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小説風エッセイ 第7回 産声の向こう(4800字)

 「他人に言われて初めてわかる」という実例を挙げて書こうとすると、それを思ったのはこれを書き始める前に、友人と昨日の記事「実感至上主義宣言」を改題して、「産声」にした、いやする前に、友人に話して……私は、時系列が気になって、気にしていない書き方をしているつもりが気にしていて、気にしているのか気にしていないのか、それを入力していると「気にしているのか気にしていないのか」の入力に気が行き、おかげで時系列がどうこうというのが気にならなくなった、という形で、さっきまで「うーん、もやもや。」だったのが、「あ、はいはい、混乱ね。」といった具合に、「混乱=マイナスイメージ」という図式から解放され、それで「あ、はいはい、混乱ね。」というサッパリした気持ちになった、という記述作業にある意味埋もれて、もうサッパリしてもしなくてもなんでもいいような気持ちになって、「あぁ、『サッパリ』にも、層というか段階というか、なんか、いろいろあるんやな。」と思って、私はそれはもうサッパリでもなんでもいいや、はい、じゃあ、「。」を打ちます、と言ってここに来た、てか、いる。私はこれを前回、「一旦、いなくならないと、書けない。」と言い、「そういう実感があるよん。」というようなつもりで、最初のタイトル、「実感至上主義宣言」を付けた。付けたがしかし、その前に、「産声」が思いついたのだが、やめて、「実感至上主義宣言」にしたのだった。しかし私は、「産声」が、今朝、ちなみに今は午後一時五十六分、気になり、くだんの友人に、連絡した。彼が「いいね」をした通知が入ったので、「ぁ、読んだんやなッ。」と喜んで、質問した。この流れは、どんな質問をしたか、再現というか、説明しなきゃいけない流れじゃないか、と書きながら、べつにしなくてもいいことに気付いた。言葉は、後からやってくる。私は今日の文章を書き始める前にそういうフレーズが流れてきたのだが、それがこの文章の流れでやってきた、とも解釈することが出来る。
 なんらかの思い、と言って「思い」と名付ける以前の何かが、よぎる。私は今「何か」という、名前と言えば名前でもあるようなものを付けたかもしれないが、もう、言葉を書いて執筆する以上、勘弁してほしい。仕方がないと思っている。それで、その、「何か」とすら本当は名付けたくはない「何か」、がやってきて、もしくは、元々あることに気付いて、それから、その「何か」に、「思い」とか、「気持ち」とか、「考え」とか、「閃き」、「アイデア」…そんなところだろうか。そういう名前を、すなわち、言葉を付けるーーこれが、「言葉は、後からやってくる。」ということの意味であり、また、この記述自体が、その実践である。
 私は、「この記述自体が、その実践である。」と入力している途中の、「この記述自体が、」を入力しているあたりで、それこそまさに、「何か」を感じた。その「何か」に後付け、つまり言葉を付けようとすると、というこの文の入力の途中で、当時の「何か」は、「当時」呼ばわりされてしまうくらいに、なんか、どっか、遠い感じになる。「遠い感じになる」となるべく正直に告白すると、むしろ、また、立ち上がってくる感じもする。これもまた、「言葉は、後からやってくる。」である。
 私はそう書いて、先程の、層がナントカ、段階がナントカ、というのを思い出した、というのを読者は読んで、思い出した。なら、もう、それで充分だ。私はそれを、「べつに書かなくても、よくね?」と、セリフそのままではないが、「セリフそのままじゃなくても、わかるしね。」と思いながら書いた。これもまた、層だかなんだかの話である。
 私の話は前に進まないし、と書きながら、深まっている気もするが、「深まっている」という言葉が出る前には「何か」がある。その「何か」が、「深まっている」と「自分で言ったら、変かなぁ。」に、分かれた。これをさっきの私は、「混乱=マイナス」、「深まっていると自分で言う=マイナス」と同じことだと思っているかどうか、ちょっと自信がない。おそらく、説明を加えすぎたのだ。
 感じた「何か」に対して、素朴に、言葉をあてる。これは、わりと、出来る。しかし、「ぁ、言葉足らずかな? よし、ちゃんと説明しよう。」つまり、「もっと言葉を足そう。」ーーこのようにして、彼は言葉を費やし、「何か」から遠ざかる。私は書けば書くほど自信がなくなる、かと思いきや(論理的にはそうなるはずだ。)、自信のなさについて、それにまつわる「何か」に、それこそ、「素朴に、言葉をあてる」をやれば、自信が回復するというよりも、自信の有無が気にならなくなる。ちょっと言い過ぎかもしれない言い方で言うならば(という留保を付けると書きやすい実感がありありとある。)、「自信」という概念の外に出られる。と書いたら、「ゃ、書かなくてもよかったかもな。。」にもなって、やっぱり、みだりに言葉を費やしゃいいってもんでもねぇな、となって、あぁ、口語体って大事だなーーと言って私は、おそらく、小説を構成するありとあらゆる手法、というのも言い過ぎかな、じゃあ、書く時に使うこと、形式とか、ほら、わかるでしょ? 今日オレ、丸括弧でしれっと気持ちを書いてたりするよ、そういうのも、さ。というのは丸括弧を使わずに書いてみたり、つまり私は、「へいへいへい、『つまり』でまとめちゃっていいのかなぁー?」なんていうことも思いつつも、あぁ、早く言わせてよ! はい、ですから、わたすは、もう直すのもめんどいわ、はいもう一回、私は、口語体がどーのの説明をやり直すのがマジでめんどくさいってのをなんでわざわざ書かなきゃいけないの? ってのを書いちゃうの? ってのをやりながら、小説の書き方が、「書き方」とある種の枠に収められる以前の姿、姿らしい姿を持たなかった頃のことを経験しているような気がするーーということが、なんでわかるんだ? ということを考え続けているような気がしている、という言葉が、ここまで書いて、後からやってきた。

 私は今、眠い。午後、七時五十七分です。
 分けなくてもいいかな、「と思う」と書かなくてもいいかな。「と思う」を鉤括弧に入れたのは、入れたからだ。あぁ、楽だ。「これで済ませるのは」を補った方がいいかも、とこんなに長い言葉を出さずに、「楽だ。」でいいや、とすらも思わずに、そういう感触だけ。感触だけ、書く。補わなくていい。文章、変。じゃ、それ、そのまま、形式にする? と言って、か、それも言わずに、なんか、知らんけど、いろいろあって(補いました。)、詩とか、俳句とか、(「出来たんじゃね?」と補った方がいいよね、うん、補う。)
 文が、「。」で終わらなかった。やりすぎ? じゃ、調整するか。とか言ったか、言わないかしてーーそれが、「いろいろあって」でオレが言おうとしたことか、と後付けするかと思いきや!
 しないんだな、これが。それも含めての、「いろいろあって」、一般的には、「洗練されて」というのかな? それも、後付けだよね? その「後付け」に関わった全ての方たち、失礼かもしんないけど、全く、そういうつもり、なし。洗練されて、詩なりなんなり、そして小説も、とかそういった、それぞれのジャンルに分岐していった。
 元は一つだった。それが、分かれた。分かれたには分かれたなりの、経緯がある。時間は遡れない。それは嘘だ。ゃ、時間の流れ、というものがあるとして、それを一方向にのみ解釈することで、「遡れない」が生じる。では、「一方向」をやめればいい。それがなんだかわかんないと、やめるもヘッタクレもない。では、「一方向」を定めた人に、会いに行こう。解釈した人、だ。

 私は時間から肉体を連想する。「連想」の〈連〉は、「連なる」だが、私は独立した別々のものが連なっているのではなく、同じ、元は一つのものが分岐したのだと思う。つまり、私は「一つのもの」が「時間」と「肉体」に分かれた。
 時間と肉体は一つだ。人は時間が経つと老いる。変化する。赤ん坊は大きくなる。猿だか人間だかよくわからないが、みるみるうちに人間の顔をしてくる。やがて青年、中年、と呼ばれる時期、まさに時間を経て、老いて、やがて肉体は朽ちてなくなり、生まれる以前と、「形を持たない」という点において、同じ存在になる。
 老いを感じて時間を知ることもある。「オレもトシだなあ。」ーー「トシ」は「年」だ。この「トシ」でも「年」でもいいが、これは時間か?
肉体か? 選べるわけがない。同じだからだ。
 肉体は目に見える。目に見えるから、鏡に映った肉体の像を見て「トシだなぁ。」と言う。それは正しいが、間違っている。あなたは時間を見ている。
 時間は目に見えないーーもう、そんなの誰だっておかしいとわかる。それはこの文章の持つ流れがそうさせているとも言える。しかしこの文章を読んでいない人だって、空を見れば、時刻とまでは行かなくても、おおまかになら時間を感覚することが出来る。
 この文章が書かれている今日は、二〇二四年の八月三日だ。東京・神奈川では、連日、最高気温が、三十三度だか、三十四度だか、そういう日がずうっと続いている。
 今は夜だ。冷房をかけた室内にいる。布団に仰向けになってタオルケットを掛けているが、スマホでこれを書くために両腕をタオルケットから出している。昼間に外を歩いた際の熱、ほてりが、腕に体に残っており、冷房の効いた部屋の空気で昼の日差しを感じ続けている。
 私が眠かったのは(今はすっかり覚めた)、今朝、早く起きたからだ。夜は遅かったのに。私は「私は眠い」にいろいろ貼り付いていると、今、書きながら思った。しかし、私よ。それは違う。元は一つだったのだ。だから、「会いに行く」みたいな言い方、やめろ。元は一つだったのだ。「元」は「過去」だ。でも、元は一つだったのだ。だから、「だった」、みたいな言い方、やめろ。元は一つなのである。「元」は、「今は違う」だ。それもおかしい。元もヘッタクレもなく、一つだ。時間と肉体とが一つであるように。しかし私たちは友人に「時間わかる?」を間違えて「肉体わかる?」とは言わない。しっかり分かれている。「言葉で分けているだけ」とそれこそ言葉では、頭では、理解できる気になりそうだがしかし、私たちはハッキリと、肉体と時間を別のもの……違う。わかった気がする。私たちは、「言葉で分けている」んじゃなくて、言葉を聞いたり読んだりしてから、「ぁ、別なんや。」をやっている。
 生まれてまもなく、周囲から言葉をかけられながら、と言葉で書いている私はしれっと「周囲」などと書いてしまったが、それはおかしい。赤ん坊は、まだ言葉を知らない、ということになっているはずだ。どうやって「周囲」と「周囲以外」(つまり自分)を区別するんだ? と書きながら、「生まれたては、自分も自分以外も分かれていないのか。」というような感触があった。しかし私がそうやって言葉にすると感触が変わるーー「違う、もっと漠然としていたはずだ。」
 私は、言葉にすることによって何かがハッキリとわかったり表現できたり伝えられたりが出来ると思っていたし、今でもそう思っていることもある。しかし一方では、言葉にすることによって言葉にする以前に感じていた何か、それは赤ん坊が生まれた瞬間に聞いて、いや、「聞く」も「見る」も「かぐ」もない、何にも分かれていない。その時の記憶を、「その時」にしない方法、つまり遡る必要すらない、それをどうやろうか、ということをずうっと書いている気もするが、同時に、書こうが書くまいがずうっと出来続けているんじゃないか、と言葉にすることで万が一、止んだらヤダなーーと書くことによって、私は今日か昨日書いた、音楽の話を思い出した。

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