見出し画像

第3回 夢が溢れる(7100字)

 おはようございます。第3回です。現在、時刻は、朝の6時33分です。
 今朝は4時50分頃、起きて布団から出ました。3時頃にも一度、目を覚ましましたが、時計を見て、すぐにもう一度寝ました。「まだ早い。」と思った気がします。起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態です。その状態で、「まだ早い。」が出てきて、それでもう一度寝ました。
 起きてから二時間弱が経過しています。洗面等を済ませながら、台所のシンクやテーブル、調理台などを清掃し、べつに汚れているというほど汚れてはいませんが、清掃というよりはお清めに近いことを済ませ、今、こうして執筆を始めています。
 始める前に、コーヒーを淹れて、飲みながらタバコを吸い、そしてコーヒーを飲みながらタバコを吸いながら、瞑想もしました。平たく言うと、正座をして目を瞑っているだけです。
 私はこうして書き始めてみると、実にさまざまなことを、同時進行でやっているものだ……と思っています。「……」を付けたのは、“感心する” と“呆れる” が、そのような言葉たちによって分かれる以前の、ボーっとした心境を表すためだったのかもしれません。後付けの可能性を加味して、「だったのかもしれません」と申しました。
 こうして自分の行動を振り返りながら言葉でそれを列挙していると、それだけでも、結構な字数になります。それは、項目毎に分かれていくからです。もしかしたら、「初めから分かれているわよ?」ですとか、「私だって朝は特に、いろいろやってるわよ?」と、つまり、“たくさんの数に分かれているのが当たり前” と思っておられる方も、いらっしゃるだろうことが、ここまでを書きながら、浮かびました。
 私の場合は、どちらかというと、書かないと分かれません。先程、「起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態です。」と申しましたが、それは明け方や夜中に数秒、目を覚ました時だけの話ではなく、もしかしたら、執筆をしていない時間はいつも、私は「起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態」である可能性もあります。
 行き先のわからない記述をしている私は、「もしかしたら、執筆をしている時だって、“起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態” なのかもしれない。。。」と今思いました。思いましたがしかし、その私は文頭において、「行き先のわからない記述をしている」という文言に、“かもしれない” や“おそらく” ・“たぶん” 等を付けずに、あっさりと断言していました。私はそれに気付いて、こう思っていますーー「おはよう、私。(ニコニコ)」です。

 私は千字以上書いてようやく、「行き先のわからない記述をしている」ことを私が確信していることがわかりました。私は今、「なるほど、これがさっき言ってた、“私の場合は、どちらかというと、書かないと分かれません。”」 …いや、すみません。思っていたのと、ちょっと違いました。私はさっき自分で、“書くとわかるから書いているんだ” という主旨のことを言った気がして、遡って探してみたのですが、ありませんでした。一番近い発言が、「私の場合は、どちらかというと、書かないと分かれません。」でした。近いっちゃ近いんでしょうが、ドンピシャではありません。
 私はどうやら、こうして書いている時にも、「起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態」と、「おはよう、私。(ニコニコ)」と言って挨拶をしたくなるような、“起きている私” …「の二つが混ざっている」と書くつもりでしたが、それも違います。
 この記述は、それらの二つを眺める存在、もちろん私です、それら二つを眺める少なくとも三者の“連携” によって、書かれていますーーという文は、四者、なのか?
 いや、四者と断じるには、私は慎重です。なぜなら、この人は、もう何度も鉤括弧で引用している通り、「(起きているのか寝ているのか、)よくわからないといえばよくわからない状態」という、つまり、“わからないのかどうかもわからない” 人でもあります。(ここまで来ると“人” の定義も気になりますが、厄介そうなので、今はやめときます。失礼な意味で取らないでね、私♡)
 こんなにもよくわからない、たぶん混ぜこぜである(ということも断定できない、つまりわからない)存在を含めてしまったら、四者とも、もっと遡れば、三者とも二者とも一者とも、言いづらくなってしまいます。
 “四者” の“四” は、“1+1+1+1” の結果です。四つの要素が、“1” という要素として、それぞれ独立しています。少なくとも、ここまでの話からすると、そうです。ですが、ですがです。
 この人、もしくは存在は、「“わからないのかどうかもわからない” 人」(・存在)でもあるのです。
 正直に言います。さっきから私は正直にしか書いていないのですが、なんか、言いたくなりました。改めまして、もう一度。
 正直に言います。私もそろそろ、わかりません。「そろそろ」どころか、もう、わからなくなっているような気もします。
 しかし、これは変です。なぜなら私は、事の始めから、わからないから(わかるべく)書いていた、はずです。今もそうですし、さっきもそう言っていました。(という言い方は、「さっき」の私を他人扱いし、独立した要素として見なしている感があります。)
 丸括弧を書いているうちに、論の流れを見失いましたので、今日のここまでの記述のうちのどこかを引用し、流れを取り戻してみたいと思います。(と書く私は、その文(を書く私?)を眺めて「へぇ、意外とマジメなんだなぁ。」と思っています。)(こいつ、ついに“私” の後ろに“?” を付けやがった……。)
 ダメです。またしても、丸括弧に流れを持っていかれました。そう書く私は、「誰と戦っているんだ……。」と呆れてもいます。これは、眺めた結果の感想です。
 執筆、に限らず普段のおしゃべりなんかもそうでしょうが、私は言葉を書いたり話したりする時、必ず(だと思います。)、“書く(・話す)” と“眺める” の二つはやっています。と書けるのは、この二つを書いたり眺めたり…と書きながら、気付いてしまいました。

 こんなにもよくわからない、たぶん混ぜこぜである(ということも断定できない、つまりわからない)存在を含めてしまったら、四者とも、もっと遡れば、三者とも二者とも一者とも、言いづらくなってしまいます。

第3回「夢が溢れる」

 もう、何がなんだかわかりません。私はどうやら、“何がなんだかわからない” ということの確信が欲しくて、“書く” を行っているようです。“確信を得られないということについての確信が欲しい” 、ということです。

 17時になりました。朝は蝉が鳴いていて、夕方の今も鳴いていますが、いかにも夏の夕方らしい声です。朝の蝉も、イメージの中で“かすかに” 鳴っています。言葉で説明は出来ません。あなたに聞こえたその通りの声で、充分です。

第2回「残響」

 昨日の最終段落ですが、最後の一文は、明らかに、私に向けて書かれています。書いた時の私はそう思っていなかったと思いますが、今の私は、そう思っています。

 お昼兼用の朝御飯をいただいてきました。洗濯も風呂掃除も、あとベランダの窓もしばらくぶりに拭きまして、現在、時刻は12時07分です。

 執筆を一旦終え、休憩に入りますと、言葉が、ほぼ止みます。その前に、言葉が止んだから執筆を終えたのかもしれません。
 執筆以外の時間を過ごしていると、全くないとは言いませんが、ほとんど言葉は聞こえません。静かです。
 しかしアレコレの家事を一段落させ、こうして執筆の部屋に干したての布団を敷いて寝っ転がり、仰向けになります。そこですぐにはスマホを持たずに、まず、休みます。そのまま寝入ってしまうこともありますが、たいていは、数分休んでから、今、こうして書き始めています。
 その「数分休んで」の間に、また、言葉が鳴り出します。私の気分としましては、「あぁー、鳴っとる鳴っとる。」です。
 しかしいざ書き始めてみると、その言葉たちは、書かれません。「そーゆーふーに、書く時間が近づいてくると、言葉が鳴ってくるんだよ。」という紹介のような記述がなされ、その時の言葉は、記述されません。
 私は執筆開始の直前に鳴っていた言葉を書くつもりで、ここまでのまとまり(=直前の「*」からここまで)を書いています。しかし、全然違っていると思いますし、「全然違っている」の後ろに「と思います」を付けてしまう私は、書き始める以前に鳴っていた言葉を、もう覚えていません。
 覚えていないものですから、「全然違うよなぁ。」と思うことと、「全然違うかどうかの検証なんて不可能だよなぁ。」と思うこと、最低でもこの二つは同時に行われています。
 そして「この二つは同時に行われています」と書く私は、「この二つ」が「同時に行われてい」る様子を眺めている、ということになります。
 なんだか、“いつか来た道” のニオイがしてきました。

 今、午前中に書いたどこかを引用しようと思って見てきた、といっても全部ではありませんが、チラッとだけ、見てきました。
 もう、チラッと見たくらいでは、午前中の私が何を言っていたのか、よくわかりません。そう書いて、「“よくわからない” ということの確信を得たいんだぁ!」というような発言はしていたな、と、なんとなく思いました。もう一度、見てきます。

 私はどうやら、こうして書いている時にも、「起きているのか寝ているのか、よくわからないといえばよくわからない状態」と、「おはよう、私。(ニコニコ)」と言って挨拶をしたくなるような、“起きている私” …「の二つが混ざっている」と書くつもりでしたが、それも違います。
 この記述は、それらの二つを眺める存在、もちろん私です、それら二つを眺める少なくとも三者の“連携” によって、書かれていますーーという文は、四者、なのか?
 いや、四者と断じるには、私は慎重です。なぜなら、【後略】

第3回「夢が溢れる」

 最後の「なぜなら、」から後ろは、またぐるぐると回り始めていましたので、切ってしまいました。
 私は、もしかしたら三日前に終えた全十四回のシリーズでもそうだったかもしれませんが、今日は特に、午前も、お昼を過ぎた今も、同じことを書いているのかもしれない、ってか、書いてんな……と思っています。
 ちょっと、昼寝をしてみたいと思います。すごく眠いわけではありませんが、目を瞑れば眠れる程度、つまり冴えまくってはいません。そう書く私は、「眠ると何か変わるかもしれない。」と思っているようです。

 「眠ると何か変わるかもしれない。」と書いてそこからの連想で、ということなのだろうと思いますが、ふと思い立って、昨日と一昨日、つまり第1回と第2回を通しで今読んできました。大変おもしろく読ませていただき、「なぜ読み始めたのかが全く気になりませんでした」と書こうとして、実際に今書きましたが、私は、何か、「眠ると何か変わるかもしれない。」と関係が深そうな引用が出来る気配を察知して、それを探しに行ったのです。ですがしかし、読み始めたら、これはべつに悪い意味ではないのですが、ハッキリ言って、引きづり込まれました。おかげで、いい夢が見られそうです。ありがとう。

 寝っ転がったまま目を瞑り、五分から十分ほど、寝ていたような、でも眠ってはいなかったような、そんな時間を過ごしてまいりました。その後洗濯物を取り込み、おやつのようにおにぎりを作って食べ、一服してから、再び仰向けになり、現在に至ります。「私はどうも、執筆前から執筆に至るまでの流れが気になるようですね。」と、私の書いた文や、書いている文を見ながら、そう思います。
 先程の「寝ていたような、でも眠ってはいなかったような」をやっている間に、夢なのか考え事なのか、よくわからないことをやっていましたーーという文を書きながら少し迷った箇所があります。述語は、「やっていました」です。主語、ではないですね、日本語の文法用語はよく知らないのですが、英語で言うところの目的語(多くの場合「◯◯を」となります。)は、「よくわからないことを」です。これだけなら、変じゃないです。「よくわからないことを」「やっていました」ーー変じゃないですね。
 しかし「よくわからないことを」の内訳を遡ると、「夢なのか考え事なのか」です。“考え事をやる” は変ですが、“考え事をする” であれば、変じゃないです。
 一方、“夢” の方を取り出してみると、“夢をやる” 、“夢をする” 、どちらにしたって、こちらは、絶対に変です。それで、「夢なのか考え事なのか、よくわからないことをやっていましたーーという文を書きながら少し迷った」と申しました。
 私がそのあたりを書きながら思った、もしくは発見したのは、「へぇ、夢を見ることと考え事をすることは、言葉の上では全く別の事柄ってことになってんだなぁ。」です。
 私はその、“夢を見る” と“考え事をする” の区別が、ちゃんとは出来ません。ということは、「ちゃんと」ではない方法でなら出来るということでしょうから、今からやっていただこうと思います。(いいか、コラ?)
 ようやく筆が乗ってきましたね、スロースターターさん。では、お楽しみください。

 “夢を見る” には、大きく分けて、二つの用法があります。一つは、“将来の夢を見る” といった形で用いられ、つまりは、“未来について考え事をする” になるはずです。はずですがしかし、これから何が書かれるか、まだわかりません。それは私が、“将来の夢を見る” ということを全くやらないタイプの人であるからかもしれませんが、同時に、「“将来の夢を見る” のやり方が逆転しているから」ということもありえます。では、段落を変え、後者の可能性を検討して行きましょう。
 通常、“将来の夢を見る” をやりながら多くの人が口にするのは、例えば、次のようなものだと思います。「僕の将来の夢は、暴れん坊将軍になって、ゆみかおるさんと、お風呂に入ることです。」、例は、一つで充分でしょう。と言って、「読者さん、充分だよね?」とでも言いたげですが、この男は、自分が考えないことや考えたくないことを、わざわざ考えて例文を作るのがイヤなだけです。しかし、文章の流れ上、ということだと思いますが、さすがに、一つだけは出してきました。それで出してきたのが、ゆみかおるさんのくだりです。この人(筆者です。ゆみかおるさんではありません。)は、「イヤなことをやるのはイヤだけど、ギャグを言うのはイヤじゃないから、ほな、ギャグにしてまえ。」ということを、そういう言葉を、少なくとも意識レベルでは一切使わずに、理由らしい理由も知覚していない段階で、ある意味「勝手に」お風呂がナントカを思い付き、スラスラと入力をしながら、それを眺めてゲラゲラ笑い、笑うのに専念するべく、一旦スマホを置いて一通り笑い切ってから入力を再開したりしています。
 なぜそんなことになるかと言うと、「“将来の夢を見る” のやり方が逆転している」からです。
 多くの人は、“将来の夢” というラベルの貼られた空き箱に、何かを入れてしまいます。多くの場合、それは他人に言えるようなものであったり、それを他人に言うと喜ばれそうなものかもしれません。そう書きながら、この人は「だからオレはそれをズラしてギャグにしたのか……」と思って、この文を入力しながら目を少しだけ大きく見開いていますーーという現象もまた、「“将来の夢を見る” のやり方が逆転している」ことによって、起こります。
 つまりこの人は、“将来の夢を見る” のことを、“空欄にしておく” だと思っています。だから、いつも書いては「へぇ。」、書いては「マジか!?」、あるいは、「入力しながら目を少しだけ大きく見開いています」なんてやっているのです。
 私は、書いても書いても書くことがなくならない、でもさすがに、ちょっとなくなりそうな感じがしなくもない、といった状態で、昨日から今日にかけてを過ごしてまいりました。昨夜の風呂上がりには、体を拭いている時だったか、髪を乾かしている時だったか、一人でぶつくさ言っていたことがあります。それは、「あーぁ、早く書くことなくなんねぇかなぁ。」です。
 この人は、ややこしいかもしれない言い方であることを承知の上で言いますが、この人が考えているのは、「書くことがなくなんねえと、いつまで経っても“書く” が始まんねえしな。」です。
 この人は自分のことを自分とも他人とも思っていたり、あるいはどちらとも思っていなかったり、何かと忙しく、かつ、おそろしく暇な人です。なぜでしょうーーというクイズのような書き方をした瞬間に、私はわかりました。この人、“空欄” かもしれません。だから、いろんな人称に惹かれたり、目移りして迷ったりして楽しんでいるのです。
 「書くことないし、とりあえず起きた時間でも書いてみっか。」てな調子で始まって(いつもですが。)、今日はこんな文章が書けましたね。よぉーし、もっともっと、書くことなくなるぞー、えいえいおー!

 では、本日は以上となります。どうもありがとうございました。また明日お会いしましょう♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?