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BFC6 決勝ジャッジ文「地球の真裏で相まみえる」



地球の真裏で相まみえる

松本勝手口



決勝に進んだふたりのファイターは、奇しくも1回戦の作品において、とある共通の拒絶を抱えていた。RSオンリー・イエスタデイ氏の慧眼が「丸括弧と鉤括弧の対立」と表現したそれを、私は私なりに「地の文の拒絶」であると呼び直したいと思う。
「あそこで鳩が燃えています」は本文のすべてが()で囲われていた。地の文は存在することすら許されなかった。その大胆な仕掛けは蕎麦屋の(広義の)外部で起きている残酷な事態を()の外側に追いやることによってかろうじておかしくなることを避けようとする、語り手の抵抗として読めた。
「綴る躰」もまた地の文が全体の1割にも満たない小説だった。秀逸な書き出しで読み手のみならず作中主体である記子の視線をも巧みに誘導し、「」内の文章をひと息に読ませることで、自由に外へ出られない記子の病状から目を逸らせることに成功していた(筆者注:「腰を痛めていた」「つちふまずまで進めても記子は無反応で」などの記述から、記子が下半身の神経系に問題を抱えており、自力での歩行が困難である可能性が示唆されていると読みました)。

而して決勝の2作品と対峙し、私は驚きを禁じ得なかった。
両ファイターが、それぞれに1回戦作品で拒絶したものを決勝作ではただ受け止め、かるがると超克してみせたからというのが理由の一つ目だ。しかしそれだけではない。「プールの記憶」と「静かなるもの」は、一見まったく異質の小説に思えて、そのじつ互いが互いの対蹠点に位置するような作品でもあったのだ。
こうしたシンクロニシティへの過剰な着目がジャッジの冷静な判断を削ぐのではないかとの向きもあろうが、BFCという催しの興行性を加味すれば、むしろ看過するほうが罪深かろうと考えるのが私というジャッジである。こうなったからには私自身、精一杯楽しませていただくし、観客席にももちろん、なるたけ楽しんでもらえたらと願っている。ジャッジのジャッジでいただいた意見も大いに反映させつつ、最後は主観で選ぶことになるだろうと予言しておく。

深澤うろこの小説「プールの記憶」は日本らしき土地の学校の、屋上プールが舞台。語りの視点は匿名の生徒たちのあいだを自在に行き来し、生徒たちは訳も分からぬまま水の張られていないプールの底へ次々流し込まれていく。読み手は小説の外部にいながら、生徒たちの戸惑いを生々しく追体験する。
ほどなく暴力の気配が訪れる。見慣れないなにかを携えた「先生ではない男たち」が現れ、一機のヘリコプターが天高く舞う。その後の展開は明示されないが、最後の段落からはこのあとプールが、生徒が、教師たちさえも、信じがたいような惨劇に襲われることが示唆される。「男たちの手」で書かれた本以外にそのできごとを物語るものは「いまはもうない」。このやや唐突な結語によって、プールをめぐる記憶はあたかも小説内世界にとって「本当のこと」であったかのようにパッケージングされている。
本文中に植民地支配によって国土を次々拡張した「ブルボン朝」というモチーフが登場することからも、多くの読み手がこの小説に描かれた出来事を侵略戦争の寓意として読むだろう。「男たち」という不必要とも思える性別の記載により、客観的事実とされる記録=歴史すら実は征服者の手によって書かれたものである、というアイロニーが示される。真実を憶えているのはもはやプールだけだ。
小説は地の文に徹している(会話文さえ風景のように扱われている)。前作「あそこで鳩は燃えています」では()の外に隔離されていた残酷さが、ここではレンズ越しにただ、眼差されているのだ。そこに作者の超克があり、同一のモチーフへの執着がある。

この小説はしかし内容以上に技巧面で語るべきことが多い。接続詞や主語、内面描写を極力排した文体は非-立体的なのっぺりとした印象を与える一方で、舞台装置には妙にタテの構造が強調されている。青空→プールサイド→水のないプールの底、という色彩に乏しい三層構造が「遠近感がバグっ」たまま配置されているのはしかし、偶然ではないだろう(「近すぎて誰だか分からない」「近すぎてよく見えない」という描写も遠近感がバグっている印象を補強する)。語り手の立ち位置がピン留めされないまま進行するこの小説は、言い換えればあらゆる透視図法とは別の原理で構築されており、ゆえに遠近法ははじめから成立しえない、というそのことが実に冒頭から二文目にして宣言されているのだ。
そう、冒頭といえばこの小説の冒頭二文は普通に読むと非常におかしいのである。以下にそのまま引く。

「屋上に出るドアは開け放たれてて、真っ青な空がのっぺりと張りついて見えた。雲ひとつない空は遠近感がバグって吸いこまれそうで怖いと、ある生徒は昔から思っていた。」

この長くはない二文のなかに「真っ青な空」「雲ひとつない空」という、同じ対象をさす表現が繰り返されている。一般的な作法では瑕疵とされる文章であるが、この小説においてはその限りではない。むしろ視点人物が移ろい続けるという本作の特性を一発で分からせる、巧妙な違和感を生んでいる。さらに先ほどの遠近法放棄宣言まで加わっているのだから、この小説にはこの書き出ししかありえない、と思わず認めてしまいたくなる。深澤うろこの小説技術、推して知るべしである。

藤崎ほつまの小説「静かなるもの」は大戦間期のイタリア北部の市街地(おそらくエミリア州[当時]の都ボローニャか)が舞台。静物画家による一人称単視点現在形の語り。主人公の人称代名詞はおそらく故意に省略されているものの、読んでいて不自然は感じられない。「プールの記憶」と対置すれば、至極普通の小説のかたちをしている。
注目すべきは視点の固定および、その帰結としての遠近法の扱われ方である。「プールの記憶」が視点の固定と遠近法を放棄した、いわばフォービズム的・キュビズム的な小説世界を志向したのとは裏腹に、「静かなるもの」の静物画家はまず「床でチョークに記した足形に両足を合わせ」て背筋を伸ばす。「方眼紙」や「グリッド用の凧糸」を駆使し、正確な遠近法に基づいて絵を描くことを生業としている。ここには遠近法への厳密な希求がある。この奇妙な符合が、私が決勝2作を「対蹠点のよう」と言った一つ目の理由だ。小説の文章じたいも、画家のこだわりに共鳴するかのように精緻で無駄がない。とくに第一段落のアトリエでのシーンは、1回戦作も含めてBFC6で読んだ作品のうちでもっとも洗練された美文だった。
内容に踏み入ろう。美術史に明るくない私のような読み手でも、画家が奉ずる写実主義的な静物画が、作中の時代においてさえ前時代的で商売としての成功も見込めない芸術ジャンルとされていたことは読み取れる。行きつけの店のいつもの席で酒を飲み(きっと注文するメニューもいつも一緒なのだろう)、たまの休暇も近場で家族と過ごし、革命を叫ぶファシスト党員に冷笑的なまなざしを投げる画家は、その芸術的嗜好以上に保守的な(タイトルには反動的という含意もあろう)パーソナリティの人間であるようだ。率直に言って共感や感情移入を誘いにくいタイプの登場人物である。お気に入りだった白磁の陶器を割ってしまった原因が、正確なグリッドのために必要な凧糸に引っ掛けたからというのも、静物画家としてのキャリアの袋小路を暗示するようなエピソードとなっている。
しかしそれ以上に、画家の素行には微妙にひっかかるところがある。店で見初めたガラスの花瓶を、いやがる店主を差しおいて半ば強引に買い取る場面がまずそれだ。そんな行為をしたにもかかわらず、一日の終わりに寝床につく段になると、翌日妹から朝食が提供されることをさも当然のように期待したり、自身の強奪を「ささやかで、平穏で、幸福な出会い」であるとして反芻しながら目を閉じる。そのさまからは、なにか他者すらも静物画(伊語でnatura morta、死んだ自然の意)のように扱う、強い自己中心性を感じる。「凡庸な沈黙を強いてきた自分」という自己認識にも、本人の語法とは別種の危うさが宿る。
しかし当然ながら、そうした登場人物への惹かれなさは、小説じたいの評価に直接は結びつかない(結びつくこともあるが、「静かなるもの」はそういう読みをする小説ではない)。むしろこの小説の白眉は、そうした画家の自己中心性が閾値に達する場面において現出する。
妹から割れた花瓶を描くことを提案された画家は、矢庭にそれを拒否する。むしろ花瓶の破壊を描くことによって生まれる「連続性」に、「モチーフが語りはじめてしまうこと」に、最大限の忌避感をあらわにする。そこには職業画家としてのもっとも真摯な態度があらわれている。魅力的とは言いがたい人物の内に宿るその硬質なきらめきに、読み手は心を動かされる。
そして驚くべきことに、この画家の職業倫理は、そっくりそのまま「静かなるもの」という小説の作者じたいにも当てはまるのだ。
あらためて俯瞰してみればこの小説には「衒い」もなければ「カマシ」もない。大胆な比喩やこなれた会話文も見当たらない。視点の移動もなければ人称の揺れもない。あえてそう言えば「今っぽく」ないし「BFCっぽく」もない。実直な一点透視図法でかかれた、正統な"近代的"小説である。とはいえそれは技術的に凡たることを意味しない。一世紀前の異国を舞台にした小説を、時代考証的にも違和感がないように、かつこのような滑らかな読み口に仕上げる仕事が並の努力では出来ないことは、かりそめにも同じ小説を書く者として想像に難くない。1回戦の作風から推測するに作者は(歴史や美術についての知識がなくても読めるという意味で)もっとリーダビリティが高く、容易に読み手の感情を代入できるような登場人物を描くこともできただろう。しかしそれをしなかった。ややもすると奇想や文法崩壊など、ある種の破調が是とされがちなBFCという現代的催しの決勝戦において、それらすべてを自分に禁じたのだ。禁じても勝てると踏んだのだ。藤崎ほつま、その底知れぬ不遜さよ。

さて、両作品をかように通読した私は、そろそろ判断を下さなければならない。
二作品を「対蹠点のよう」と呼んだ理由について私はすでに、絵画的遠近法を鍵概念として一つのパースペクティブを提供した。またここまでの読解を経てこの比喩は、絶対値が等しい=両作品とも完成度という意味では甲乙つけがたい、という意味合いも帯びはじめている。
しかしそれらは良くも悪くも表層についてのことである。決勝ジャッジにあたりその比喩を用いた最大の理由は別にある。
「プールの記憶」はアクロバティックな技術に裏打ちされた高度に寓話的な戦争小説だった。他面、一読者としての私は、本作で多用される表現技法からはまだ一定の作為が透けて見えてしまう、という否定的な印象も受け取った。
たとえば学校という閉鎖空間は、匿名的な「生徒」という呼称を主語に据えても不自然にならないからという、ご都合主義的な理由で選ばれた場所ではなかったか。戦争を描くならばなぜ、より多様な外的特性を備えた有象無象が集結する場所を描かなかったのか。
平面的な描写かのように見せながら、特定の生徒のばあいのみ「暴力をふるう前の父親の声で再生されてしまった」や「どんなに見た目が良くても足が速くても上履きだけは汚い」といった内面の深みに降りていくのは、テクニックである以上に、語りの位相の不徹底であるとはいえないか。
「手を繋いだり抱き合ったりしてる人」を想像した直後の「これ終わったらミスド行きたいと思った」という一見脈絡を欠いた固有名詞の挿入は、短詩における二物衝撃を安易に援用したものとはいえないか。
最後に。作品総体は明確に戦争の喩であった。そして戦争とは、残念なことに、現実である。「本当に起きた/起きている/起きうること」である。それは疑う余地がない。この小説は技術も登場人物も、存在のすべてが「本当のこと」、その糾弾に奉仕している。ときには未成熟な技術も用いられている。すべては一つの読みのために。
したがって私は「プールの記憶」を「本当のことをいうために技術を濫用した小説」であると読みました。

「静かなるもの」は技術に対して極めて禁欲的で、逆説的な言い方にはなるが大胆な作品だった。そして繰り返しになるが、それは作中主体のやや特異な倫理観とも完全に呼応している。ただ、自己中心的な徹底が、この小説を楽しく読む読者の射程を狭めたという事実については、作者は受け容れねばならない。
しかしそれでも。物語後半、画家がなかば強奪してまで手に入れたガラスの花瓶を「やはり透明のままでは漆喰の壁の色とも調和しないし、他との対比にも物足りなさを感じる」との理由ですぐさま膠で着色しだした場面で、私はハッとした。この画家は、絵画のために現実のほうを捻じ曲げる人なんだ。腱鞘炎になってまで、電灯の浪費を惜しみ、妹に食事の世話をしてもらうという不名誉な生活を受け容れてまで、虚構に奉仕しているのだ。そしてこの小説自体も、純粋に虚構の実現にむかって邁進した結果の作品なのだ。
したがって私は「静かなるもの」を「虚構を完成させるために現実のほうを捻じ曲げた小説」であると読みました。

問いをもっと簡潔にしよう。
作為にみちた「本当」か、「虚構」への奉仕か。
重ねて言うが、絶対値は等しい。数値では決められない。正をとるか負をとるかという、価値観における二者択一があるだけだ。ゆえに以後は主観が駆動する。多少のブラックボックスは許されたい。ジャッジである私の未熟な小説観、芸術観、それから、BFCという文芸の祭に私が期待するある種の高潔さへの幻想。そういったものの影響をどうしたって捨てきれない。
どうせ捨てきれないなら、私はいっそ確信を持って選ぼう。
文芸において「本当」について語ること。戦争という犯罪行為を糾弾すること。それを間違った動機だと呼ぶのは今日び、不可能に近い。しかしBFCという場で書かれる/読まれる文芸作品には、そういった方向付けをなるべく回避したものであってほしいと思う。さらに言えば、すべての文芸は究極的には読み手のものであってほしいと、私は思う。
躊躇いつつも付言すれば、それが戦争や虐殺を取り扱うものであればなおのこと、読みを固定させる書き方は危ういと思う。歴史を顧みるまでもなく、文学による現実への方向付けは、かんたんに正負が逆転してしまう危険をはらんでいる(卑近なところでは戦時中の高村光太郎に代表される戦意高揚詩などが私の念頭にある)。そこに私は二の足を踏んでしまう。
技術でパッケージングされた「本当」よりは、技術の純粋なる追求のほうを、「虚構」そのものへの奉仕のほうを称えたい。私が考えるブンゲイによるファイトとは、そういうものだからだ。

第6回ブンゲイファイトクラブは、藤崎ほつま「静かなるもの」の勝利。

最後になったが、ほんらい地球の裏側にいるものどうしが奇跡的に相まみえたこのBFC6という祭典ぜんたいに、最大限の讃辞を送って閉幕としたい。





※著作権は作者に帰属します

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