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Birds, live forever

毎日シロップのライブDVDを観ている。大体時間を取れるのは夜だが、夜観ると寝付けなくなるのでまあまあ困る。でも観たい。大体順繰りに観ているが、『生還』だけBlu-rayしか持っていないことに気づいて悶絶している(Blu-rayプレイヤーは壊れた)。仕方ない、買うか。Blu-rayプレイヤーではない。DVDのほうをだ。

前回の記事では中畑について書ききれなかったのだが、かれこそ解散に至るまで五十嵐と腹を割ってきちんと向き合ってこなかったことを最も悔いている人間だろう。けしてなにも考えていなかったわけではなく、佐藤の脱退によってバンド幻想が叩きのめされてのち、syrup16gというバンドの意志は純粋に五十嵐隆の意志とイコールであるべきで、中畑個人の意見を挟むべきではないという判断があったのではないだろうか。しかしそうやって五十嵐とシリアスな向き合いかたを避け続けたことが結果的に人質に取られるようなことになってしまった。「おまえはその手のなかの小鳥を飼い殺し続けるのか」と問い詰められたら、選択肢はひとつしかない。かれらは一度すべて間違えた。もうなにを選んではいけないのかは、骨身に染みている。キタダが五十嵐を止められるようになったのは、再結成の中畑のバンドへの向き合いかたの影響も大きいのかもしれない。

そんなこんなで解散ライブを少しずつ観返しては打ちのめされている。『GHOST PICTURES』の出口のない追い詰められた印象からすれば吹っ切れていて清々しいが、やはりあまりにも悲しい。バンドが外圧にむごたらしくひしゃげていくさまが美しいメロディのなかに浮き彫りになっていく。あの状況ではああするしかなかったのだろう、でもただ無惨にのたれ死ぬわけでも諾々と美しく息絶えたわけでもなく、そこにもたしかに抵抗があったのではないか。五十嵐は一曲一曲を殺していく作業と語っていたけど、むしろ手のなかに閉じ込めた小鳥を一羽ずつ手放していくようなライブにおもえた。小鳥は飛び立っていくが、羽ばたきの余韻のように、抜け落ちた数枚の羽根のように、そこには微かな希望が残されていた。でも小鳥は本当に閉じ込められていたんだろうか? そんなことをおもっている。

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