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小説風エッセイ 第8回 光(6400字)

 もう朝の九時半だ。私は流れで書き出している。「掻き出している」が浮かんで、「浮かんでいますよ。」ということを今書いた。
 私は七時過ぎに起きたんじゃないか。時計を見たら八時より十分前、の針を見て「七時五十分」という言葉は出さなかったと思う。長針・短針を「長針」とも「短針」とも言わず思わず、時間だか時計だかを見た。私は、たぶん私たちは、ぼんやりしている時、時間と時計も区別しているわけではない、という気に少しなったが、やっぱり区別してる気もする。私は、意識と無意識の区別というか、いや、それらを「それら」と言って複数扱いしない、分けない、そういう、そういう、なんだ?
 「そういう」の後ろに何かの名詞をあてようとしたのだと思うが、それだって分ける行為だ。その、「分ける」をしない話をしていたと思う。だから私は時々ぶつかる。「ぶつかる」と書いて、「何と何がぶつかるんだ?」と思うから、「複数のものが『ぶつかる』、じゃなくて、一つの何かが『弾けた』が、マシなんじゃないか?」、「『マシ』と書いたのは、言語化自体が大なり小なり無理をしていることなんだから、だから『マシ』なんじゃないか?」ーー私はここで一旦筆が止まって読み直したが、「読み直したが」を間違えて「書き直した」と入力し、それを消して「読み直したが」にした。私は、「間違っているのか?」とも思った。「書く」と「読む」は違う。違うという基準というかルールというか、そういうものがなされた後の世界で私たちは生きている、というこれがまさにその「基準というかルールというか」、のことだ。私はその、そういうルール、そういえばruler、ルーラーって、定規だ。線引くんやなーーそう書いているうちに話が逸れたような逸れていないような、私は線が引けているのか引けていないのか引いていないのか、わからなくなった。そういう状況を記述している、と書くとまとまる。

 アスタリスク(*)を打って朝メシ、今九時四十七分だ、朝メシにしようと思ったが、と書きながら私は英語の「非制限用法」と言われるカンマと関係代名詞、カンマと関係副詞の使い方が漠然と思い出されたーーと書いている間にそれがよぎった当時の鮮度はもうない。「もうない」という感じ方をしている。

 知らなくていい。調べなくていい。私も説明しない。私はそう書きながら非制限用法がナンタラ、というのを全く知らない人たちのことを考えているが、そう書くと、私は私が本を読んだり他人の話を聞いたりしている時にその人が私の知らない言葉を出した時のこと、それは過去かもしれないし、というか時間とかじゃない気もして、私は先程書いた時間と時計のナンタラ、と繋がりそうな、繋がらなそうな、と繋がる繋がらないを気にすることによって失われたかもしれない何かを「失われた」という感じ方で感じている。

 アスタリスクは打ったが休憩は取っていない。九時五十五分だ。そう書くと「朝メシ」を思い出してそう書いたが、私が思い出したのが「今日はまだ朝食を食べていない」のか、「さっき、『朝メシ』がどーのみたいなの書いたな」なのかなんなのかわからない。そうやって区別される以前の、あぁ、言えないのか。私は一瞬、指が止まる。止まる以前に「止まる。」と思うよりもさらに以前、「止まるという予感」という名前が付けられる以前、そう書きながら遡れば遡るほど私は私のテンションが上がるのを感じる、と書きながら途中で「昨日、遡る必要がない境地の話、してなかったっけ?」とこんなに具体的じゃない、セリフらしいセリフなんかに絶対にまとまっていない何かがあった。「私はそれで充分だ。」と書いて一区切りにしようかとも思ったが、それもなんだかーーと思うかどうかのところで、この文の記述が始まった。私は何がいつどこでどう始まっているか、わからない。そう書くことでなんとか、まとまりを付けようとしながらまとまらないようにもしている。その文、(私は今「この文」と書いて、「ぁ、もう『この文』じゃないか。一個前だ。はい、じゃあ『その文』。」と思って直した。)と書いた丸括弧内は、鉤括弧と二重鉤括弧が、書き始めると書いている途中からかなり複雑で、初めはそんな複雑さを感じていなかったが、やり始めると「ぇ、ぇ、えーっと。。。」みたいな感じで入力に手間取り、鉤括弧内を行ったり来たりしながら整理した。

 私はアスタリスクは打ったがパートナーに一件ラインを入れてまたこの画面を開いて読んで、ここを書いている。腹減った。十時二十一分。
 私は創作する人に、ぁ、返信来た。戻ります。

 昼メシを、食べた。十三時三十三分と入力する前に画面の左上は十三時三十二分だったが十三時三十三分、今は十三時三十四分だ。
 「じゅうさんじさんじゅうさんふん」は入力がややこしい。「さ」のつもりが親指が左の「か」に触れて入力されたのが、その後いくらか進んでから気付いて戻って訂正して……というのがある。なら、算用数字か。13時33分。これは数字入力用の文字盤を出して、「1333」と四回タップし、変換すると「13時33分」を選んでそれで入力できる。私は今これをnote で書いているから横書きだが、電子なり紙なり書籍化したら縦書きだから、という縦書きだと決めていることに気付いた。それで私は漢字入力に拘っていた。
 縦書きなら、数字は漢字で書くものだーーこれは常識だと思うが、私はさっき「拘り」と呼んだ。
 「拘り」を平仮名で「こだわり」とし、プラスイメージで使う人が多いと感じる。私が今、平仮名を示したのは、その「プラスイメージ」に誘導するため、誘導しやすくするためかもしれない。しかし漢字は一目瞭然、「拘束」の〈拘〉を書いて、「拘り」だ。
 私は「拘り」のプラスイメージが気持ち悪い。おそらく、音から入っているんだろう。「こだわり」、これを平仮名ですら見ず、音として、音の配列としての「    」であり、あなたが今鳴らしたそれのことを私は言っている。
 私は前回の終わりに、音楽の話をその回かその前の回にしたことを思い出したと書き、それでその原稿をアップロードした。引用するつもりはなかったがする気配を感じた。私はそれを「気配」、と今言わなければ「     」だったんじゃないかと思う。しかし私はそれは意図的に結び付けてはいやしないか、と、そういう思いも「    」で感じた。私はいちいち、私たち、だろうな。私たちはいちいち名前を付ける。言葉を付ける。私は書きながら「だからどーした」と思う。それで私は今筆が止まって「絶句するしかないかも」とも思ったが、その入力の最中に「沈黙は金なり」が浮かんだ。

 腕が疲れて一旦休んでじゅう、違う。14時00分だ。
 私はさっき昼メシの話がしたくてそう書き出したのかもしれないが、書かれなかった、と、書きそびれた、のどっちが先に浮かんでどっちが後のだったのかもうわからない。私は「書く」の弊害とまでは言わないがちょっと正直思っちゃったがとにかくそういうこと、「書く」が始まると当初の予定が狂いまくる。そうやって「当初の予定」と書くことによって「この人は『意識』が『当初の予定』で『無意識』が『当初の予定ではない』なんだな。」とこんなに長くない、というか言葉じゃない、だから私は「    」と言った。しかしそれは流れで出てきたものだった。私は前回か前々回か、と書きながら「ぁ、『先日』って言えばいいのか。」と思い、私はその鉤括弧内を「(『先日』という語を)思い出す」、と解釈するのが常識で、「作り出す」、と解釈するのが常識ではない、しかしそれは「常識」という言葉によって分けられている、元は一つだった。

 時間、時刻を書くと時間が気になるが気にしているから書いている。私は一区切りして休憩してまた書き始めている、の流れで今は15時06分だ、流れに逆らって空間の話をすると、そうやって逆らうことによって見えてくる流れがあり、私はこれからも今も追いか、。
 「、。」は誤字じゃない。詰まった、という表現のつもりだ。「続く=、」「止まる=。」を並記したつもりだ、と書きながら、「あぁ。」と思った。書いて初めてわかることがある。
 私が空間が気になったのは、というか元々私はよく気にする、気にしている人らしい。今も、気に「する」と「している」を並べた。出来ることなら、同時に書きたい。書くと時間が発生する。あるいは時間の中で書かれるーー本当にそうか? 私は今ダッシュ、「ーー」を書く前に、「。」を打った気がするがもうおぼろげだ。漢字では「朧げ」なのか。難しい。それで私は変換の候補を見てビビって、と言ったら少し強すぎる何かがあって、それで「おぼろげ」と平仮名で入力した。
 私の記述は時間が錯綜している。「錯綜している」は、「こんがらがっている」だ、という説明だか解説だかを書きながら、口語体の必然、効用、そういうものがよぎったが、「昨日書いたやつだ。」と思い、今よぎったものに私は「昨日書いたやつだ。」と後付けした、私は「後付け」についても昨日書いた気がしたが一昨日のタイトルは「後付け文体論」だった。だ。「だった」と「だ」はなぜ違うのか。てか、違うのか? 私はそれを確かめたいし確かめている。元は一つだった、と浮かんだがそれで終わったらさっきと同じ手法だ、さっきは「手法」と思わなかったが今書いたら「手法」だと書いてるうちに「手口」という言葉が浮かんだ。私は要約かもしれないことを書くと、「あーぁ、どっかに手垢の全く付いてない言葉はねえもんかね?」をやっているのかもしれないと書いている途中で「灯台下暗し」が浮かんだ。それが「灯台下暗し」と呼ばれる前はなんだったのか、私はそれが知りたい。

 昼メシ食って、書いて、雑巾掛けした。して、と書く前に「して」が浮かんだ瞬間に、「『そして』は『そうして』が縮まって『そして』か。」というのが、もちろん言語化されずに、一瞬で起こった。私は今朝から、「『前』と『瞬間』の間って、なんて呼ぶんだ?」と思っていた。生まれる前と生まれる瞬間。書いている時というよりも、書いていない時、洗面したり家事をしている時だった。書かなかった。書いていない時に流れていた、浮かんでいたことを「えぇーっと、さっき考えてたのは……」をやるのが嫌いでつまらないからだ。「嫌い」で済むのが済まずに「つまらない」が続くのは「嫌い」の強調かもしれないし、「嫌い」の理由の説明かもしれない。両方かもしれない。私はそれを説明しているとさっきの「瞬間」のくだりを説明しそびれる、流れに乗りそこねるんじゃないか、と言語化せずに(今したが)思ったが、それだって「瞬間」のくだり、だ。
 人はある瞬間を切り取って、というかまさにそう書く私が「ある瞬間」と言って、「ある瞬間」と「べつの瞬間」を分ける。あぁー、やぁー、しぃぃぃー。
 本当か? これで「全部一緒じゃないか?」は乱暴、ゃ、「私にとっては」を付けた方がいい。私にとっては、乱暴だ。飛躍、という語も浮かぶ。
 「飛躍」は前提に、通るべき道筋、というのがある。通る「べき」。ちゃんとしなさい。あなたは掃除をするべきだ。ダメでしょ散らかしちゃ。宿題やりなさい。やるべきよーー本当か?
 通らなくてもいい。しかしそれは甘い。お前は、「やるべき」を投げられて、「やらないもんねーだっ。」を投げ返しただけだ。お前は何を投げられたか、いや、そもそも投げられたのか、お前、見てないだろ。確認してる?
 通るべき道。道が前提だよ。どこにあんの? 道。あるでしょ、道、通りなさい! いやいやいや、ないから(笑)。
 「ないから(笑)。」は、カドが立つかも知れません。「にち? にち、ってなぁに?」「にちじゃないわよ、道よ、道。」めっちゃ怒ってる。「ねぇー、教えてよー、にち。」

【前略】コンビニやスーパー、ATMなどを避暑地にしながら目的地に向かう途中、通りすがりのスーパーで、ひと組の親子が言い争っている。どうやら、子どもが「ぶどうが食べたい」と駄々をこねているようだ。母親は「ぶどうは買わない」と断固として拒否。互いに譲らず、にらみ合いが始まっている。

ぼくも見覚えがある。次男は一度言い出したら聞かない頑固者だ。「ぶどうが食べたい」と訴え始めて聞かないときがあった。



「ぶどう食べたい」



いつものやつが、出た。次男の意思は固い。

ここで真摯に向き合えば、長期戦になる。長引けば、炎天下でお互いが消耗し、結末はどう転んでも地獄だ。

ぼくは勝負に出た。



「ぶにょー?」



テキトーな語を作ってみた。



「ぶにょー!?ぶにょーじゃない!ぶどう!」



次男は怒り狂って叩いてくる。

しかし、ここで負けてはいけない。



「ぶにょー?」



あくまでもぶにょーだ。



「もおっ!ぶどうっ!ぶどうも分からないの!?お父さんバカなの!」



しかし、次男の口には笑みが浮かんでいた。

いける。



「ぶにょーってどこに売ってるの?」

「知らないよ〜なんだよそれ〜ぶにょーってなんだよ〜もお」



そしてここに、「ぶにょーぶにょー」だけ言う人間がふたり生まれた。【後略】

伊藤雄馬「ぶにょー、どこ?」note

 私はこの記事を引用すべく、いや、まず探しに行く、画面を切り替える前に、引用をする、というところに辿り着いた時、あるいはそれがパァーッ、と見えた時に、私はこれも家事か何かして書いていない時間に、なんとなく、引用、というものが気になっていた。ーー「そういやここまで、『小説風日記』のあとがきのらぴさんのセリフ以外なんも引用してねーなぁー。」「引用も、やり方やんねえとなぁ。」ーー私は引用は『並行書簡』と『往復書簡』で散々やったから、いいかな? とも、漠然と思っていた。それと、「そういうことじゃねえだろ。」「『前にやったから』は、『もういいや』の理由にならねえだろ。」「その都度、だろ。」ーーしかし私はこんなに言語化していない。

 アスタリスクは打っていないがここで私は休憩して台所で休んで数分瞑想して戻って(「休憩して」から「瞑想して」まで全部休憩のはずだが、こうして指摘されなければ気付かない人だっている。私もそうだ。書きながら、「台所で」を書いてるあたりで「ぁ。」ってなった。それで消して直すか、そのまま様子を見る、つまり走らせるか。私は休憩明けに今書き始める前に、伊藤雄馬の引用部の冒頭から読み直し、そのまま私の記述、この段落の一つ前を読み、私の書いた箇所に入ってすぐに、「あぁ、雄馬さんは歩いているなぁ。」「オレは走っている……のか?」
 雄馬さんのゆったりした感じは私は疑いようがない。マジで、いい。この「マジで、いい。」が雄馬さんに読まれるのがよぎった瞬間、この瞬間の、なんと長いことか!!
 私は、その雄馬さんがゆったりとしている、歩いている、という、その「歩いている」につられて、「走っている」と、うっかり比較だか対比だかして、本当は走っていない、つまり進んでいないんじゃないか? ここで私は私にも読者にも言いたいが、私は「走っていない、進んでいない=マイナスイメージ」、というつもりじゃない。
 私はここを書いている間もさっきの「ぶにょー」の話がずうっと鳴っている。だから「マジで、いい。」と言っている。さっき言ったから「言った」とするべきかもしれないが私はずうっと鳴ってるんだから「言っている」でいい。
 私はうっかり(お前はよくうっかりするなぁ。)「『ぶにょー』の話」なんて言って一言で雄馬さんの「『ぶにょー』の話」とやらをまとめた、くくったが、私はそうやって言葉でまとめる以前に鳴っていたものの話をしているし、そして今もそれはずうっと鳴っている。

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