NOROSHI

どのジャンルにおいてもプロとアマなんて世界の分け方は確実に存在するが、ある専門分野についてどれだけ愛を注いでいるか、どれだけの知識や情熱を持って挑んでいるか、そこの違いについて実は大差はないのかもしれない。

例えば、わかりやすいところでの野球やサッカーなど。
死ぬほど憧れたプロの世界に、1歩届かず涙を飲んだプレーヤーは世界中に溢れているだろうが、その方々が今プロとして活躍している選手に比べて、情熱や知識で劣っていたのかと言われれば決してそうではないはず。
そこを分ける境界線は、どうしようもない才能であったり運であったり、誰と出会えたかであったり、正しい努力を積み重ねられたかという点であったり。
明確にプロとアマを分ける要素はいくつか存在していても、根本的にスタートから寄り添ってきた部分の差はさほどないようような気がしてならないのだ。
僕がプロフェッショナルとアマチュアの違いを、誰もが納得するかたちで証明することは難しいが、少なくとも気持ちの部分で分けられるものではないことだけは断言出来る。

そもそも始まりはみんな同じであり、スタートのきっかけはその事柄に夢中になることから生まれているはずなのだ。
そうなってくると、志半ばの挫折を経ても、スタート地点で持っていたはずの気持ちの総量は変わることはないと思っている。

少し話はずれるが、僕は根性は減らないという持論を持っている。
小学生の頃25メートル泳げなかったやつが泳げるようになったり、受験を乗り越えたり、変な話ケンカで勝ったり粘ることが出来たり。
あの時出せた根性の総量は、何年経とうが経験として残っていて、もうちょっとしんどいかもといった瞬間を支える基盤となっているように思えるのだ。
どういうわけか大人になるとあの時の根性がなくなったような錯覚に陥る場面も多々あるが、1度出せた根性は、出し方を忘れているだけで必ずまだ根付いているはずなのである。

なにかを好きでいる気持ちも同じことのように感じる。
スタートの時点でその気持ちに大きな差があるとは思えないし、こればっかりは全員に平等に与えられた権利でしかない。
この気持ちも、根性同様元々の総量と変わることはない。少しずつ減っていってしまっているように感じる時もあるだろうが、本当に好きなことへの愛なんてのは、確実にそっくりそのまま残っているはずなのだ。
そう考えるととプロとアマの間に、なにかを好きでいる気持ちの部分での差など生じるわけがないのである。
強いて言うならば、プロという自意識から生まれる覚悟や責任感のみであるように思える。

ではなぜ僕が、突然こんなインチキ自己啓発論みたいなことを語り始めたかというと、僕が今プロフェッショナルと呼べるのかということは1度忘れて、お笑い芸人においてのプロとアマの違いについて考えざるを得ない瞬間があったからなのである。

僕にこんな、絶対に僕が考えるようなことじゃないことを考えさせたきっかけは、NOROSHIという大学お笑いの大会の予選MCをやらせて頂いたという出来事に他ならない。

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