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編み物の話

2020年、渡米したて。ステイホームが声高に叫ばれていた頃に発信した
内輪向けメールマガジンのリライト版です。

【備えあれば】気まぐれメールマガジン_036【嬉しいな】

その昔、私が小学生だった頃、郷土学習という授業があった。

小学校の校庭は半分が山だったが、その山の斜面に埋もれるように郷土資料館という名称のプレハブ小屋が建っていて、例の授業がある日には、普段そこに仕舞われっぱなしになっている、わらの蓑笠や草鞋、米俵、年代物の木の臼杵などを体育館にずらっと並べる。

そして体育座りでこそこそふざけ合う小学生達の前で、
御幾つか分からんが、とにかく年配の方が並べた品々の説明をする。

私が育った郡上八幡という土地は、近隣に白山、大日ヶ岳、鷲ヶ岳という割合に高い山があり、これに続く山脈に三方を囲まれている地形のため、日照時間が短い。
さらに標高の為、平地よりも春の訪れが遅く、秋の降霜が早い。

それなのに、何で稲作?という悪条件の中で我々の先祖の農民達は棚田を拓き、細々と暮らしていたそうである。

冬が長い故、農作業が出来ない時間が長い。だから冬の間は、農作業ですぐにへたってしまう草履や俵を編み、縄をなっていた。
とのご老人の談であった。

冬は豪雪で万事休す。可哀想に、わらで工作する以外には何も出来なかったんやな。小学生の私は素直にそう思った。

講義の後は、草鞋作りを教える時間があった。
私が教わった方はご近所の農家のお爺さんで、目もしょぼしょぼだったけど、
上手に草履を作った。

編んだ目がキチッと揃っていて、手でなった紐の太さは端から端まで均等だった。私にも作らせてもらったけども、とても草鞋とは呼べない代物になってしまった。

強いて例えるならインディアンのドリームキャッチャーみたいな仕上がりだった。
お爺さんは普段これ作って履いてるの?と聞いたら、「ほんなわけ無いべ!」と笑われた。
だけど、お爺さんが子供の頃には年寄りは作って履いていたし、田んぼ作業する時には下駄なんかよりずっとやりやすいと年寄りんたは言っていた。
との談であった。

今はもう草鞋作らんでもええのに、何でこうやって私たちに作り方教えるんやろか?という問いには、「それが郷土学習っちゅうもんや!」という真っ当な回答が返ってきた。

うん、まぁ…そうですよね。

あまりスッキリしないままの私は、わら製の自作ドリームキャッチャーを手に、その日は大人しく帰宅の途についた。

あれから時は流れて、ごく近年、私は少し病気をした。外出する事もなく、一人で家に籠もっていると、世界中に置いてきぼりにされている気がした。

何も出来ない不甲斐なさや、我が身の無力&無能振りを思うと、情けない気持ちで居た堪れなかった。そんな調子で、療養の最初の1ヶ月は、課題を一つもやり終えないままで迎える、夏休み最終日みたいな気分で毎日が終わって行った。

何も出来なくても、何か活動しなくちゃ。

ふと、病気をする少し前からやり始めていた、編み物の続きが気になった。
もう少し本格的に取り掛かってみたい、毛糸はこれまで買ってくるだけだったけど、自分で作ってみたい。

気まぐれかもしれない、しかし幾分か振りに前向きに取り組む気持ちになったのでわら、ならぬ毛糸にも縋る気持ちで、羊の原毛を買ってきてドロップスピンドルで紡いでみる事にした。

すると、作業に没頭している間は不思議と気持ちが落ち着く事に気がついた。
糸を紡ぐのは難しい。連続した集中力がなければ糸は切れてしまう。均一な太さの糸にする為には、常に指先や原毛の引き具合に気を配る必要がある。

この作業は、昔にやらかした失敗やら何やかやの過去の一切から
今この場所この瞬間の手元へ、自分の意識を引き戻すのに最高の手段だった。

その次の1ヶ月間は、ずっと糸を紡いでいた。
意識を今この瞬間、そして次の瞬間に向けられるようになった時、私はようやく自力で自分の中の地獄の穴ぐらから這い出したような気がした。

因みに糸はめっちゃ綺麗に紡げるようになった。

それからの日々は怒涛の如く過ぎて行き、再び私は引きこもる事になった。
今度は自分じゃなくて、世界中の皆が病気になっている故である。

私は焦らず、今回は大型の紡績機(spinning wheel)を購入して、レース糸や染色用の糸を量産する体制を作る事にした。
怒涛の日々の中で伝聞したことを思い出したからである。

北欧圏の編み物は、漁師達の副業から始まったと言う。
彼らは冬の漁に出られない間は、魚網を繕って過ごした。その技術で自分達のセーターや下着を編んで、実用から機能美へと発展して今日の編み物文化に繋がった。

私の故郷では、限られた土地に水田を拓く為に、高価な鉄製の農機具を必要とした。農機具を買う現金収入の為に、養蚕・タバコ栽培等の副業が盛んになった。
そして生糸を生産する副産物から、高級な紬や染め物が作られるようになり今日に残ったという。

寒冷&豪雪という悪条件の中、稲作農家として生き残る為に、我々のご先祖様達は、短い春〜秋に不自由しないよう冬の間に黙々と本業の備えをし、設備投資の為の副業として、何が当たるか分からんから色々やって小金を稼ぎ

子供らに水田と、副産物として生まれた文化を何とか継承してきた。
という事が十数年掛かって、ようやく解ってきた。

備えよ常に そして 暗雲垂れ込める嵐の日でも雲の裏側は輝いている。

悪条件や不自由を引き受けて、何とかしてやろうとする不断の努力が次の瞬間の未来を明るくする。という先人の教えが、あの郷土学習であり、草履を作る意味だったのでは無いかと、何となくそんな気がするのである。

小学生の私の「草鞋ドリームキャッチャー作り」は
まわりくどいくらい時間をかけて現在の私の編み物、糸紡ぎにつながったと思う。

こんな事、やっても無駄だし何の役にも立たないと、断じてしまうのは簡単だけど、それは少し早計だと私には思われる。

今を無駄に過ごしているように思えても、そこに自分の意思決定と向かうべき方向があれば、きっと何か明るい世界につながっていると確信しているからである。

それはもう帰納法的に、ご先祖様たちのお墨付きで。

世間一般的に金にならなくっても、非生産的で無駄な活動に思われても
堂々とやりたい活動をすれば良い。それはきっとどこかで何かの役に立つ。

というのが今の私の主張であり、編み物観である。

皆さま健康に気をつけて、良い引きこもりライフを!


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