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並行書簡-16

 前回のアップロードが三月二十九日なので、十二日振りの執筆ということになる。あれを書きたい、これを書きたい、ということではなく、何を書くのか見てみたい、という興味で書き始めている。
 昨日、雄馬から連絡があった。私が「ディクテーション」と呼んだ、書き方、もしくは執筆の状態についてだった。
 私は、三月三十一日に、雄馬と雄馬のパートナーが私の部屋に遊びに来て、談笑をしていた。その際に、『小説風日記』の第三章の書き方について、「ディクテーション」と言った。
 「ディクテーション」の辞書的な意味は、“口述筆記”である。外国語学習において、スピーカーから流れてくる、あるいは、実際にその場にいる者によって読み上げられた言葉、すなわち、口で述べられたことを、そのまま書き取る、つまり筆記する行為を指す。私は『小説風日記』の第三章を、もろにそのやり方で書いた。
 その日、私は、その書き方を、つまらない、と言った。訓練としては、大変に意義深いものであったし、だからこそ、実際にあの書かれ方が出てきたのは、間違いない。それは、認める。しかし、あれを、一生の仕事にしたいかと言えば、それは、嫌だ、無理だーーと言った。
 「ディクテーション」は、自分という自分を捨て去り、ただ、ひたすら、書く。言われるがまま、なされるがまま、ひたすら、書く。それは、素晴らしい訓練だ。変にアレコレの思いや、加工を加えず、非常に高い純度で、言語を提出できる。みなさん、これが、源泉ですよ。源です、いわゆる、“母”ですーー「ディクテーション」だと、そういうことができる。
 でも、私は、それができるから、なんなのだ? と思って、不満なのである。ここでいう“母”とは、私一人だけにとっての、個人的な母ではない。“全ての源”という意味での“母”なのだ。ありとあらゆる存在を生んでいるという点では、ありとあらゆる存在に先行している、つまり、“ゼロ”である。同時に、そこから何もかもが生まれてきている、つまり、そこに何もかもが含まれているという点では、“何もかも”でもある。雄馬はそれを“無限”と言っていた。
 私は、「ディクテーション」をすることにより、“ゼロ”でも“無限”でもある“母”なる存在が、確認できた。頭で、知識として暗記したのではなく、体験して、確信できた。あぁ、よかった。私は、次に行きたい。
 うっかり、結論を書いてしまった。これは、私が、うっかり、「ディクテーション」をしてしまったせいである。これが、私が、「ディクテーション」を好んでやりたくはない、という理由なのである。
 みなさんは、今、この文章を、読んでいますね。それは、間違いないでしょう。では、息は、していないのでしょうか。愚問で、すみません。でも、そういうことなのです。
 私は、文章を書く時、必ず「ディクテーション」で、書いています。みなさんが、何をする時にも、必ず、呼吸をしつつ、同時進行で、料理したり、読書したり、歩いたり、一休みしたりするようなものです。みなさんは、もちろん私も、呼吸を前提に、呼吸以外の、その時その時のことを、なさっていることでしょう。
 私は、『小説風日記』の第三章において、“呼吸”を徹底的にやりこみました。私にとってそれは、目的ではなく、手段です。まずは、当たり前に、“呼吸”ができるようになること。そして、自分は、“呼吸”をすることによって、“呼吸”以外のあらゆる行為ができていることを確認すること。それができたら、次は、じゃあ、その、“呼吸”をしながら、“呼吸”以外の、どんなことを、やりたいですか?ーーこのような問いかけもまた、“呼吸”から生まれてくることに、私は、今、気付いたのである。
 「ディクテーション」は、特化しなくても、いつもしている。それは、“呼吸”というものが、“動作”というよりも、どちらかというと、“状態”といった方が相応しいのと、同じ話なのだろう。
 私は、今、息をして、この文章を書いている。呼吸、と言ってもいいのだが、私は、もう、二重引用符を、付けても、付けなくても、どちらでもよい、という気持ちになっている。めんどくさい、という、ネガティブな気持ちではなく、本当に、文字通りの意味で、どっちでもいい。息をすること、呼吸すること、書くこと、これらは、本当に、同じなのだ。比喩だと解釈しないと気が済まない、という性分の方だけが、各自の裁量で、読みながら、頭の中で、記号を適宜補う、ということで、お願いしたいのだが、いかがだろうか。
 私は、私なりに、息をするし、文章を書く。読者は、読者なりに、息をし、文章を読む。記号を自分で補うことを考慮すれば、“読む”よりも“書く”の方が近いかもしれない。
 そうやって、私は、私で、想像したり、創造したりします。読者のみなさんも、ご自由に、想像したり、創造したり、なさってください。
 私は、これを、指が動くがまま、息をするように、書きました。私には、これが、普通であり、率直な、本心です。私は、読者が、作者によって与えられた文章を、ただ読まされるだけの、受動的な存在だとは、どうしても、思えません。足したり、引いたり、どんどん、やってください。すると、「ぁ、それはですねーー」ということが、出てくるでしょう。そういうところから、新たな議論が生まれることが、私は、嬉しくて、楽しくて、仕方がないのです。

 

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