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ブンゲイファイトクラブ1回戦結果&ジャッジ

BFC3一回戦採点 01

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準決勝進出ファイター


宮月中 「花」

坂崎かおる 「5年ランドリー」

左沢森 「銘菓」 

 伊島糸雨 「爛雪記」

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ジャッジ評


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青山新

前提としていくつか確認しておく。

第一に、ジャッジ全体の納得性に重点を置くならばジャッジ間で合議を行い、勝ち抜け作品を選出することが望ましい。これが行われない理由は時間的制約を別にすれば、ジャッジの競合を強調するためであろう。BFCにおいては、個人的読解の加速、そしてその結果としてのジャッジ間での読みの差異が醸し出すパフォーマンス性が優先されている。

第二に、採点方法について。BFCの方式はいわゆる範囲投票(score voting)の類型である。こうした方式では全体の幅広い支持を受ける候補が選出されやすい。たとえば今回の場合、以下のような例が考えうる。

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ここではジャッジの過半数に勝ち抜けを支持された候補よりも、誰からも勝ち抜けを支持されないものの平均して高い評価を得た候補の方が総得点が高くなっている。

第三に、以上から現状のBFCのシステムはジャッジのキャラクターを強調しつつ、採点方式によってそこから最大公約数を抽出することで、読みの多様性と納得性を担保しようとしているのだと評価できる。

第四に、しかしBFCがあらゆる文芸形式の蠱毒によって勝ち残るものに新しさの萌芽を見るのならば、バランス型の作品を偏重することには疑問が残る。

(11/9追記:以上で論じたBFCのシステムには青山の誤解がありました。実際には勝ち点を多く集めた候補が選ばれる単記非移譲式投票(いわゆる多数決)が用いられているとのことです。とはいえ、個別の採点も同率一位の順位づけに影響するとのことですので、以下で述べる採点方法は変更せず運用します。)

審査基準

原則的に全ての作品の全てのテクストは「書かれたからには意味がある」ものとして読解を試みる。そのため添削的な評価は行わない。これは作品の存在がいかなる影響を世界に及ぼし得るのかを分析することのみを重視するゆえである。

また、今回はどの作品も高い水準を備えているため、得点の微差で判定をつける形式では単なる運否天賦と大差がなくなる。また先述した「全体の幅広い支持を受ける候補」により有利な結果となるだろう。

そこで勝ち残りを支持する作品に5点、それ以外には1点を配する。ゆえに評点は作品の絶対的な評価ではない。

竹田信弥「幸せな郵便局」:5

本作では「連続と断絶」が視点移動、心理誘導、不可解な出来事の因果、素描的な文体の冗長性といった様々な要素によって複層的に演出され、ジャジーな進行を遂げる。

この絶妙なズレが繰り広げられる場が郵便局である点からはすぐさま、東浩紀の指摘する「誤配」の重要性が想起できる。しかし、本作では特に視覚の不完全性に焦点が当てられているように読める。

たとえば高木は局員の「表情はまったく読み取れな」いのに山田を「みて」「泣いている」ことに気づく。同様に与田は森の「顔をみて」段ボールの中身を犬だと察するが「決め手は匂い」だと述べる。「長蛇の列を前に」うんざりしていた星野は最終的に「並ぶべきは最初から0人だった」ことに気づく。そして伝票が見えない高木によって郵便局の列は「目視できないほど」に伸びてゆく。ここでは視覚の不完全性の連鎖が生み出すグルーヴに「幸せ」が託されている。

ここにおいて本作には文芸という、文字列を視覚処理する操作が支配的なジャンルに対する働きかけが感得できる。この物語自体が高木の「ぼんやりは見えるが文字が読めない」状態へと読者を誘い、その先へと導いている。

鞍馬アリス「成長する起案」:1

お役所仕事マジックリアリズムともいうべき発想が丁寧に紙幅へと拡げられている。しかし起案とは辞書的には「正式なものの基となる案や文書をつくること」であり、本質的にはアイデアの創出と同義である。

すなわち、起案にまつわるワンアイデアものである本作は、それ自体が文芸の場における起案であるとも言える、という点において重層性を帯びる。成長する起案は、あるアイデアが人々を巻き込んで物語となる創作のプロセス、あるいはそうして出来上がったテクストが拡散してネットワークを構成する一連の過程へと連想を繋ぐ。更に作中には押印欄が数ページに渡って続く起案が登場するが、連続する升目を一つ一つ埋めてゆくさまは「原稿用紙」という形式で指定されるBFCをも想起させるだろう。

仕事の戯画がその無限の遅延のなかにコミュニケーションの広がりを見出す。ブルシットジョブを極限まで引き延ばすことでその隙間から向こうを透かし見る。目的は遠く後退しプロセスの手触りが前景化する。それは書くこと、書き続けることの中に作品外への広がりを見出すことである。

夜久野深作「夏の甲子園での永い一幕」:1

全体として時制が意図的にぼかされており、これによって甲子園にまつわる無数のイメージが重ね合わされる。

まず「新聞紙やらを安雑誌を切り分けた色の少ない千羽鶴」といった描写が強調される冒頭からは、戦争の暗喩として甲子園が語られていることが読み取れる。いや、実際に昭和17年には戦意高揚のために国が甲子園球場で歪な全国野球大会を開催した歴史があるなど、そもそもにおいて戦争と甲子園には単なる暗喩以上の結びつきがある。あるいは作中で唯一具体的な時間経過が描写される「試合がない夏から数えて五回の夏までは〜」の段落に、1941~1945年の甲子園中止期間を重ねることもできよう。

しかし物語はここから「何度も夏を繰り返」すことで暗喩性を風化させ、純粋なフィクションの地平へと到達する。だが同時に、失われたなにかを再現しようとする営為そのものもまた、喩の体系に属するものである。すなわち本作は戦争の暗喩としてはじまった甲子園の物語を時間の中で丹念に解体し、まったくあらたな喩=フィクションの中に再構築する試みと読める。

宮月中「花」:1

非常に緻密に構成され、モチーフ選択から物語展開の緩急、登場人物の配置まで意図が漲っている。15本の薔薇がその華やかさと裏腹に示す「謝罪」の意、「重さ」の比喩に用いられるのが秋桜という軽やかな花であることの皮肉、ごく薄い竜胆の香りを「いいにおい」と評する心理描写など、花を通じた間接的な話法が効果的に働く。

一方で花言葉のようなある種陳腐なイメージの連鎖を使って情報を圧縮しているにすぎないとの見方もあるだろうが、実際読み終えてみるとその花の多弁性にもかかわらず確定的な情報が極めて少ないことに気づく。同級生の死を受けとめるための儀式、しかしそれは単なる罪悪感の軽減のためのTipsなのか、それとももっと切実な再構築のためのイニシエーションなのか、本質的な登場人物の心情は花のイメージの奥に後退している。

竜胆が「あなたの悲しみに寄り添う」と同時に「勝利」の花言葉を持つように、本作では表現の裏に常に胡乱な質感がつきまとっている。

星野いのり「連絡帳」:5(勝ち抜け)

まず、連絡帳というタイトルが本作の構成を圧縮的に伝えている。連絡帳とは子供が書いた連絡を介して親ー子供ー先生が繋がるコミュニケーションの場であり、この構造は作者ー作品ー読者へと重なる。本作では、小学生の、それも実質的には低学年の間だけ機能するこの特殊な場が、文芸作品による交流の原風景として提示されている。

またBFCにおける意味を読むならば、6枚の中で連続する詩歌を使って物語を編む、という戦略を更新している。すなわち子供の一年の変化を子供自身が語るとき、それはモノと感情と物語が未分化のオブジェクトの断片としてしかありえず、そこに漸近し得るのは詩歌である、というわけである。

さらにこの詩歌の形式と内容の分かちがたさは別の視点からも語り得る。「朝顔の水やり対決に勝って」「先生の机のカマキリがこわい」といった句またがりを持つ句は、子供の目線も相まって極めて素朴なテクストそのものに見える。ここにおいて、限界まで削がれた作為によって日常の発話の全てが詩歌へと変ずる可能性が開かれている。

金子玲介「矢」:1

「幸せな郵便局」と対になるような、群像劇と描写の実験であり、いわばコントや漫才の文芸性を問うテクストとしても読める。

しかし本作はそのスピード感を演出するために行動や会話に振り切った構成を取っているにも関わらず、誤字という文字特有のテーマを扱う。これは「あと大家だろ、お前が間違えんなよ」というくだりや、小濵のハマが指摘されるまで濱になっているなど、作品全体で繰り返しコスられるネタでもある。

ここから本作は、テキスト空間でシミュレートされていることを全員(筆者、登場人物)が自覚したメタ的な会話劇としても読める。それが証拠に、改行なしの長回しワンカット演出であるにも関わらず、最初に一字下げがきちんと取られている。

この解釈においては名前のささいな違いに拘泥するくだらなさが文字としてのアイデンティティの護持という切迫した問題系へと反転する。

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阿瀬みち

Aグループ総評

 グループの六作に共通して描かれていたのはある種の世俗から隔離され管理された「集団生活」だった。舞台は様々だが、特定の行動様式の型があり、視点人物がその型にどう向きあうか、迎合するか、困惑するか、などが描かれていた。視点人物の能動的な行動により変化が訪れる作品により高い評価を下した。

「幸せな郵便局」/竹田信弥 4
 郵便局を舞台に職員と来客の様子が俯瞰視点から描かれる。視点は様々な人物の背景を映し出す。「幸せ」のかたちは視点とともに移ろい、相対化され、最後に局長の男の郵便局全体を包み込むような愛着をもった視点と重なる。重なり合う「幸せ」「不幸せ」が豊かに表現されている。

「成長する起案」 鞍馬アリス 3
 市役所を舞台に起案の承認課程を増殖させる中西さんと視点人物の交流が描かれる。中西さんは手続きを煩雑にする増殖を「成長」と呼ぶ。周囲の人間が「成長」に気がつくことはない。移動後も視点人物は関係のない部署から回ってくる中西さんの起案を他部署に受け渡すときに、中西さんの存在を感じる。視点人物は固定されていて、成長にも中西さんにも関与しない。市役所が独立した装置として作用し魔力を帯びてしまったようだと感じた。

「夏の甲子園での永い一幕」 夜久野深作 4
 夏が来るたびに甲子園に集う球児たちと観客席の元高校球児たちの話。犠牲打を打った選手はいなくなる。ホームに帰還した球児は外傷を受け帰還兵のごとき人生を送る。やがて高校球児たちは誰もいなくなる。いなくなった世界で観客たちは高校野球を続ける。比喩としての言葉が現実の意味合いを帯びて近づいてくる。作品世界で言葉の意味する境界はぼかされ乱され続ける。これも一つの攪乱の形かと思うと嬉しくなる。

「花」 宮月中 5
 舞台はとある教室。生徒たちの間で司令も伝達もなく共有される、言語化されない暗黙の行動様式。主人公は困惑し、理解し、儀式に参加する。おそらく生徒の誰かが亡くなったのだろう。「救われる」という表現があったことから、生徒たちの間でうっすらと罪悪感が共有されていたのではないかと推察した。誰にどんな罪をゆるされたのかは作中人物自体も理解していないが、教室に生まれた新しい行動様式が作中人物に高揚とゆるしをもたらす。結末で描かれていた感情が今まで誰も名指さなかった感情であるように感じた。最高評価をつけた。勝ち上がり作品に選定した。

「連絡帳」 星野いのり 4
 舞台は小学校。さくら、教科書、あさがおとあるのでおそらく入学したての一年生だろう。学校での一年間が描かれている。初めに読んだとき先生の語が繰り返し出てくることに作品を作品の欠陥ではないか、語彙の選択を怠っている、安直ではないかと感じた。通して読んだときに意図的に先生に焦点を充てることで作中主体の関心の移り変わりを表現したいのだと気づいた。順番に移ろい一巡する季節を表現しただけではなく作中人物の成長や変化を描き出している。

「矢」 金子玲介 4
 舞台は学校。日直の名前の漢字の間違いをめぐる生徒たちの駆け引き。作中人物が地の文の漢字を理解して会話していたり、メタフィクションとしての特徴も持っている。観察される作中の人物たちと観察する読者の間の垣根が低い。物語は生徒たちのや不安や強迫観念を核に推進力を得て観客を巻き込みながら進んでいく。

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なぐりまくりフェスティバルがはじまるよ!

遠野よあけ


 評価基準は「おもしろさ」と「なぐりあい」のふたつ。公平なジャッジは目指さない。ぼくという固有の人間、固有の身体、固有の人生、固有の読者にどれくらい響いたかで審査する。「おもしろさ」とは、わくわくやどきどき。「なぐりあい」とは、ぼくという読者のポテンシャルを引き出すような言葉の力。この二つの要素のつよさで作品を判断し、つよい順に点数をつけていく。書き手の意図や技術の巧拙は、読み解くけれど点数への直接的影響は少ない。
 それでは粛々とはじめていきましょう。ブンゲイファイトクラブ3。われわれがわれわれをなぎ倒すための祝祭。なぐりまくりフェスティバル。


〇竹田信弥「幸せな郵便局」

 ある郵便局の一日のなかに人間が詰め込まれている。山田の視界には、同僚かつ上司かつ親の仇の与田と、自分を必要とする人々の長蛇の列。不幸と幸せが押し寄せてくる。それでも小説が最終的に出す結論は「この郵便局は幸せに満ちていた」。力強い。その通りだと思う。人生は、様々な出来事が積み重なった結果、幸せに満ちる。不幸と幸せに満ちる、ではないことが重要だ。人生は、この郵便局のように、結論においては幸せに満ちていてほしい。この小説の「人生を肯定する力」は頼もしい。
 ところですごい気になったことがひとつ。「1ヶ月家の隣で工事が始まりうるさくて眠れない。仕方ないから耳栓をしたまま一ヶ月が経っていた」という文章。「1」と「一」で表記が揺れている。すごい気になる。でも「1」は横倒しになっているから「一」とほぼ見分けがつかない。なんだか郵便局に「そんな些細なことを気にしていては人生が幸せに満ちないよ」と言われているようだし、たしかにそれはそうかも、という気がしてきた。「1」を「一」に見せる文章技術は初めて見たし、単なる誤字ではなくそれが作品内容とうまく重なり合っている。なんだか素敵な「1」じゃないか。胸を打たれたぼくは、この作品の点数を、最上の意味で「1点」とすることにしました。ある意味でこれは5点を超える6点分の1点と言っても過言ではない。
(て、note公開版は上記の誤字が修正されていた!うぉい。と思えば、「それでも高木の人生は楽しかった」から「生」という字が抜けていた。うぉい。生きて、高木!)


〇鞍馬アリス「成長する起案」

 読み終えた後で冒頭に戻ると、「中西さんはこの現象を頑なに「成長」と呼んでいた。どこか嬉し気な口調で。」という文章の魅力が増していた。ここに込められた確信の念の手触りがとても好ましい。とてつもなくポジティブな信頼が書かれているように思う。ぼくらが生きる世界には「起案を成長させるなんらかの力の流れ」が確かに存在していて、ひとびとの間をしれっと力づよく流れているのだ。ひょっとしたら、本当は、中西さんの起案が成長することには人為的なからくりがあるのかもしれない。でも、そうした事象の裏側へと想像を向けるのではなく、ただ目の前の出来事のもつポジティブさを、「成長」あるいは「神様」と、そっとそのまま呼ぶことの大切さ。世界への愛情と敬意があふれている。3点です。


〇夜久野深作「夏の甲子園での永い一幕」

 夏の甲子園の風景に太平洋戦争のイメージをモンタージュ的に重ねていく語りによって、読者の眼前に「あの夏」が二重に映し出される作品で、アイデアが非常に秀逸。いまじぶんは何を見ているのか?という問いかけが読者の内側で反響する。ただアイデアがよくできているだけに、構成の単調さが目立ってしまった印象で惜しい。甲子園と太平洋戦争のモンタージュが冒頭二段落目で機能したあとは、転調のないまますすんでしまい、妙におさまりのよい落ちへと収斂してしまっている。出だしの仕掛けが見事だった分、そこからのもうひとひねりを期待させられてしまった(つまり文体のパワーではなく、構成の妙によって読者を楽しませる作品として冒頭が書かれてしまっているように思う)。そうした物足りなさゆえに1点です。


〇宮月中「花」

 痛み。苦しみ。消えないほどにつよく刻まれたそれから、どうすれば解放されるのか?ぼくはずっと考えている。これはぼく個人の人生の話ではあるけれど、しかしこの苦悩と無関係な人がどれだけいるだろうか?「花」はたった原稿用紙6枚で、「どうすれば解放されるのか?」という問いに鮮明な答えを導いている。人は忘れる生き物で、しかし忘却を制御することはできない。ぼくのそう長くない人生で気がついたのは、何かを忘れるためには、その対象を繰り返し思い出す必要があるということだ。一度その対象から意識をそらし、またそれを思い出す。何も解決していないように思えるし、実際、痛みも苦しみも変わっていない。でも人は、思い出すたびに少しずつ記憶を書き換えてしまう生き物だ(脳の記憶の仕組みがそうなっている)。だから、とても奇妙な話だけれど、人が痛みや苦しみを少しずつ減らしていくためには、つまりそれ自体を少しずつ忘れていくには、意識をそらすこと、そして思い出すことが大きな意味を持っている。「花」はそのことを描いている。日ごとに種類を変えて現れる教室の花は五感に訴えかける。そうして少しずつ、あの教室の生徒たちは、日ごとに痛みや苦しみの記憶から少しだけ意識をそらし、そしてまたすぐに思い出す。そうして十分に思い出すことを重ねたある朝に、自分の番が来たという直感を得る。花を置き換える。自分の前の誰かが置いた花を「秘密」としてひそかに抱え、自分たちがみな、とても人間らしい方法で、少しずつ記憶の痛みや苦しみを軽くし、生活になじませていたことを知る。みんなそうだったのだ、と知る。語り手が鞄に秋桜をしまったあの朝は、とても人間らしい特別な朝となる。みんな、そうして生きていく。その鮮やかな物語る手つきを高く評価したいので4点です。


〇星野いのり「連絡帳」

 日本語を操る技術がすさまじい。音読して気持ちよい日本語を書くことは当たり前の技であるかのようにかろやかに言葉をつなげている。脱帽した。句の内容はまず「四月」からはじまり、結びもまた「四月」で終わることで時間が句の全体や端々につよくしなやかで繊細な手つきによって生み出されていく。人を含めた動物たちの、主に上下運動からは、言葉のなかに重力が働いていることもわかる。そして散りばめられた光の触感(色も光だ)。俳句の連なりに、ぼくらの生きる世界がそのまま持ち込まれている。連絡帳には出来事がありのままに記されている。ここにフィクション(作り話)はない。登場人物や出来事といった概念もない。しごくシンプルに、ぼくらが日頃目にする(いまもそこにいる)現実世界が、ポン、と置かれている。こんな日本語表現ができたのかと、正直戦慄している。ぼくはこれまで日本語をこのように使えることを想定していなかった。完全に殴り負けた。文句なく5点です。


〇金子玲介「矢」

 各人の使命感の温度差と、それによって生まれる緊張と弛緩を描いた傑作。人生において誰しも直面する重要な問題が、教室の朝の一幕として過不足なく描かれている。……であるのに、ジャッジであるぼくの裁量によって無慈悲にも2点となった。この作品が2点とか、BFC3はあまりにきびしい戦いすぎる。この2点ばかりは、ぼくの好みが大きく影響している。3点の「成長する起案」とどちらを上にするかでだいぶ迷った。この評の冒頭に書いたこの作品の良さはぼくが好きなものではあるけれど、ぼくは「成長する起案」のまっすぐな世界への信頼によりつよく心を動かされた。わくわくどきどきパワーの微差。この作品についても評価したいポイントは多数ある。学生たちの使う語彙の精度の高さとか、小濵の長台詞を最後に置くテンポ感などとてもよかった。……であるのに、2点です。無慈悲ブンゲイファイトクラブ。


勝ち作品は、星野いのり「連絡帳」です。
(誤字が修正されていなかったら、実質6点の竹田信弥「幸せな郵便局」にしていたはずでした)

(※注 「1」を「一」の不統一は運営の校正洩れでした。もうしわけありません)

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大江信

 僕はいまとても残念な気持ちでいる。評価軸を設定し判定する作業はやわらかく繊細で傷付きやすいまるい感情にささくれ立った堅い木枠を囚われるように置き金槌で強く強く強く叩いて強引に嵌め込み、暗くて深い奈落に僕共々投げ落とす行為に等しいからだ。僕と僕が抱く「きみ」の感情は剥がれ落ちて迷子になったり、感情からはみ出して死んだまま心に纏わり付いたりして、選んだ選択肢が酷く汚れた物に思えてきた……。
「きみ」は僕のためにあり「僕」はきみと僕の心を守るためにある。きみと直接ことばを交わすことが、いま必要だ。こちらから連絡するから、もっと話そう。 
 評価軸は以下の3項目(配点A:2点・B:1点・C:2点 計5点満点)
〇A:テーマの一貫性:2点 テーマに一貫性があり破綻がないかを判定した。パラバシスやメタフィクショナルな語りの挿入、テーマの一貫性の破綻をテーマとしたメタフィクションについては内容毎に効果を判定。
〇B:適切な修辞表現(レトリック):1点 テーマに見合う適切な修辞表現(レトリック)かどうかを判定した。
〇C:物語の豊饒さ:2点 読み手によって新たに開かれる未知の部分があり、新たな視点の発見や思いもよらない想起を促すかを判定した。
〇グループB 作品評

勝者:「5年ランドリー」坂崎かおる 5点
「金継ぎ」 藤田雅矢 (A:2点・B:1点・C:1点 計4点)
 年に一度の月の点検作業の顛末が描かれる。冒頭部「天空軌道から~」、主体の欠けた描写が続き突然読み手に緊張感と補完を強いる。3行読めば作者は練達の士と判るレトリック。抜群の引きの効果。意図された「空白」が読み手を思考させ読み手自身の推進力で先を読まずにはいられなくなる。点検作業の流麗な描写、魅惑的な月の欠片の説明、掠奪団との白熱したアクション・シーン。「月で一番好きな場所は、やはりアポロ十一号の着陸位置だ」といった細部の語りの魅力は読み応えがある。語り手の「自分」も作業した先代の月といまの月の隙間を埋める金継ぎからタイトルが取られている。語り手の点検作業員が受け身で心の波が低く現状に甘んじている点が本作を静謐に留めている。金継ぎされた月は特別な美しさを放っていることだろう。その姿を是非見てみたいと思った。加点を控えた理由は、5点の作品にはもっと僕を強く揺さぶる力があったためだ。

「5年ランドリー」 坂崎かおる (A:2点・B:1点・C:2点 計5点)
 ロシア・シベリアの首都、国家の5ヵ年毎の計画で産業化が進展する街ノヴォシビルスクが舞台。計画の区切りと合わせたコインランドリーの洗濯機の設定「5年」が異色。「わたし」と恋人のヴィーチェニカを中心に子のコーリャ、妹のダーシャ、叔母さん等の人間模様が描かれ、結末では5年後の世界も詳らかになる。描写の細部が具体的で緻密かつ煌びやか、テンポも良い。鮮烈で息を呑んだ。かの地で暮らす市井の人々が時代に翻弄されながらも活き活きと今を生きる姿が鏡面となり読み手である僕の何気ない人生の場面までもが照らし出され強烈に輝いた。こみ上げるものがあった。5年ランドリー(計画)という国家の装置に押し込められ窮屈を強いられながら街で暮らす人々。世界中どこに暮らしていても窮屈さはある。どんな不条理にもめげずに前向きに生きていくことがどれだけ人生で大切かを生の言葉で得た感触で、原稿用紙六枚の作品でここまでできるものなのか! と感嘆させられた。結末のワンピースのくだりの余韻は切なく深く果てしなく広い。文句無しの一回戦24作中最高の作品!!必読。

「第三十二回 わんわんフェスティバル」 松井友里 (A:2点・B:1点・C:2点 計5点)
 年に一度のわんわんフェスティバルに向かう「私」の道中劇。向かうと書いたのは結末まで来ても尚わんわんフェスティバルに至らないからだ。本作が不条理劇をテーマに書かれたことは間違いなく、フランツ・カフカの『城』を思わせる。冒頭で起床から歯磨きまでの描写。事細かに記述する必要があるかと言うと通常ならば、無い。過剰な細部の描写を削れば会場の場面まで描けた筈だ。だが「女性は白髪まじりの髪をソフトクリームのような形に束ね、薄紫色のプリーツ加工のワンピースの胸元に、巨大な瑪瑙を金細工で縁取ったブローチをつけている」という描写や、ゼッケン、着ぬいぐるみ犬と子ども達などの不穏な細部の数々は会場へ向かう障害となる。すべて本物の犬に会わせないための仕掛けで、作者の目論見は見事に成功している。5点としたが、「5年ランドリー」の叙情が上回った。

「小さなリュック」 薫 (A:2点・B:1点・C:1点 計4点)
 アルバイト先のネットカフェで客の女の子が便所の窓から飛び降りた。「僕」は防犯カメラで女の子の無表情な顔を見て、かつてうつ病だった自身の顔を重ね合わせる。結末前「ビルから飛び降りるなんて、まともな人間のすることじゃあない」のリフレインが強烈。「僕」はかつてうつ病だったことを職場に隠しており想いを吐き出す場所がない。その裏返しで内閉し女の子が残した家出をするには小さすぎるリュックを自分が持ち部屋を出る姿を想像し立ち尽くしてしまう。女の子は一時一命をとりとめたが、結局死んでしまう。私小説を思わせる矛盾のないエピソード展開、起伏に手応えがある感情の流れは読み手の僕ともユニゾンして進み澱まず「僕」に強く共感しながら読み進めた。一時助かったとほっとしたのもつかの間亡くなってしまった女の子には心痛した。読み手としてズレを感じた点があるとすれば余りにもリアリスティックで読み手が入り込む隙間がほとんどなかったことだ。うつ病に共感しづらい読み手を誘い想像させる「空白」の設計があれば更に良かった。

「沼にはまった」 さばみそに (A:2点・B:1点・C:1点 計4点)
 断言しよう。黒猫が沼の主だ。いつどこで襲ってくるか分からない透明な沼というアイデアが語り手の「自分」の消失を暗示させる引力で読み進めた。間延びした友達の和志についての説明、和志とのやり取りは黒猫との交流と対置されていて、表面的な言葉だけではなく行動、態度で伝えあうことの大切さが示唆されている。気楽そうで悠長な「自分」が沈み消えてしまいそうなのに黒猫の心配をする姿はどこか滑稽で、風刺的に映った。作中に明示はない、仄めかしは黒い猫だということと黒猫の「光を湛えた瞳」という怪しげな描写くらいかもしれない。読み手を選び瑕疵ともなっているともいえる。確たる証拠はないが透明な沼を発生させ人々を支配しているのは黒猫なのだ。だから黒猫は餌を食べずに本当の餌(次は僕やきみかもしれない)を真っすぐに見ている。

「フー 川柳一一一句」 川合大祐 (A:1点・B:1点・C:2点 計4点)
 怒涛。<あなた>、<ホエール=ピープル>といった項立ての文句は句につながらないが気にせざるを得ない。策士の目論見通り攪乱させられる。句の多くは意味をつなごうとしても言葉同士の距離が遠すぎて正直分からない。敢えて意味を切断するように単語を接着している。目的は単なる戯れではなくて、意味がつながらない事象同士がつながらない意味を作者は真摯に捉えようと可視化しているのだ。それでも『イチローが「氏ね」と書き出す瓦版』のように物語性が保たれた句もあり、アクセントと捉えるか一時の弛緩と捉えるかかなり悩んだ。加点は控えたが、物凄い川柳だ。 

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鞍馬アリス

 ジャッジとして評価をする時には、読んでいて内容が面白かったかどうか、次の対戦で別の作品を読んでみたくなったかどうかという点を主眼として点数をつけました。
 どのグループもそうですが、参加作の質は非常に高く、5点と1点の差は僅かと言ってよいと思います。非常に悩ましいジャッジとなりましたが、以下に、付けた点数が高い作品から順に取り上げて感想を述べて行きたいと思いますので、ご覧いただければ幸いです。

・薫「小さなリュック」(5点)
 飛び降り自殺が起きるという非日常とそれを飲み込んでなかったことにしようとする日常とのバランスが非常に取れていて、独特の緊張感があるように思いました。主人公が自殺した女の子の顔と自分の顔を重ね合わせる部分が鬼気迫っていますよね。「普通」というよく分からないものにしがみつかないと生きていけない社会の怖さのようなものを上手く切り取った作品なのではないかと思いました。4点を付けた他の2作と並べて、二回戦に進出した際にどんな一手を打って来るのか気になったという理由から、5点としました。

・藤田雅矢「金継ぎ」(4点)
 幻想というのは細部をしっかり描くことで宿るという基本原則を実感できる素晴らしい作品でした。天体SF・天体幻想という点では稲垣足穂や山尾悠子味を感じました。最初の月の検査に関わる細かい描写があってこそ、月が割れてしまうであるとか金継ぎするという最後の大掛かりな結末が上手く生きて来るのだと思います。幻想の強度が高く、とても好みの作品なのですが、「月」という要素がよくあると言えばよくあるなと思ってしまい、「小さなリュック」と比べて1点低い点数に留めました。

・川合大佑「フー 川柳一一一句」(4点)
 意味というよりも、言葉のランダムな組み合わせが生みだす余韻、面白味のようなものを重視しているような気がしました。ランダムと言うと語弊がありますが、対象となる言葉同士のマリアージュから様々な連想が生じ、それが面白味に繋がっていたように思います。言葉の本来見えるはずのない側面が強引にしかし丁寧に照射されて行くような不思議な感覚を味わったと言えばよいでしょうか。「小さなリュック」とどちらを上位に置くか最後まで悩んだ作品でしたが、次にどんな一手を打って来るのだろうという好奇心で「小さなリュック」が競り勝ち、4点を付けました。

・坂崎かおる「五年ランドリー」(3点)
 終わりの部分の余韻が非常にある作品でした。5年という歳月は短いようでいて、あらゆることが変わってしまう可能性があるわけですよね。ただ、その中で生きている多くの人はその変化を見ていることしかできない、そのことに対するもどかしさが凝縮しているように感じました。洗濯機に5年という表示が記されているという点は非常に面白いのですが、その面白味が殺されてしまっているような気がしてしまい、物語の余韻にも関わらず上位3作と比べて低い3点を付けました。

・松井友里「第三十二回 わんわんフェスティバル」(2点)
 このわんわんフェスティバルには30年以上の歴史があるわけで、それが最初期のフェスティバルを変質させているような気もします。主人公が、時代に取り残され、形骸化し、熱意を欠いているようなフェスティバルに怒りを感じつつも「犬がいる」可能性によって妥協し、取り込まれ、このマンションの本当の住人になってしまうのなら、それは怖いことかもしれないと思いました。不条理な雰囲気の漂う面白い作品なのですが、上位4作と比べてパンチが弱く、2点という点数を付けました。

・さばみそに「沼にはまった」(1点)
透明な沼に嵌ってどこか分からない場所にランダムに飛ばされて発見されるという設定が非常に面白いなと思いました。日常の中に非日常を紛れ込ませるその手腕に、確かなものを感じました。赤の他人や大学の友人は助けてくれないけれど、なら主人公の家族はどうなんだろうと思ってしまったところがあって、諦めるにはまだ逃げ道が完全に塞ぎきれていなかったのかなぁという気がしました。また、透明な沼の設定は面白いのですが、それだけではパンチが弱く、もうひとひねり欲しかったとも思いました。以上のことから他の5作品と比較して最も低い1点という点数を付けました。

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それぞれの「I」 

樋口芽ぐむ

 初めまして。ワナビーの成れの果てです。将来の夢はプロ野球選手です(50歳男子談)。お付き合いの程よろしくお願いいたします。

『第三十二回 わんわんフェスティバル』 3点

 何時に起き何を食べと行動を事細かに記す文章は、はつらつとした小学生の作文のよう。
 わんわんフェスティバル会場へ向かった主人公の「私」は小事件に巻き込まれるのですが、「小」と捉えるのはこちらが壮年だからで、小学生のように感受性豊かな者には大事件かもしれません。素直な文体はその感性を読み手によみがえらせるためと見ました。
 はつらつとした序盤の子細な描写は徐々にトーンを変え、ほのかに殺伐としたラストの描写も沁みます。
 リーダブルだけど企みある快作。

『沼にはまった』 3点

 主人公「自分」もしくは「俺」が語尾に「笑」をつけて電話で話すシーンが秀逸。
 あくまでもシリアスさを避けてやり取りする「俺」と友人の姿からは、必死の願いを断ること断わられることへの怖れが透かし見えて、その向こうには、「他人様は当てにならない」という冷めた現状認識がうかがえます。
 いかにも淋しい人間関係ですが、樋口とて薄いつながりを蜘蛛の糸のごとく引っつかんで日々をしのいでおり、タイトルが改めて利いてきます。
 生きることはもがくこと。わたしたちは蓮の花。濁世という泥沼できれいに咲くため。
 でも、この難事を乗り越えた数年後には、「むかし沼にはまってさー笑」「まじで笑笑笑」とネタにしている気もします。猫にやさしい彼には、そんな明るい未来が待っていてほしい。

『金継ぎ』 4点

 視点人物であり天体整備士? でもある「自分」の仕事ぶりからは己の仕事への誇りと愛情がうかがえて。
 けれど月はその儚いうつくしさを破壊され、その後の展開に痺れます。
 月もひとも、傷跡を残すくらいが魅力的。
 庶民の頼もしさを感じてとってもよかった。好き。

『小さなリュック』   4点

 主人公の「僕」は周囲のひとびとと距離を保っているように見えます。バイト先のネットカフェで起きた飛び降り事件からも。
 しかし然もない、けれど衝撃的な画像を目にすることで、彼はその飛び降り事件を他人事と捉えられなくなったようです。
 無自覚に差別的な周囲の反応に彼が迎合する場面は、重く、痛い。この重さ、言い換えるとまじめさは貴重。
 淡々とした記述はあっけなく閉じられ、あっけないから深く刺さります、「あなたは死をどう考えますか。他人の死を、どう感じますか」

『フー 川柳一一一句』 4点

 腸詰が虚無だったのかVOWに問え

 という句に対し秒で「それはただの腸や」と脳内漫才を繰り広げ、声を出して笑う。
 ナンセンスさ、ペーソス、批評性などを伴う多彩な句群を一一一連続で読むと酩酊に似た精神状態へと至り、気がつけば周りには自分が息するのとは違う世界が広がって。
 恐怖とも解放感とも呼べる感覚が身のうちに満ち満ちて、感嘆と、敬意と畏怖を、作者まで。

『5年ランドリー』 5点
 1986年にはじまったペレストロイカにより冷戦が終結し、後に改革を進めたゴルビー失脚、ソ連解体、再びのロシア誕生が1991年。その間5年。
 視点人物の「わたし」は明るい女性に思われますが、かの国における女性たちは息苦しい生活を強いられています。「わたし」も。その伯母も。もしかしたら、ランドリーでおしゃべりに興じる老婆たちも。
 何しろ伯母は、作ってやった服を着て「わたし」に葬儀に出てほしいと大まじめに口にするのです。そう口にする彼女の人生に、歓びを味わう一瞬があったのか、胸が縮みます。
「わたし」は、本当は苦しいのではないか。 物資に乏しく貧しく、好きな職業に就けず己の生の可能性を断たれた暮らし。彼女の陽気さは、苦しい現実から心身を守る手段。あるいは強弁。
 出稼ぎでしょうか、恋人らしき男性は国を出ます。控えめに深い愛情を「わたし」に示して。
 亡き母を思い出す。亡き父を思い出す。
 歴史のうねりに呑み込まれ、もう会うこともないだろう故郷のひとびとを思い出す。
 普遍的な悲しみ、あるいは郷愁を堪能し、本作を二回戦へと推す。

 
 グループBを読み終えて気づいたことがあります。
 川柳の視点人物は前提として一人称「I」と聞いた気がするのですが、正確なところが分からないので外しますけれども、『フー 川柳一一一句』をのぞくグループBの作品は、すべて一人称が主語であり、『五年ランドリー』以外の作品は主人公がどちらの性であっても成立しそうです。
 性別によるちがいが小さくなったのか、性差への意識が薄れたのか、それは分かりませんけれども、いかにも時代を感じる発見でした。

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グループC講評

小林かをる

 
 二十年前、三田文学の新人賞を佳作でいただいた時には三人の選考委員によるあれこれの評が並んでいた。
「『ほくほく線』なんて、気持ちがほくほくしているのを表したかったのでしょうか。でもふざけすぎていますよね。ここが正賞をあたえたくない理由で」
 この評を読んだ時に私は身近にあるものすべてを投げつけたいような、叩き割りたいような、そしてひたひたとする絶望に襲われた。
「ほくほく線」は実際にある路線名なのだ。
私はふざけすぎているような路線のしかない田舎の町に住んでいた。そこに住むことは、結婚相手の仕事の都合で、つまりはそんな場所に住む人と結婚したのは私の意思で、結婚するまで働いていた職場の上司が「この東京を棄てさせるほどの男か。きっと後悔する時が来る」と言った言葉が何度目かに身体中にぐわんぐわんとこだました。まだネットのほとんどない時代で選考委員を責めるわけにはいかなかった。
 最近、文學界に掲載された桜庭一樹さんの小説を鴻巣友季子さんが朝日新聞で評されたことから騒動が起きた。桜庭さんは「そんなことは書いていないし、朝日新聞に出たことは田舎の人はみんな信じてしまうから母がどんな目にあうかわからない」と傍目には過剰と思えるように反応され謝罪文を要求された。
 私は文芸作品を書いて、ひとたび世の中の人の目に触れるものになれば、作者は一切の反論する権利はないというスタンスである。
「ポストは赤い」と書いたものが」「ポストは白い」と読まれてもそれはその作品の運命みたいなものだと思う。作者はそれを読んだら「ああ、そういう風に読めましたか」と思い、高めの紅茶を飲んだら、あるいは上質なワインを飲んだら終わりにすべきだと考えている。昔、村上春樹も言っていた。「作家は作家の仕事をして、評論家は評論家の仕事をする。そして夕食を食べる。それだけだ」
ただ少し歳をとった私なら今なら「ほくほく線」とは書かない。「越後南線」くらいにする知恵がついた。そうして作者は成長していくのだと思う。
昔読んだ曽野綾子さんのエッセイで若き日の曽野さんは文學界の新人評にホンの三行取り上げられていたことをじっと胸に抱いて作品を書き続けられたという。その気持ちはわかる。
 ところで、文芸作品の選考をするのは昔からの夢だった。ある人(文芸界隈の人)にそう言うと「あなたって思いがけない人だね」と呆れられたようだった。他人には呆れられることでも私は今回ジャッジに選んでいただきすごくすごく嬉しかった。
 だから応募作を全部プリントアウトして丁寧に読み込もうとした。読む前には友達がくれた高級なクレンジングで顔を洗い、エスティ―ローダの化粧品でメイクして、姿勢も伸ばして原稿に向かった。
 さすがに予選を勝ち抜いた作品だけのことはあるというのが第一の感想である。応募数341でファイターになれたのが24人だから倍率は14倍を超える。日本で一番難しいと言われている司法試験も令和3年の合格率は40%を超えている。やはり難関の慶應医学部の競争率は6倍である。ブンゲイファイトクラブ2021でファイターになるのは司法試験合格より、慶應医学部入学よりも難関なのだ。
どの作品にも「読むことが好き」「書くことが好き」というオーラが原稿から光っている。読書離れが言われ、本屋の閉店が多く報道される中で、稀な、というか貴重な世界である。上野のパンダのようなものかもしれない。
 文芸作品を書くというのは素晴らしい行為だと思う。他人に迷惑をかけない。日常的な本代は別にするとほとんどお金もかからない。怪我することはない。「生きる」というつらい事象に何らかの温かみというか、救いみたいなものももたらす。そしてブンゲイファイトクラブのような楽しい催しに、わあわあと参加できる。
 
「超娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」(首都大学留一)超娘ルリリンの描写が秀逸。テンポも良い。読み慣れ、書き慣れた筆者であるのがわかる。しかし「私」が出てくる展開が私にはよくわからない。読み手を選ぶ作品なのであろう。3点。
「中庭の女たち」(コマツ)ギリシア彫刻の世界を彷彿させる。雰囲気のある作風。「中庭の女たち」と「私」の関係性が私にはよくわからなかった。消化不良の気がする。3点。
「バックコーラスの傾度」(阿部未知)書き慣れた人であるのがわかる。才能もおありだろう。「オーディション」と「バス停」のそれぞれの部分は佳品だが、そのふたつが乖離しているように感じられた。3点。
「銘菓」(左沢森)文句なしです。素晴らしい。最初の「ばかだから下北沢の駅前に面影を見るくらいしかできない」で心を掴まれました。すでに還暦を過ぎた私ですが、この感覚は体感できます。青春であり人生です。他の歌もしみじみ読ませます。力あります。5点。
「やさしくなったね」(白城マヒロ)秀作です。かなりの文章を書かれている人とお見受けしました。もう一歩オリジナリティが今後の課題でしょう。4点。
「ロボとねずみ氏(紙文)秀作です。うまい。おかしな言い方ですが換金できるレベルと思いました。細部までよく練られています。ありそうな話でオリジナリティもあると感じました。5点。
 Cグループの勝抜けは「銘菓」左沢森さんを選ばせていただきました。

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冬木草華

 ジャッジをするにあたって明確な基準というものは作らず、それぞれの良さを見て、加点法によって採点することにしました。というのも、全作レベルが高く明確な基準から外れることで減点を行うよりは正しいジャッジが可能だと考えたからです。ただ、まったく基準がないというのはあまりにも作品にも作者にも失礼なので、作品がやろうとしていること、そして、そのためにどういったアプローチが行われたかを中心に考え、判断しました。もちろん、好みは考慮に入れていません。勝ち抜けは、その中で次作に更なるアクションを予感させるものを選びました。他グループについても同様で、採点はグループ内で相対的に見て、インフレを起こさないよう若干の点数調整を行っていますが、点数が低いからと言って決して作品が優れていないわけではありません。

「超娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」 首都大学留一
 アニメ的な素材が生活臭の漂う描写でパロディとは一線を画している。襖の、メタとしての新鮮さ、「ルリリン」は読者の視線すら拒否しているように思えた。繰り返されるフレーズによるスローな一動作と後半の瞬く間に過ぎ去る時間の対比も効いている。後者を実感させるための文体も言葉の差し挟まれる箇所が巧みに選ばれていて、可読性が損なわれない。店員の名前の羅列からもわかるように、言葉のリズム感覚に優れていると感じた。ただ、□や■は本当に必要だっただろうか。説明がなくともそれがなにを示すかはわかるが、視覚的な効果に留まっている。これは見当違いかもしれないが、「ルリリン」が魔法的なものを使うのは、自分を守るためのようにも思える。「私」の情報は少ないが、厭な方向に想像力が働くと、「私」の姿は不条理に遭った人間とは言えない。こういう解釈の余地も残されていて、ただの実験的な作品にとどまっていない。

「中庭の女たち」 コマツ
 連綿と続く芸術家たちの仕事と水面から溢れる豊饒な題材、そして作品に宿るもの。
書き出しが繰り返されることで、「超娘」のような効果ではなく、作品内の彫刻たちのように重層的な雰囲気が生まれている。水面に映るものごとの距離や時間さえ跳び越すイメージの自由さ、中庭からぐっと盛り上がり中庭へ戻っていく描写や象牙の珠が作品の一部でありながら全体を包み込む手腕は見事。中庭という舞台設定や女たち、その匿名性は、作品に多様な解釈を与えてくれる。限定された空間に女性がいること、そして後世に残るほどの技術力を持ちながら名前すら残っていないこと。ひとつ気になったのが、後半部の「私」のいる世界へと広がり、そして展覧会で見た象牙の珠から中庭の女たちに戻っていく際、「私」の状況に不明な点が見られるせいか「私」が象牙の珠や最後の科白のための道具のようにも思えてしまった。それでも最後の科白には芸術への愛があるように思えた。

「バックコーラスの傾度」 堀部未知
 バックコーラスのオーディションとは思えないような審査内容を回想し、そして結果発表を見に行くためにバス停へ向かう、物語としてはいささか平板なはずであるのに作品の読ませる力は損なわれない。自分の一挙手一投足が見られるような厳しい審査において「わたし」はバックコーラスにふさわしい態度を作ろうとしていたが、それは焼いたチーズケーキをすりおろすように、一瞬は美しいがすぐに異物に変わる。こしらえものはこしらえものに過ぎないということか。最終段落は大きく様相が異なった印象がある。前段落までの雰囲気が崩れて現実性が大きく揺らぐ。最後で最初からの雰囲気を崩してしまうのは少しもったいないようにも思えるが、認識にねじれが生まれ、空間に対する物の関係が逆転を起こしている。そこで語られる言葉は新鮮で面白く、ラストはこれしかないふさわしいものだ。

「銘菓」 左沢森
 単語ごとにはありふれたものが意想外の組み合わせによって大きく跳躍している。あるいは、ふくらみ、縮んでもいく。言葉の大きさを実感として表すような手触りだ。ひとつの歌の中で、どこかで必ずイメージの変更を余儀なくされる。それは、見えないものの姿さえ現実に定着させる、あるいは逆のことを行っている語りによる力が大きいと思う。例えば四首目は、前半部の幻想的な「夏のくびれの~」から「車の鍵」に至って歌全体としての親しみが増して、言葉の解像度が増すような印象がある。二十六首目は反対に、「絵具には~」は慣れ親しんだ言葉が、「片方は冬の動きを閉じ込めている」で安易さを拒むように言葉を解放する。この作品はグループ内のどの作品よりも自由に言葉を使っている。それが短歌というジャンルによるものだとしても関係なく評価できる。

「やさしくなってね」 白城マヒロ
 まず思うのはタイトルの上手さ。読み進めていく中で、その言葉がかけられる対象が変わっていき、最後まで読み進めてもそのかける対象は明示されず、読者にはっきりと問いを突きつけている。子どもと暴力の組み合わせは決して新鮮ではないが、ありきたりな作品に留まっていないのは、暴力がゆるされてしまう世界を描いているからだ。最初「わたし」は暴力を振るった自分を怖いと思うが、称賛され嬉しいという気持ちに「なることができた」と思ってしまう。このような細かい言葉の言い回し、描写がじわじわと効いてくる。「それ」の正体は不明だが、当初あった暴力性は後半鳴りを潜め、もっぱらそれは「わたし」にある。それが、「わたし」の「それ」へのやさしさが仄見える瞬間とつめたさのちぐはぐさを一層引き立たせている。それだけにラストは読者の想像を大きく超えてくるものとは思えず、そこを飛び越えてほしいと思った。

「ロボとねずみ氏」 紙文
 ロボットの死生観というテーマはSFではよく目にするが、この作品はその既視感をあまり感じさせなかった。それはラストの二重になった魅力だ。「ねずみ氏」と「ロボ」が死んだ悲しさ、これが第一にあって、そこにさらに「ねずみ氏」がぬいぐるみである事実が知らされる。「ロボ」のロボットらしい生死への解像度とこの事実には矛盾がある。「ロボ」からすれば本来「ねずみ氏」は生きていない。けれど、「ロボ」は「ねずみ氏」をぬいぐるみという生のないものに生があると直感で信じた。この時点で「ロボ」はなんらかのエラーを起こしている。虚構を現実として見るエラーを。そしてその中で「ロボ」は命の意味を知る。そのために「ロボ」の起こした行動は自殺ではないはずだ。綺麗にまとまり過ぎているような気もするが、フィクションを信じようとする力には無視できない魅力がある。

・全体評
 どの作品が勝ち抜けでもおかしくない。「超娘~」のまさにBFC的野心、「中庭~」の美しい中でのラストの読者へのストイックさ、「バック~」の奇想と語りの面白さ、「銘菓」の語りの自由さ、「やさしく~」は続きを読みたいと思わせるし「ロボ~」は掌編としての完成度の高い。だが、その中でも次戦において、最もファイター・ジャッジを翻弄できる自由さを持つと思わされた、左沢森「銘菓」を推す。

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由々平秕による採点方法の説明とグループCの評   

由々平秕

作品全体を印象・技術・題材・思想の四視点、各四段階で評価し平均点を算出(小数点以下は四捨五入)、さらに細部の「驚き」を数え四以上なら一点追加(細部点)、最高点取得作が勝ち抜け。同点首位の場合は平均点算出前の合計点が多いほうを選んだ。私は文芸を読む際に眉や肩がよく動く。そのうち嬉しい驚きに由来するものを数えたのが細部点である。お前の体が動いた回数など知ったこっちゃないかもしれない。だが人間が読んでいることの証の一部はそういうところに宿るのだと思う。

首都大学留一「超娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」 
4点(印3+技4+題4+思1/細1)
無理やり和訳された英熟語の怪しさ、女児アニメ、スローモーションと反復を合図に忍び寄るノイジーなビートが時間をバキバキに歪めていく類例なきノーラン風フューチャーファンク小説。基本の文体が極めて端正なぶん歪ませ方には並外れた狂気か常軌を逸した理性のいずれかが必要だが、作者は理性の徹底によって「まひるだ」「よるグマ」「死ひるぬ」など作為と偶然のあわいに蠢く亜日本語を鮮やかに生み出した。だがその奇怪な計算術に没頭するあまり終盤、原文の強度はノイズが未だ影を潜めていた前半の圧倒的な彫琢具合に比して急激に衰えてしまう。初めから歪ませるために書かれた言葉を歪ませているように感じとられたなら若干の退屈は避けがたいかもしれない。

コマツ「中庭の女たち」 
2点(印2+技2+題3+思1/細0)
誰が思い、誰が誘うのか、こちらとはどこで、それとは何か。受動態により省略される主語と指示語が奪う具体性。散りばめた無数の空白で世界の際限なさを描出しようとする本作は、それ自体が作中の象牙細工に擬態する入れ子状の試みである。だが十全な擬態にはフォルムの美も、それを破る装飾性の過剰もわずかに足りない。作品が宿す悠久の感覚を一瞬で予感させる一文目の力は半端な反復によりむしろ弱められる。水面に映り込むものの列挙は美しいが異化効果を欠いたまま滑らかに抽象度の階梯を昇っていくのでやや平板で、最終段は意図された朦朧体というより息切れを思わせる。彫刻に彫刻を重ねる過装飾の破調か、完全な球体のごとき形式美、そのいずれかを見たかった。

堀部未知「バックコーラスの傾度」 
5点(印4+技4+題4+思2/細1)★
巧まれた奇矯さは自然体を装うほどに作為を浮き滲ませるものだが、それさえも逆手に取ったエクストラ・ラディカルな自意識のドラマ。「お風呂あがりの力士」をはじめ、ぶっ飛んだようでどこかカルチャースクール的なお行儀よさのある比喩があわや鼻につきかける瀬戸際に、陶然と猫の美を讃える以上の熱量で繰り出すミヤジ論と、まさかの字義性に回収される「犬」がすべてをかっさらう。驚きに満ちた細部(空、罪、この星…)そしてヴィジュアル的にも完璧な結び。ただしバス停と不安の含意は黙っておいてもよかったと思う。

左沢森「銘菓」 
3点(印2+技4+題3+思1/細0)
統辞が不完全でも完璧な言葉の排列は存在するし、現にここにある言葉はみなこれ以上正しい位置などありえないくらい満ち足りて見える。忘れがたい作も多い(ばかだから、夏はもう、お互いの…)。にもかかわらず消え残る所在なさは作者固有の抒情の居場所が見えないせいかもしれない。数詞、人名、文法用語、芝居めいた語尾、屋号、隠喩……距離感の異なる言葉の一つひとつを作者はどんなふうに愛しているのか。かくも適切に動員された言葉を回転遊具の軸としたとき、両端の作者と読者双方に見せる風景の、色調も倍率も一つの世界らしい像を結ばない。この軽やかさは、しかし抒情を裏切りきるしたたかさと抒情に賭ける蛮勇のいずれにも振りきれない未練の裏面のようで、私には寂しく映った。

白城マヒロ「やさしくなってね」 
4点(印4+技4+題3+思3/細0)
子供がもつ残酷さと優しさと言ってしまえば凡庸になりかねない主題ながら、両者を陰陽に割り振るのでも不定形な一塊と見なすのでもなく、完全にフラットで隅々まで明るい心の平面上に互いに独立した項として(恐怖や自尊など他の要素とともに、しかし一切の生々しい葛藤抜きに)配置しその作動を淡々とシミュレーションしてみせた凄み。子供の語りを採ることは、言葉の次元で完結するはずの〈正しさ〉がそのまま現実的な〈正しさ〉と紙一重に接する仕方で問われる例外的な領域だと思うが、作者の修辞はそのことにかんしても負うべき責任を完全に負っている、一文一文が倫理的なまでに適切で、構成にも非の打ち所がない。相対的な爆発力の低さゆえ満点には至らなかったが単体で見ればほとんど完璧。

紙文「ロボとねずみ氏」 
2点(印2+技3+題2+思2/細0)
人間が絶えても折り目正しく動き続けるロボットたちを愛している。だから「ロボ」の思考や感性の一見半端な人間らしさが悲しかった。レコード盤自体をマリア・カラスの新たなボディと認識しうるまで人間原理を離れていればロボは「ねずみ氏」をぬいぐるみとしてあるがままに生かすこともできただろうに。この半端さは残酷な寓話を導きたい作者の恣意的なデザインにも見えるが、いくつかの符牒が別の読みを誘う――「すべてわかっていた」のは(語り手ではなく)ロボ自身だったのか。強い風にあおられて「動いている」ぬいぐるみに「命」を誤認したのではなく「人間の考える生と死」を敢えて人間のように演じたその末に「死後の世界」の「ひとりと一匹」になろうとしたのか。かくして揺れ動く読みをも見守る巨大な「宇宙船の影」。読解を確定させないのは深さでもありうるが、本作の場合は語り手とロボ、人間性と非人間性の駆け引きを制御しきれない叙述の弱さも大きいと見た。

以上より「バックコーラスの傾度」の堀部未知を勝ち抜けファイターに推す。

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インスタント、リカレント、フィードバック

笠井康平

■勝ち抜け結果
Aグループは「矢」を、Bグループは「5年ランドリー」を、Cグループは「銘菓」を、Dグループは「カニ浄土」を勝ち抜けとしました。

採点方法は後述します。落選展・イグBFCの顔ぶれを見るに、予選の審査では、際どい表現やリアリティの追求、反-フィクションの試みが選ばれにくく、文章技術へのこだわりよりも、ジャンルフィクションの多様さを示すことに重きが置かれたのかもしれません。大会運営も成長期にあるとしたら、ぼくの方法が後学のためになればと思います。

■担当グループについて
ぼくの担当グループDは、「イカの壁」「生きている(と思われる)もの」「お節」「カニ浄土」「明星」「爛雪記」の6作でした。採点結果の昇順に言及します。

「イカの壁」(3)は、時制の乱れや場面転換の唐突さ、結末部のつけ足し感といった構成のほつれが、終盤の情景の迫力を弱めたきらいがあります。形容表現がいかにも慣用的な語彙から選ばれることもあり、構文の転置・分割や終助詞の多用が、話し言葉のとりとめなさではなく、書き言葉のぎこちなさを悪目立ちさせていて、これは著者の手落ちというより、「児童の語り」と「異形の遭遇」を「大人の価値観」抜きで両立させる話法が、日本語圏では未発達だからでしょう。新しい語り口の考案に期待したいです。

「生きている(と思われる)もの」(4)は、公園の風景描写に字数を割きすぎず、「霊」の姿やふるまい、存在理由に言葉を費やせていたら、語り手と「大月さん」の仕事内容にもっと読者を引き込めたかもしれません。「霊」の種類が説明なしに書かれるわりに、話の軸足が「背後霊」「怪異」「光」と次々に変わるので、どのモチーフも「よくわからない」ままになっていて、もったいない。せめて統計の目的・方法だけでも明らかになれば、設定の開示が少ないままでも、読者の没入感を高められるだろうと思いました。

「明星」(6)は、やわらかな友愛を描くのに、言葉づかいが堅苦しく、展開ごとの書き込みが細かすぎて、かえって主要人物(ゆい、つむぎ)の人物造形が平板になっているようです。副詞や形容詞をしっかり削り、内面ではなく動作を、解釈ではなく場面を描くことに注力すれば、モチーフを次々に投じなくても、会話の乏しい関係を長持ちさせるプロットがおのずと立ち上がるはず。囲碁の棋風による性格の描き分けは、シスターフッドを扱うフィクションには前例がなさそうで、掘り下げると鉱脈に当たりそうです。

「爛雪記」(7)は、色彩と感情の取り合わせで四季の擬神化をやり遂げたものの、文章の組み立てをみると、想像しやすい情景をふつうの構文で書きとめて、主な名詞を自作の漢語へ置き換えるに留まっています。豊かなイメージボードである一方で、この字数制限でひとつの掌編を仕上げるにはキャラクター設定も作中シンボルも多すぎて、「膨大な時間」「季節の循環」「対関係」「博愛/孤独」といった構成要素がなおざりになっているようです。終幕があざやかなので、話の焦点を「雪妃」に絞る戦略もありえたでしょうか。

「お節」(14)は、新潟市近郊に根づく富裕層の婚姻習俗を下敷きに、嫁-姑間の価値観のずれと、歳月を重ねても埋まらない親族の不和をこまごまと示しながら、東京圏の多彩な都市文化とも、再開発の進む新潟駅周辺とも対照的な、歴史ある繁華街の冬景色を記録しています。「熊次郎」「理一郎」の没年がはっきりせず、中盤で時系列をやや追いづらいところで加点しきれなかったものの、ファクトの扱いには安定感があって、「深さ」は全作のなかで最高得点でした。

「カニ浄土」(15)は、伊予弁と筑前方言の混淆を思わせる語りを取り入れて、時代の流れに取り残された漁師町の様子を描きます。字数を絞って一場面のスケッチに専念したことで、この採点法では最多得点になりました。先行作をつよく想起させる題名と、時代設定と工業技術革新のアンマッチが、本文解釈の争点になるでしょう。あれこれ調べたすえ、郷土史の考証が背景にあるわけではなく、地場産業の弱い過疎地に共通の苦渋を読者が想像しやすくするための工夫以上ではないと読みました。それでも寓意の読み取りを誘うには十分で、すぐれた仕上がりだと感じます。

■採点方法
いくつかの反省があって、まずは昨年の評価方法を見直そうと、思いつく限りの「評価要素」を洗い出して、どの要素もひとつずつ審査できないかと考えました。154の評価要素が発見されました。1要素あたり3分で判断しても、1作あたり約8時間かかると分かりました。24作を判定するには162時間。さすがにあきらめました。

そこで、評価要素をいくつかの「評価特性」にまとめてみました。21項目になりました。正確性、簡潔性、理解性、伝達性、技巧性、流暢性、新規性、独自性、多様性、共感性、没入性、娯楽性、充実性、構築性、論理性、戦略性、普遍性、社会性、共同性、普及性、記録性です。これならひとつずつ判定できる気がしました。

できませんでした。たとえば、簡潔な文章とはどういうものか。それだけを論じる本が何冊も書けそうだと気づきました。1冊書くのに3年かかるとして、21項目なら63年です。〆切にはとてもまにあいません。

仕方がないので、どの評価特性も4つの「評価項目」に区分しました。基礎点(やさしさ)6項目、技術点(遠さ)5項目、構成点(広さ)5項目、素材点(深さ)5項目としました。無理やりの当てはめです。

たとえば、評価項目「やさしさ」は、正確性、簡潔性、理解性、伝達性、技巧性、流暢性で構成されます。はっきり、すっきり、しっかり、すんなり、見事に、なめらかに書かれた文章は、書き手にも、読み手にも、被写体にも「やさしい」と言えるはず、といった発想です。

でも、だれにでも「やさしい」文章なんてありえないんですよね。それに、評価指標の区分を減らしたところで、その指標が持ちうる複雑さが失われるわけじゃない。

悩んだすえ、簡単のため、やさしさ(6項目)、遠さ(5項目)、広さ(5項目)、深さ(5項目)の各項目を1点満点で採点することにしました。満点は21点として、合計点を5段階評価に割り戻しました。それぞれ、評価1(0~2点)、評価2(3~6点)、評価3(7~10点)、評価4(11~14点)、評価5(15点以上)です。

これなら不慣れなひとでも真似しやすいし、採点者が何に加点したのかも読みとりやすいはず。とはいえ各項目を2値分類するので、評価されやすい/されにくいテキストが自ずと生まれます。たくさんの項目をまんべんなく押さえたテキストは得点しやすく、ある特性にだけ極めてすぐれたテキストは伸び悩みます。

つまりは、ワンアイデアで書かれたシングルストーリーよりも、いくつもの題材を組み合わせたナラティブが高得点になりやすい。しかもこの採点法は、着想の良し悪しに踏み込みません。低得点だからダメなわけではありません。ご注意ください。

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生み出した物語にどこまで尽くせるか

寒竹泉美

 どの物語も本当に面白かったです。短い中に世界が詰まっていて。出会えて幸せだと思える作品ばかりでした。だからこそ、何で、もっとすみずみまで企みを凝らして、ちゃんと伝えてくれないんだよー! と作者にモノ申したくなる作品もあったのでした。
 5点をつけた作品以外は、生み出した物語(短歌や川柳や俳句もそこには物語があると思う)のポテンシャルを生かしきれていなくて、作者ががんばれば、もっともっと輝けるはずなのに惜しいなと思いました。
 物語を生み出した作者は確かに偉いのです。尊い。そのままどしどし生み出し続けてください。でも、生み出したあとは、物語に忠実に仕える下僕にならなくてはならない、と、わたしは考えています。もはや作者は主人ではない。主役は物語なのですから。
 一文一文、一語一語が、物語にとって必要なのかどうかを吟味する。その行為がブンゲイであると思う。ブンゲイは自分に対する愛ではない。物語への愛。そして読者への愛。
 物語を文章で伝えようとするのは、限りなく無謀な行為だと思う。あの奥行きも時間も色も動きも匂いも触感も内包した物語を、黒の線で書かれた記号だけで伝えようなんて、難しいに決まっている。受け取る方だって難しい。その難しい行為をわざわざやろうというのだから、書くやつも読むやつもみんな変態に決まっている。
 つまり、わたしは愛にあふれたプロフェッショナルな変態に出会いたい!
 というわけで、わたしの評価基準は、愛と変態度です。物語に優劣などつくわけがないし、「全部好きー!」で終わらせるわけにはいかなので、もう変態度で評価するしかない。

 グループDのベストオブ変態は「カニ浄土」でした。イカ、いや以下、個別の感想を記します。

「イカの壁」面白くてげらげら笑いました。主人公のちょっとずれた感想とか「変身」のグレゴールみたい。しかしきれいに収まりすぎではないか。不条理を貫き通してほしかった。イカ界の通り魔は面白いのに、前世がイカ設定は雑。「後から聞いたんだけど」も急ぎすぎ。あと、他のイカたちはポンポが確実に死ぬところを見に来たというオチなら、ポンポは刺されるまでは生きていたほうがよかったのでは。家庭科ではなく理科の実験でもよかったかもしれない。

「生きている(と思われる)もの」面白い設定。わくわくした。ただ、背後霊って結局なんだったのだろうか、もやもやした。ちりばめられた手がかりが雑で、「あれは何だったのだろう」って想像しようとすると、矛盾が生じて躓いてしまう。もったいない。七本足を含め、背後霊のラインナップに何らかの法則性とかあってほしいし、「わたし」の過去も現状もチラ見せしただけで欲求不満がたまってしまったし、最後の光も納得感がない。背後霊のオリジナリティというか生態系というか、この世界の法則みたいなものが見えたらもっとわくわくしたのに残念でした。隅々まで演出してほしかったです。だって、背後霊とか大好きだから!

「お節」登場人物の名前が、誰が誰やら(わたしの中で)わからなくなるのがもったいなかったです。せっかく一人称なのだから、人物を全員ニュートラルに名前呼びせずに、あだ名つけたり義母さんと呼んだり、「~君」付けしたりすることもできたのかもと思いました。もしくは三人称を駆使すれば、人物を客観的に描写・批評することができるので区別をつけやすかったかもしれない。人物たちが生々しく息をして存在している。それぞれが違う行動原理で動いている。それってすごいことで、あとは作者が読者に分かりやすく伝えるだけ。まるでその場にいるように、ストレスなくこの世界を楽しみたい。

「カニ浄土」全然知らない方言のはずなのに、意味がわかって怖かった。よく見ると工夫が凝らされている。方言らしさを強調する語尾、でも意味を表すところは漢字を使ってそこはくずさないようにしている。編集前のドキュメンタリー映像のようだと思ったが、いや映像ではない、今まさに目の前にいる相手にインタビューしている感じだと思った。わたしはこの作品に出会うまで、書き込むことが描写だと思っていた。でもそうじゃなかった。削ることで生まれる濃さ。わたしのブンゲイ感がくつがえされた。五感を支配された。この作品を読んで、小説は映像どころか生の体験にも勝つことができるのかもしれない、と思えて嬉しかった。

「明星」うねうねくねくねして何だか気持ちいい文章。脳が全身エステを受けているみたいな。文芸の芸が効いていると思いました。この文章を使って何を語るのだろうと思っていたら、碁が出てくるし吸血鬼が出てくるし。青春ロードムービー。走馬灯のような。しかしドロケイとか、はないちもんめとか、今の若い子がわかるのだろうか。わたしはわかるけれど、わからない人はどんな印象を受けるのか気になった。わからなければただの文字列になる。世代の違う読者に対して目配りされていないように感じて、せっかく若者が主人公なので、そこだけがもったいなかった。その点、囲碁とか吸血鬼は時代が関係なくてよかった。10歳の読者でも70歳の読者でも面白く読めそうな気がする。

「爛雪記」美しい世界。そして秀逸な設定。ただこの枚数と内容に対して言葉と設定が多すぎて、表したい世界のポテンシャルを十分に生かせてないと感じました。作者がしゃべりすぎている。こんなにもこの世界はきらめいていて、ただそこにあるだけで美しいのに。作者が、語る言葉を飾りすぎている。ルビを振らねば読めない言葉を大量に入れたのは、誰のためだろうか。この物語のためか、もしくは読者のためならいいのだけれども、わたしには作者のために感じられた。わたしはこの物語とこの世界観が大好きだ。だから、作者はこの物語を読者に届けることを真剣に考えてほしかった。このままでは多くの読者に「自分の読解力がないから」と萎縮させ撤退させてしまうと思う。これらの言葉でないと表せないことはたくさんあると思う。でもこの言葉じゃなくても表せたこともあると思う。ぎりぎりを攻めてほしい。

以上です。
最後に、わたしも書き手でもあるから、自分で発した批評が自分にぐさぐさと突き刺さって血だらけです。本選出場作、全部まぶしくてうらやましくて楽しかったです。勉強させていただきました。いやもう、すごい書き手ばかりで怖いけれど頼もしいですよね。わたしもやるぞー! ブンゲイの面白さを知らしめましょうね、世の中に。ジャッジとして参加させていただき、本当にありがとうございました…!(と、これで退場しても、もう思い残すことはない)。

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BFC3 グループD評

鯨井久志


 文学はトーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
――坂口安吾「FARCEに就て」

 結局、本なんて、「ブンゲイ」なんて、読まずにも生きていられるわけで、だからこそ、なぜ「読まなければならない」か、その必然性を考えなければならない……とわたしは思う。
 すると、やはり「読むことで、読み手に何らかの利があること」が重視されてしまうだろう。人間には基本的人権が保障されているが、文学作品に基本的文権はない(と思う)。その利がどのような形かは一意に定まらないが、何かしらを読み手の記憶に、心に、あるいは身体に刻みつけるような、そうした魅力を孕む作品をわたしは推したい。乱暴に要約すれば、「読んで面白いもの」、それだけなのだが。
 その利=面白さを解体すべく、以下の基準項目を設け、採点に臨んだ。無論、面白さなどというものは「直感」であり、理での説明など結局後付けにすぎない。ゆえに、以下の項目は、「わたし」の「面白さ」の解体でしかないことに留意されたい。これが今のわたしの限界である。
・奇想性(現実世界からどれだけ離れられるか。他で見たことのない風景を現出できるか)
・構成力(題材に対して、読み手への情報提供の手順・方法が工夫されているか。最後まで息切れせず物語を紡げているか)
・文体(題材に対して適切な文体か。あるいは、文体そのものに読む楽しさを含んでいるか)
・感情喚起力(読み手に笑い、驚き、恐怖、慄き、その他感情を起こせる力があるか)
 また、これらの基準に加え、5点を付ける際には、最後のひと押しとして、「人に推したくなる作品」かどうか、その魅力を秘めているかを考慮した。よって、4点と5点の間には、自分一人で楽しむだけでなく、その領域を飛び越え、他者と楽しみをシェアしたくなるか否かという、いわば「コミュニケーション希求力」とでもいった採点基準を設けている。
 人とのコミュニケーションを産むこと、これもまた利のひとつであろう。推すことで人に自らのセンスを誇示できる、あるいはその逆で自らの感性を疑われる……といった利/不利の形も、このSNS時代では大いにありうるはずだ(#BFC3 の盛況ぶりがそれを物語っているだろう)。ゆえに今回はこの基準を設けた。
 各作品の点に関しては別ページを参照のこと。以下、担当グループの個別作品評に移る。

◯鮭さん「イカの壁」 2点
 家庭科の調理実習中、突如窓の外に現れる巨大イカの群れ。起こる学級内混乱、不条理的に言葉で追い返さんとする教師、謎めいた事態の解決と、それを物語る文体。そもそもの奇想を含め、いずれも突飛で魅力的なのだが、今日あったできごとを振り返るかのように語る語り口が最後まで一貫していない点に構成上の粗さを感じた。
 これは誰に語られた物語なのか? 帰宅後、巻き込まれた生徒が親に語ったのか、はたまた別のクラスの友人に語ったのか。いずれにせよ、最後の一文はどの文脈にもそぐわないように思える。最後に語られている相手が判明して、またそこでひと展開……といった構成であれば、より面白いものになったかもしれない。いずれにせよ、語りが一貫せず息切れを感じさせた。奇想の飛び方は全作中でも上位なだけに、惜しさを感じる。点こそ低く付けてしまったが、次作が読みたくなった作品のひとつ。

◯瀬戸千歳「生きている(と思われる)もの」 4点
 背後霊を数えるバイト! この設定だけでワクワクさせられる。日常に根付いた奇妙な光景を描く手つきが巧みで、七本足の怪異と幼女が公園でステップを踏むという恐怖と滑稽さの入り混じったビジョンが素晴らしい。
 ただし、最後の「光」の存在が、やや強引に接ぎ木されたように感じてしまったため――むろん、強大な怪異というものは根本的に不条理なものなのだが――5点は付けられなかった。バイトの設定などをより自然に生かせる展開があればよかったかもしれない。とはいえ、恐怖と日常をこの枚数で溶け込ませた、マジックリアリズムにも通じる描写力を高く評価したい。

◯小林かをる「お節」 3点
 夫の家族との人間関係を、お節というモチーフを軸に描写した一作。静かな筆致で描かれる人間の醜さと悪意が胸に響く。特に「熊次郎が死んだ後の三年前、理一郎は二十五歳で……」という段落の前後、登場人物に起こった出来事と時系列を巧みに再構成し、ねじれを活かす描写が、類を見ない表現方法で印象に残った。
 ただし、静かで丁寧な展開が、絢爛豪華で派手な他作と比した時に、地味に感じざるをえないのも確か。決して悪くはないが、爆発力に欠けた……とでもいったところだろうか。書き手の実力は存分に伝わってきた。

◯生方友理恵「カニ浄土」 3点
 カニの名産として知られる港町。実はそれは……という、語りの途中で突如ジャンルを変貌させる構成が巧み。後半からのSF的飛躍には大変胸躍らされた。
 ただし、そのネタばらしだけに作品が尽きてしまっている感は否めず、そのばらし以降でもうひと展開欲しかった……という物足りさが残るのも事実。架空(と思しき)方言が後半の展開のフックになっている、という狙いが成功したかどうかも読み手によるだろう(わたしは初読時、そうした方言もあるのかもしれないとスルーしてしまった)。また、これはわたしが地方出身者であることにも関係していると思われるが、作中に方言を出されると、安易な異化効果狙いが透けてしまうような気がして、どうも好きになれない。
 しかし、ここまででイカ・鮭・カニが出て、わたしも「鯨」の字の持ち主という「グループD=海産物祭り」状態には、主催側の組分けに何らかの意図を感じますね。

◯藤崎ほつま「明星」 4点
 まさかブンゲイファイトクラブで百合を読むことになるとは……。無論、登場する二名の性別について明記はない以上、そうしたタグ付けをしてしまう安易さは重々承知なのだが、いずれにせよ、描かれる登場人物二人の結び付きのかけがえのなさには心動かされざるをえない。仄めかされるがゆえに奥行きを持って感じ取られる過去の思い出の数々に、「感極まって言葉が出てこない」のは読者も同じだろう。甘美ゆえに傷つきやすい青春期の脆さを描く、淡々と、しかし一面では喋り急ぐような読点の少ない文体も相乗効果をもたらしておりすばらしい。

◯伊島糸雨「爛雪記」 5点
 雅風な造語で綴られる、四季をモチーフとした一種のファンタジーとして読んだ。こうした造語混じりの文体は、本来酉島伝法級の膂力なしには成立させえない。だが、本作では(6枚という少ない枚数ではあるが)全く息切れを感じさせず世界を語り切っている。その筆力だけでも、BFC3全体で抜きん出たものだと思う。それに加えて描かれる悲恋の儚さ、美しさ、そして去りゆく季節への惜別。あまりの美しさに思わず息を呑んだ。
 文句なしの5点。意地でも2回戦作品が読みたい。

 担当グループ以外で5点を付けた作品について、軽く触れておきたい。
 グループAでは、宮月中「花」が一歩他をリードしていた。かわるがわる花を持ち寄るクラスメイトたち、という興味をそそられる設定から始まり、エスカレートしていく展開と漂う不穏さ、描かれる「責任からの解放」に含まれた隠喩、いずれも構成・内容両面ですばらしい。
 グループBでは藤田雅矢「金継ぎ」と川合大祐「フー 川柳一一一句」に5点を付けた。前者は奇想のあざやかさとディテールの細やかさに、後者は言葉の組み合わせがもたらす超現実的でいて、しかしどこか納得させられるような球筋の絶妙さに、それぞれ魅せられた。
 勝ち抜きという点では、どちらか一作を選ばざるをえず、非常に迷ったのだが、BFC本戦作品中最も「笑わされた」川合大祐「フー 川柳一一一句」を取った。BFCでは枚数の縛りが大変厳しいため、それを踏まえた対策として、躁的で過剰な文体でおもしろポイントを増やす――競技漫才的に言えば「手数」を増やす――手法がある種の攻略法として確立しつつあるように思えた。その点「フー 川柳一一一句」は、川柳の特色を活かし、「手数」を散文ではなしえない領域にまで増やすことに成功している(余談だが、これはマヂカルラブリー「吊り革」が、競技漫才における手数論に終止符を打ったのと同様の構図に思える)。正直、百十一句という分量がさらなる笑いを増幅している節もある。「過剰」も笑いにおける重要なキーワードだ。
 グループCは堀部未知「バックコーラスの傾度」を推した。書き出しの奇妙さでまず掴まれ、展開されていく奇想、気の利いたワードセンス(「お風呂あがりの力士のように口笛を吹く」「町はずれに犬のようなバス停がある」)に作者のたぐいまれなセンスを感じた。この枚数でここまで飛べるのはすごい。

 最後に。あなたにはあなたにしか書けない作品があるのと同様、わたしにはわたしの物差し以外を持ち得ない。本戦進出を達成した時点で、あなたの作品はすでに認められている。当たり前のことで恐縮だが、わたしの点が低くても、それは無価値を意味しない。どのファイターも、これからも末永く書き続けていかれんことを切に望む。

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「勝ち抜け」と採点について


 ジャッジは1グループの作品の評を書き、全グループの勝ち抜けを決め、5段階で採点します。グループの勝者を決めるのは、勝ち抜け点の多さになります。採点は同点時の補助情報です。周知が不徹底でジャッジにご迷惑をおかけしてしまいました。
 表の太字の赤の数字はジャッジが勝ち抜けと判断したファイターを表します。 





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