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弱さの聖性



7月2日のライブのことをしつこく思い返している。もちろんsyrup16gのライブである。その場では泣かなかったのに、あとでちょっと思い出し泣きをするくらいよかった。そんなライブは生まれて初めてである。それくらい衝撃がでかかったのだろうか。でかかったかもしれない。人生で「ビッグラブ」なんて言われる日が来るとはついぞ思っていなかったし。それも山内総一郎とかならわかるが、よりによって五十嵐隆にである。いろいろ追いつかない。直後に慌てて「つまんな! 恥ずかしいからツイッターとかに書かないで!」と言っていたが、終演後無事全員に書かれていた。南無。

それにしても五十嵐のコンディションが抜群によかった(リズム隊が盤石なのは言うまでもない)。いつもライブの序盤は声が出ていないが、ライブが進むにつれてどんどん声が出るようになる。そんな感じでツアーを通してどんどん調子が良くなっていった気がする。これで年内はもう終わりというのはもったいなさすぎる。その後木下生誕祭(10/15)は発表されたが、欲を言えば冬もやってほしい。

終盤「なんか今日は緊張した〜! 距離が近いからかなあ?」と言っていてズッコケた。ツアーももう終わるのに!? しかし「ツアーも残り少なくなってきてうれしい。あ、うれしいって言っちゃいけないんだった……でも家帰ってもごはん食べて寝るだけで……だからもう少しで終わるのはさびしい」とも言っていた。あれだけライブが嫌で仕方なかった人間が。でもそりゃ嫌にならざるを得ないような環境だったよな。今はそうではない。悲しいライブはもうしなくていい。もうそれを強いてくる人はいない。首輪は随分前に引きちぎってきたはずだ。

本編はあまりに素晴らしくてほとんど走馬灯状態だったので、二ヶ月経った今となってはいろいろおぼろげである。ただ今でも忘れられない、ハッとさせられた瞬間があった。ある時カポの位置を間違えていて、ローディーに直されて笑いが起こり、フロアのあちこちから「がっちゃんかわいいよー」とフォローの声が上がる。それに対して「そういうこと言われると成長しないから!」と即座に必死に否定する。だがすぐに考え直したように、「でもまあいいか……みんなのだめな部分を俺が引き受けるから、みんなはちゃんとしててね」と呟いた。そして「ex.人間」がはじまっていく。そうか、あんたは引き受けるのか。そんなに弱くて怯えてしょぼくれているのに。そこにおもいがけず"弱さの聖性"を見てしまった。たとえば誰よりも気弱で臆病なのに、戦争に抗い、原爆による体調不良と貧苦に呻吟しながらいとしい死者のためにおのれの書き得るすべてを書き切った原民喜や、あるいはその面影を宿した遠藤周作のイエス像のような。まったく英雄的に強くも華々しさもない、弱い者のなかになにかどうしようもなくまばゆい光のようなものが見出される時がある。ボルヘスの『幻獣辞典』に出てくる「足萎えのウーフニック」も同じく弱さの聖性を帯びた存在かもしれない。取るに足らない何人かのちっぽけな人間の存在がじつは世界を支える柱となっていて、だがそれに気づいたウーフニックは死んでしまう。そしてべつの者が新たなウーフニックになりかわる。人はいつか死ぬのでそりゃウーフニックも入れ替わっていく。でもその者がウーフニックであることにはそれでも意味があって、弱くて美しくもなくてかけがえのない存在なのではないか。まあどこかの誰かはもし仮に「おまえはウーフニックだ」と言われても、自分に宇宙の支柱の役目は分不相応だと思い込んで否定しそうな気がするので心配ないだろう。

再発ツアーの東京終演後、三々五々家路に着くファンの姿を楽屋の窓のブラインドからそっと眺めて、「いとしい」と呟いたそのよれよれの後ろ姿に感じたものも、やはり弱さの聖性だったのだと今にしておもう。そして「うつして」="Infect Me"も。Let me shoulder your painなんだよな、ドラマを観ても他人の痛みが勝手に入り込んでくるんでしょう。引き受けてしまって這いずりまわって進めばいい、独りじゃないから望んでも犬死になんかできないよ。連れて行ってくれ。その先を一緒に見よう。

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