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並行書簡-08

 私はさっき食事を含む家事をひと段落させ、コーヒーを淹れて煙草を吸った。うまかった。深呼吸で煙草を吸い込むと、体と空間の境界線が急激に緩んで、そういえば執筆を終えてからのここ一週間近く、雑巾掛けをしていないことに思い当たった。同時に、ここしばらくの間、体が硬くなっていたことにも気付いた。
 体は空間なのだ。空間を整えるのは、体が緊張せずに済むよう、空間を整えるのだ。体が緊張するのは、空間に対して「あれは僕じゃない。僕は、僕なんだ!」と、ある種の意地を張ることだ。それで体と空間の間に境界線を強く引きたがる。「防護壁」と言ってしまってもいいかもしれない。それでは、いくら食事を工夫しても、睡眠を取ろうとも、「そこじゃない」でしかない。
 食事に最善を尽くすのは当たり前だ。魂は肉体を借りている。お借りしている。お借りしているものであると同時に、お借りしている間は、自分自身のものでもある。だから、自分自身の責任で、大切にさせていただくのが当たり前、ということだ。入浴や睡眠も同様である。広げると、生活全般、ということになる。家事はおざなりで、理屈だけは妙に達者、という人に覚える違和感は、おそらくここから来ている。この人は、この人自身の在り方を通じて「お前もこれがいいか? それとも嫌か?」を見せてくれている。「見せてくれてありがとう。」と礼を述べた上で、あとはそれぞれがそれぞれなりの選択をすればいい。洗濯をしてもいいかもしれない(笑)。

 橋本治の『宗教なんかこわくない!』を電子書籍で買って、昨日、読み始めた。1999年の出版だ。私はかれこれ10年ほど前にこれを読んだ。『小説風日記』で橋本治さんについて書かせていただいて以来、橋本治さんに親近感がある。
 読んでみると、オウム真理教についていろいろ書いてある。では、これはオウム真理教についての本なのか。はい、そうです。はい、そうっちゃそうです。ーー回答は、割れると思う。
 橋本は、オウム真理教の一連の事件を受けて、これを書き始めた。それは間違いないだろう。しかし、オウム真理教を考察するには、オウム真理教が「発生」する文脈の考察が欠かせない。「オウム真理教はどのような文脈で登場したのか」「その文脈は、どのような文脈から出てきたのか」「そして、その文脈は、どのような文脈からーー」「オウム真理教はどのような在り方をしたのか」「オウム真理教にそのような在り方をさせた背景はーー」「そのような背景はどのような背景からーー」…である。
 私はそれを読み、橋本の思考を辿りながら、というか、橋本の思考を辿ることそのものが、橋本を思い出すことであり、橋本の魂を癒すことであり、私が癒されることであり、これもまた「あの世とこの世を繋ぐ」あるいは「天と地を結ぶ」ということなんだろうと思っている。即物的な比喩で言えば「ダウンロード」である。
 先人の「データ」を「この世」に「ダウンロード」しまくって、「この世」に「あの世」をたくさん持ち込む。「あの世」はいわゆる「目に見えない世界」だ。潜在か顕在かで言えば、間違いなく、潜在に分類される。「潜在に分類される」という文字列は、ハッキリ見えている。書かなくても、しゃべれば聞こえる。つまり、言語化は顕在化である。
 私は「潜在」ということになっているあれこれを、ひたすら書きまくる、つまり、顕在化させるために生まれてきた。「地球に来た」という表現に抵抗がない人は、そう受け取って構わない。「この世」では「ない」ということになっているものについて「あるじゃん。」「ぉ、こっちもあるじゃん。」「はいこれも。」「ぁ、これも。」「はいどぞ。」ーーである。 
 「ひたすら書きまくる」をやるには、大量の「潜在」が必要だ。ということは、「それは“潜在”ですよね?」「ちょっとそーゆーのはよくわからなくて。」という者を「大量に」必要とする。しかし全員が全員それだとさすがにシンドイので、私と同じタイプの「種」を持った者も、ほどよく必要だ。
 他人に「違うタイプ」を見せてもらえるから、「オレはそれじゃないな」がハッキリとわかる。ハッキリとわかるから、同じタイプや似てるタイプを見た時に「だよね。」「それな。」とハッキリ思える。私はいつも私と価値観の違う人に照らされながら、価値観の合う友人・知人と生きてるんだか生かされてるんだかしている。

 どうもありがとう。

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