちらかといえば裕福な家庭のなかで、作中では明かされない理由から、「お母さん」は中毒的な飲酒がやめられない。「お父さん」もまた、ふとしたやり取りにさえ、苛立ちを抑えられなくなった。すでに壊れた関係のなかで、「わたし」はごくささやかな修復を試みる。救いとしての苦しみが、「お母さん」に訪れることを願う。
深読みを起動するのはたやすい。かつてこの国で夢見られた「幸せな生活」の裏面を、性別役割分業の機能不全を、このテキストに読み込むだけでいい。題名の「いまもいる」には、ぼくに読みとれた限り、6通りの「逃れられなさ」が重ねてある。飲酒を隠すようになった「お母さん」が台所から離れられなくなったこと、両親のいさかいが已むまで、「わたし」が「自分の部屋」で独りでいたこと、その思い出が「わたし」の頭から消えないこと、忘れた頃に「母」の「入院」として再来したこと、そして、それら一切が起きる/起きないによらず、その親の子として生まれたからには、母娘のつながりは途絶えないこと。「大丈夫と思える」までいられる「ここ」は、「わたし」が「お母さん」の「近くにいられる寝室」であり、代名詞で呼び捨てられる「母」から「遠く離れていられる病室」であり、「書くこと」の技術を費やして、ついに手にされた「自分ひとりの部屋」でもある。
そのことが、ごくあっさりした言葉で書かれる。一文は短く、たくさんの省略があって、抒情にもリズムにも禁欲し、衒いがない。その語りは、抜き差しならない血縁の軛のなかで、ずっと「息をころす」ように生きる日々の、「息継ぎ」みたいに読める。「わたし」にはその音が聞こえたと、年をとってから思い出せるように、読者にこのテキストが手渡され、そのことが伝わるというのは、読み・書くことの宿痾であり、よろこびであると思える。
あと1文だけでも、「わたし」から見た「お父さん」のことが書かれていたら、終盤でICUにはっきりと立ち帰れていたら、さらに緊密な構成を作れたか。私情を挟んでよいのなら、4作のなかでもっとも推したかった。
【結果】
Aブロック
勝者:金子玲介「小説教室」
金子玲介「小説教室」:5(★)
北野勇作「中洲の恐竜」:4
推薦理由:それでもなお、書くために、書くことを選んだと感じたから。
Bブロック
勝者:蜂本みさ「ブンダバランド」
蜂本みさ「ブンダバランド」:5(★)
齋藤友果「いまもいる」:4
推薦理由:たのしく読ませることへの、類いまれな熱狂を見せつけられたから。
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