見出し画像

1回戦ジャッジによる作品評 山田郁斗


BFC ジャッジ 総評 
山田郁斗

作品ごとに「その作品があろうとした姿」を探し出し、その姿にどこまで近づくことができていたのかを一番の争点にしようと思いながら読みました。その作品にもっとも適した文章、適した長さ、適した題材に適したエピソードが選び取られているものを選ぼうとしました。
しかしそれではあまりにも評価軸に掴みどころがないと思ったので、三つの観点から作品を読むようにもしました。文芸というのは要するに「何をどう書くか」だと思うので本当に必要な評価軸は「文章」と「テーマ」の二つなのですが、もう一つ、どうしても付け加えたかった評価軸があったので三つです。自分勝手なことをしているのかもしれませんが、良識のある判断は他の六名に委ねようと思います。気に障られた方がいましたら本当にすみません。
ではまず二つの観点から説明します。まずは文章表現力。
的確な文章で表現できているか。描写の密度や文体、リズムが一定に保たれているか(できていない場合、できていないことに必然性があるか)。文体選びに必然性を感じるか。色気や詩情と表現されるような何かが文章から感じられるか。五感を使い、読み手の身体に訴えかける文章になっているか(使わない場合、それに必然性があるか)。
次にテーマについて。
作品が訴えようとしていることを十分に表現できているか。主題の深奥にある「真理」のようなものに踏み込めているか。作品が単なる文字の羅列を超えて広い世界へと出ていっているか、もしくは人の心の奥深くまで掘り下げられているか。
その作品が何を志向しているかは作品ごとに違うため、もちろん評価軸も作品ごとに微調整するかとは思いますが、大体はこの基準で読んでいきたいと思います。そして点数の配分なのですが、文章表現力とテーマの満点を2点ずつにして、この二つに重きを置きたいとは思っています。
さて、残る一つの基準です。しかしその前に、すこしぼくの話からさせてください。
ぼくはジャッジ部門に応募してどういうわけか応募者が少なかったために予選通過してしまったのですが、普段は小説を書いている創作者側の人間です。評に関しては、ごく親しい書き手との間で行っているだけの、余技程度にしかすぎません。もちろん真面目には書きますし、書いたものの責任から逃れるつもりもありませんが。
しかし最近は小説を書こうとしてもその手が止まってしまいます。休憩のためにSNSを覗いても、気持ちは休まるどころか沈むことのほうが多いです。ぼくに実力がないからだと言ってしまえばそこまでなのですが、それ以上に今の心の中に迷いを抱えているからです。
というのも、最近のSNSはあまり心地のいい空間とはいえません。もちろんこれは最近に限ったことではないのですが、それでも最近は目に見えてひどくなっているなと感じます。関係のない話題なので深く言及することは避けますが、人の心を動かして対立をあおるための「力のある乱暴な言葉」を目にする機会が増え、それを見るたびに心がすり減る感覚がします。
たいていの場合、そのような言説は見て見ぬフリをして小説に戻ります。しかしその際、しばしば手が止まってしまいます。「ぼくの小説はあのような言葉と同じなのではないか」と悩みを感じてしまうからです。
小説は、いえ、文芸全般は「言葉の力を最大限に引き出すもの」だと思っているのですが、そうやって引き出された力がどの方を向いているのかはある程度しかコントロールできません。自分が書く言葉に力はあるのかに悩み、そしてその力があったにしても、どのような力を持っているのかについて悩んでしまいます。
自分の作品も、しょせんはあのような言説と同じじゃないのかと。
理由と呼べるかどうかもわからない理由ですが、このような理由で、残る一つの評価軸は「作品に善い力があるかどうか」にしたいと思います。
心を動かされる言葉を読むことは、心がすり減るような感情を抱くことではなく、むしろ楽しさすら感じることなのだと思わせてくれる作品を評価したいと思っています。
もちろんこの観点は完全に主観なので、満点は他の二つの観点よりも低く、1点とします。
詩歌に関しても、同じような観点で点数をつけようと思います。

 Aグループで推したのは、阿部2「浅田と下田」でした。これしかない文体が選択されていること、同じ文体と登場人物を与えられたとき、他の人では書けない物語が展開されていると感じたことが、他の四作品に比べて頭一つ抜けていると感じた理由です。
Bグループでは、乗金顕斗「カナメ君は死ぬ」を推します。ハッとする言葉になるはずのものが、文体のせいで埋もれてしまった感じはありますが、それを減点しても、あの文体で書き続けるだけの筆力はすごいものだと思います。馳平啓樹「靴下とコスモス」と六〇五「液体金属の背景Chapter1」が続きました。
Cグループで高い得点をつけたのは、和泉眞弓「おつきみ」、北野勇作「神様」、倉数茂「叫び声」でした。熟考のすえ、後半の展開に失速を感じた「神様」を外し、構成美を感じる「叫び声」と、真っすぐな物語をブレなく描いた「おつきみ」で迷い、言葉そのものの力をつよく感じた「おつきみ」に軍配が上がりました。
Dグループはどの作品もかなりの接戦でした。そのなかでも蜂本みさ「タイピング、タイピング」が一番だと感じました。文章や舞台設定の全てに一つ以上の意味が感じられて緻密なうえ、読後のかすかなあたたかさに惹かれました。
Eグループでは大田陵史「いろんなて」が良かったです。情報開示の仕方、余韻の残し方、語り口調など、すべてにおいて正しい選択ができる作者なのだと思います。
Fグループは由々平秕「馬に似た愛」を推しました。文章は無骨で無駄がなく、ただそれだけを書いているのに、自分の言語に対する価値観をくすぐられるような感覚があり、読むのがほんとうに楽しかった。
Gグループは冬乃くじ「ある書物が死ぬときに語ること」に満点を付けました。作品世界をゆっくりと掘り下げてゆく手つきがとてもよかったです。如実「メイク・ビリーヴ」は素晴らしい作品でしたが、文章そのものに感じる詩情や色気という点で、僅差で、推しきれませんでした。
Hグループは迷いました。久永実木彦「PADS」はショートショートとして完璧の出来だと思います。何よりも、猫に対する愛を、思い出を三分の二も使っているところに笑ってさえしまいました。落ちも完璧だと思います。しかしぼくが推したのは蕪木Q平「voice(s)」でした。物語内で実験を行っている作品はたくさんありましたが、その実験に、BFCの全作品のなかでいちばん必然性を感じたのがこの作品です。また物語を赤信号のまま歩道を渡る」シーンで帰結させたことに本物の力を感じたのも、この作品を強く推そうとおもった理由でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?