フニャオの笑顔が見たくて

全く実感がなかろうが、4月に入り芸歴9年目を迎えることになった。
状況が状況なだけに、実働で言ったら野球1試合見れないくらいの時間しか働いてなくとも、やっぱり感慨深いものはある。

以前の記事でも書いたことがあるが、我々オズワルドは完全に組み直しであり、それ以前の芸人としての活動量はハイスクール漫才の子達の3分の1程であったと言ってもいい。
NSC時代に、あまり授業に出ていなかったこともあってか、どういうわけか尖り鬼だと思われていたのもあり、周りの同期との絡みはほぼ皆無であった。
唯一気にかけてくれていたのは、鈴木策三というピン芸人と現くらげというコンビの渡辺という男のみで、NSC卒業と共にその2人とさえなかなか絡むこともなく、たまに渡辺に会った時に、周りの芸人とは2ヶ月くらい遅れて入る情報を聞くことが、鎖国状態の離島に住む少年のようにとにかく楽しみだった。
渡辺に情報が入る段階で大分話が盛られていただろうに、渡辺は恐らくそれに更に尾ひれ背びれをつけて話していた為、僕は本当に外の世界ではそんなことが起きているのかと、芸人になったはずなのに自分とは遠い世界の話のように感じて、もう完全に外の世界とか呼んでいた。

なんというか、新生活あるあるかもしれないが、スタートつまづいたらその後やる気を起こすまでにかなりの気合いが必要になってくるもんで、しばらくは芸人1割キャバクラ9割みたいな生活ですら、これはこれでありだよねと自分に言い聞かすしかなかった。プレイボールと同時に、1回の表からコールド負け寸前まで追い込まれた人間が、1回の裏でしっかりとバットを握るにはそれ相応のきっかけが必要になってくるのである。まず1回の裏まで持ってけるのすら奇跡とすら思えてくるのだ。
解散を決めたのはそのきっかけが欲しかったからかもしれない。

そんなわけでオズワルドを組み直したわけだけども、そこまで開いた点差は、スコアボード直視出来ないくらい絶望的で、それを痛感した1つの要因は人間関係であった。
元々人見知りもしないし、そんなのは余裕だと思っていたのだが、1度ついたイメージってのはどうにもこうにも容易く拭えるもんではなく、同期ですら本当の自分を知ってもらえるまで長期戦を覚悟していた。
そりゃ当然、先輩だとか後輩だとかと、自分が同じ時間を共有するイメージは全くわかなかった。

だから、初めて後輩を飲みに連れて行った時は嬉しくて仕方がなかった。
後輩を飲みに連れて行くなんて超芸人ぽいじゃんと。今でこそ考えられないが、芸人の飲み代の相場もわからなかった僕は、一応財布に5万円忍ばせて後輩と合流した。
若手も若手の芸人が、男2人で飲みに行くのに5万円。
使うわけがないのである。抱こうとしていたとしか思えない。
初めての相手はバニラボックスの柏木という男で、現在はうちの社長(畠中)と1Kに180㎝越えの男3人で住んでいる。潜水艦じゃないんだから。どう寝ても重なるじゃないか。
相方の吉野という男も含め、あの時初めて飲みに行った後輩は、今でも深く携わる関係性が続いているのだ。もはや腐れ縁。切っても切れぬ仲というわけだ。

そしてそれは先輩にも言えることなのである。
組み立てで、右も左もわかりゃしない頃から付き合いのある先輩は、もはや戦友であり、気を抜いたらタメ口で喋ってしまう程距離の近い関係となってくる。
そのうちの1人が、ダンビラムーチョの原田フニャオさん。
このnoteを読んでくれている方の中に、原田フニャオさんを知らない方はほぼいないかとは思うが、一応この原田フニャオさんという男についていくつか説明させて頂く。

原田フニャオさんとは、ダンビラムーチョという、弱小野球部あるあるを載せたYouTubeチャンネルを持っていて、山梨を拠点としている漫才コンビのツッコミである。
ダンビラムーチョというコンビは、吉本の若手の中でのウルトラ有望株であり、正直戦いたくない程面白い。出番の時には、袖にかなりの人数の芸人が集まるし、絶対に真似出来ないネタをする。
後輩芸人からの人望も厚く、僕自身何度もああなりたいと思うことがある。
ただ、年に何度か袖からタオルを投げてやりたくなるくらいスベる時もある。
芸風的にも、爆発力が半端ではないのだが、スベる時は本当に今日で辞めてもおかしくないくらい豪快にスベる。

一昨年のM-1で準決勝まで進み、去年は確実に決勝に行くなんて噂にもなっていて、僕もそう思っていたのだが、準々決勝のダンビラムーチョさんは、まさにその年に数回のうちの1回をドンピシャで引き当てていた。
本当に大好きで尊敬もしている。だが、準々決勝の各コンビのネタを、ほぼ全組袖から見ていた僕のデータによると、明らかにベスト3に入るスベり方だった。後日相方の大原さんに確認したところ、最初のボケがハマらなかった時点で、明確にその未来が見えたと語っていた。
だがしかし、ダンビラムーチョの凄さはまさにそこにあるような気がしてならない。
あの時、袖の芸人は大爆笑だった。
人生がかかっている舞台でスベってもダンビラムーチョなら笑える。これが1番凄い。
僕らなら悲壮感が漂ってしまうような場面でも、それすら笑いに変えてしまうその存在感は、間違いなく芸人としてのパワーが凄まじいからなのだ。
だから周りの芸人から一目置かれているし、だから原田さんが芸名を原田フニャオさんに変えると言い出した時、殴ってでも止めるべきだったと後悔が止まらないのである。何度聞いても原田フニャオ?となるのである。

原田フニャオさんに、我々オズワルドは命2つあったら1つはあげれるくらいお世話になっている。
僕らがM-1の1回戦に落ちた時も、すぐに飲みに連れて行ってくれて、今後の話などをたくさん聞いてくれた。
なんなら、当時ボケとツッコミが逆だったオズワルドに、『逆やろ』と、本多先生と言う大阪の作家さんが当時ボケとツッコミが逆だったナイナイさんに与えた助言と全く同じ言葉を投げかけてくれて、その言葉をきっかけにボケとツッコミが入れ替わった。そこから大分ましになったのである。

原田フニャオさんは、とにかく後輩の面倒見がよく、僕らもかなり飲みに連れて行ってもらった。
本当に楽しかったしありがたかったのだが、会計の度に心配になった。
なぜならば、原田フニャオさんは毎回会計になると、経理担当が持ち歩いているような集金袋から絶対に使ってはいけなさそうなお金を使用していたから。なにかしらの横領に手を染めているとしか思えなかった。それはなんのお金ですかなんて聞けたもんじゃなかったのだ。

原田フニャオさんは滅多に怒らない。
というかほぼ誰にも怒らないのだが、昔原田フニャオさんがルームシェアをしていた竹花リベンジさんというキチガイにだけは、本当に同じ人物とは思えないくらい厳しかった。竹花リベンジさんは190㎝くらいの元柔道部であり、原田フニャオさんは完全に毎月家賃を滞納していたにも関わらず、なぜか完全に原田フニャオさんがイニシアチブを握っていて、この世で唯一竹花リベンジさんにだけは厳しかった。なんか知らないけど、家賃をちゃんと払っていた竹花リベンジさんが家を追い出されて、僕の家に泊まりにきたこともあったくらいだ。
まあ確かに、僕の家に泊まりにきた時に、布団の上でお菓子を食べて布団で手を拭いたり、原田フニャオさんにバレないように、Twitterの自己紹介欄に『早く独り暮らししたいマン』と、誰になんのアピールなのかわからない遠回しの主張をしたりと、なんかムカつく要素はたくさんあったので、あの原田フニャオさんですら厳しく接する理由はとてもよくわかったのだけども。

そんな原田フニャオさんの誕生日を毎年祝っているのだが、去年の誕生日だけは、本来ならばおめでたい記憶しか残らない日の記憶が、原田フニャオさんとの唯一気まずくなる1日になったのである。

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