普通に生きたいだけなのに

なんでこんなことが出来ないのだろうと、自分に対してほとほと嫌気がさすことが多々ある。
そのどれもが、生きていくうえで別に出来なくても幸せになることは可能なことばかりなのだが、なんにしたって出来ないよりは出来た方がより有意義な人生を送れるということは、周りの大体のことをそつなくこなす人間を見渡せば明確なことである。
向いていないことを見てみぬふりしてまで器用に生きようとは思わないが、向いている向いていないとかいうレベルの話ではないことくらい、スマートにこなせる大人になりたかったと、女々しくないものねだりの日々を生きているのだ。

出来ないことを恥ずかしがったり、出来るようになろうとある程度の努力をするような地点は、とうの昔に通りすぎていたのだが、この歳になり、自分が諦めてきたことがらが、新たに出会うそれが出来る人間の分母から考えるにやはり恥ずべきことなのだと強制的に気づかされる瞬間もある。
だから悔しいし切ない気分になるし、出来る側の人間からの、むしろなんでこんなことが出来ないのだろうといった哀れみの表情を確認する度に、普通誰にも出来ないような、カッターで魚を捌きながらフラッシュ暗算に目隠しをしたまま答えるみたいな技を習得して、じゃああんたにはこれが出来るのかい?と得意気にお披露目する反撃の仕方が思い浮かぶのだが、まず間違いなくキモがられるだけなのでグッと唇を噛み締めることしか出来ないのである。キモがられるのだけはごめんなのだ。

ではなにがそんなに出来ないのか。
例えば僕はあぐらがかけない。
体が固すぎて、あぐらのポーズをとると後ろに倒れてしまうのである。
だから飲みに行った店が、座敷で背もたれのない席だったりすると、体育座りから始まり最終的には人魚のような座り方になってしまう。これがとても恥ずかしい。
こんなに髭を生やしているのにあぐらもかけない。
こんなに髭を生やしているのに貝殻で乳首を隠すような座り方をしなければならない。
こんなに髭を生やしているのに柔らかい股関節を手にいれる代わりに声を奪われる契約をタコ足の魔女と結ぶ選択肢も考えなければならないのだ。
もちろん周りにはあぐらがかけないなんて人間は滅多にいないので、座敷の店はやめようなんて言えない。僕の小さな羞恥心を守る為に、あぐらがかけないからお店を変えなければならないというストレスを与えるなんて出来やしないのである。

あと携帯のフリック入力が出来ない。
今このnoteも携帯で書いているし、400文字詰め原稿用紙70枚程の大学の卒業論文もこのやり方で作成しているが、全てガラケー時代の打ち方で書き込んでいる。
これに関しても、なんで出来ないのかだとか、絶対にこっちの方が楽なのにとか、フリック入力をねずみ講だと思ってるとしか思えない程勧めてきてくれる方もいるのだが、シンプルに出来ないのである。
僕は元々機械に爆裂弱いし、ガラケーからスマホに変える時も、絶対にスマホの方が楽なのはわかっているのになかなか変えなかった経験もあるし、新しいものに対して腰が思いところがあるのは自分でも痛いほど理解しているつもりなのだが、フリック入力に関してはそうではない。楽なのだろうというのはわかる。ただ全然出来るようにならないのだ。
指がうまいこと動かない。感覚的には、練習すれば誰でもYOSHIKIくらいピアノ弾けるようになるよって言われてるのとなにも変わらないのである。
だから、むしろフリック入力自体が『普通』の仲間入りをしていることに驚きを隠せない。
出来る人からしたら意味がわからないかもしれないが、生まれ持ったセンスがないとフリック入力は出来ないし、選ばれし才能がないとブラインドタッチなんて出来ないと思っているのだ。
ただ、その代わり指の連打力は30秒でインターホン壊滅出来るくらいに跳ね上がっているが、フリック入力が出来る人間が羨ましくて仕方がないのもまた事実なのである。

そして、もうなにが1番恥ずかしいって、車の免許がオートマなこと。
一般的には、マニュアルの車を運転する機会など、こちらから歩み寄らない限りはほぼ皆無である為、なかには最初からオートマのみで免許を取得する方もいらっしゃるだろうが、僕の場合はマニュアルを受けたうえでお話にならなかったのだ。
19の頃に、栃木の教習所に合宿で免許を取りに行った時の話である。

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