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カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』(白水社)

(小説の内容にひととおり触れています)

 最近ALL REVIEWSがyoutubeでやっている生配信を時々観ているのだが、そこで豊崎由美さんが「カニバリズム小説の金字塔」というようなことを言っていて俄然読みたくなり、読んだ。特にカニバリズム小説が好きなわけでもないが、ボーッと生きているだけでも村山槐多の「悪魔の舌」から乱歩の編んだアンソロジー、米澤穂信『儚い羊たちの祝宴』や村田沙耶香『生命式』まで、パッと思いつくだけでもわりと読んでいる。やはり金字塔は読みたい。面白かった。非常に面白かったので数時間で読み終わり、ついでに少し書くものである。

 舞台はアルゼンチン、とあるビストロの年代記である。流れ流れてアルゼンチンにやってきた双子のイタリア人、カリオストロ兄弟が料理人としての類稀なる才能を開花させ、独立して開いたのがアルゼンチン食堂だった。彼らは屋敷と秘伝の『南海の料理指南書』を遺し、それらは奇妙なおびただしい悲劇に彩られるもつれた家系図に沿って継承されていき、ついに90年の時を経てセサル・ロンブローソに結実する。物語は、1979年に赤ん坊のセサルが寝室で母親の乳首を食いちぎり、死に至らしめるところからはじまる。

 双子は立派な食堂と指南書を用意して若死にし、その師匠一家と叔父一家の善良かつ不幸な人びとがやはりイタリア系の伴侶を取り込みながら、けなげに命を繋いでは力尽き、その血をゆっくりと洗練させてゆく。系図の末尾たるセサルは母親を食い殺し、母代わりのおばと近親相姦を犯し、料理長・おじ・警官を殺して調理しふるまい食べ、死んだおばに腕を振るい五日と五晩かけて食べ尽くしながら絶頂に達し、ついには自らも生きたまま究極の料理となってネズミの大群に食い尽くされる。

 この猟奇事件をめぐる小説がビストロの年代記として書かれたのは、料理人としての血の到達点が見出す最高の美食として、人肉が据えられているからに他ならない。カリオストロ兄弟が、マッシモとレンツォとフェデリコ・ロンブローソが、マリア・シアンカリーニが、ユルゲン・ベッカーが作る絢爛たる料理のどれも、セサルの作る人肉料理にはなぜか及ばないのだ。だが現実的に考えて、精肉にするために注意深く飼養された牛や豚よりも人間の――しかもセサルが料理するのは中年をこえた男たちばかりだ――肉がうまいはずがあるだろうか。猟師たちはしばしば「年のいった雄イノシシは臭くて肉が硬い」とこぼすが、中年男の肉も中らずと雖も遠からずだろう。にもかかわらず人肉を究極の美食と位置付けているのは象徴的な意味合いによるのではないか。

セサルが作中で何度も執拗にみなしごと呼ばれることと、母親を食べたこと、母親と二重写しに描かれるおばと交わり食べたこととは密接にかかわっている。セサルは両親を求めているが、イタリアからやってきたおば夫婦はビストロの歴史を何も知らない。母親を求める心はおばに対するもつれた愛情へと育ち、恐怖に駆られたおばに拒絶され死なれた後は彼女を料理し食べることで結びつこうとする。セサルの内面はほとんど描写されることがなく謎めいているが、どこか自分の過去のおぞましい饗宴やその血に起因するものに苛まれているようだ。

カニバリストはセサルだけではない。セサルは第一に最高の料理人であり、彼の至高の料理は客に供されるためにある。では人肉を食らった者たちはだれか。最初の人肉料理はビストロにやってくる、ありとあらゆる社会的階層の人びとからなる満員の客たちだった。第三の料理はサセルが人生の最初の数年を過ごした孤児院の運営者と28人の子供たち、市内の主要慈善団体の首脳や子供の権利を守る部門を担う官僚たち、政治家、教区司教や少年裁判所の判事たちだ。だがとりわけ、第二の料理を味わいにやってきた客たちは詳細に描写され、その直後にこんなくだりがある。

 この国の政治的指導層はかくて肉食の種族に成り下がった。歴史の流れを見れば、ほんの一筆二筆である時代の食事のスタイルや様式を充分に描くことができるのがわかる。結局のところ、いつの時代もその時代なりの食の痕跡を残してきたし、味と香りは食事客の精神と無縁ではあり得ない。胃の方が頭よりもよほど雄弁かつ明瞭にものを言うことがありはすまいか? 食事のあり方には、実にうまい具合にこだわりと恐れ、悪癖と欠点、苦悶と喜び、嫌悪と強迫観念、悲惨と美徳が反映されている。
 血文字で書かれた、ある倒錯した法則が存在する。独裁政権のパンタグリュエル的酒池肉林の饗宴に招かれる者はとても少ない。だから独裁者が政権にあるときには、民衆の大半は腹を空かし、欲を満たされないまま過ごす。質素な家庭では、まるでキリストが最後の晩餐で振る舞ったような静かな悲しみの中でパンが振舞われる。そのときワインは、もう何世紀も前からそうであったように、十字架に振りかけられたキリストの血となる。

 アルゼンチンという国の縮図のようなマル・デル・プラタで、あらゆる社会的階層の人びとの間に――とりわけ政治的指導層に共食い(カニバリズム)は蔓延した。『ブエノスアイレス食堂』という年代記(クロニクル)の中で描かれる、人が人の上に立ち、人を貪り尽くすように蹂躙する時代はけして対岸の火事ではない。今この国がカニバリズムに侵食されていないと果たして言い得るだろうか。


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