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小説風エッセイ 第13回 風(8300字)

 おはようございます。今朝は6時に目が覚めまして、7時16分に、これを書き始めています。
 読者のみなさんは、それぞれが、それぞれのタイミングで、読まれていることと思います。それがたとえば、2026年の、12月15日だとします。テキトーに出した日付です。夜の就寝前に読んでらっしゃるとしましょうーーこういう文を、私は2024年の、8月9日の朝に、書いているわけです。というここまでを、2030年の5月15日の夕方に読んでおられる方も、いらっしゃるかもしれません。そろそろややこしいなーー書きながら、そう感じています。これらの記述をする私や、同じくそれを読まれているみなさんは、自身の“視界” に、入れ子構造と申しますか、「箱の中に箱があり、その箱の中に箱があり、その箱の中に…」という想像を、することが、出来ます。
 このような比喩ではなく、目の前に、実際の箱があるとしましょう。みなさんのいらっしゃる空間で、目の前に箱がある、ということです。時間もありますから、空間と合わせて、時空、と言わせてください。
 ダンボールでも木でもプラスチックでも、とにかくなんらかの、比喩でない箱が、時空にはありますーーこれを「ふむふむ。」と読みながら想像していただいた“箱” は、時空にはありません。
 私はここまで「想像」、イマジンですね、イマジンの方の漢字で想像想像と申し上げていますが、でも、ここまでの記述を、私は、ある人物が、講演会か何かで、聴衆に向かって語りかけているような、そんなイメージ、あるいは感触も、あるには、あります。「あるには、あります」という言い方をいたします程度に、おぼろげというか、まぁ、漠としたものです。つまり、小説の一場面を創造、クリエイトしている感覚が、なくもない、ということです。
 小説を作るのは、小説家、すなわち書き手だけなのでしょうかーーという問いが浮かびます。小説を書く人は、ある場面のイメージないし感触を立ち上げる、つまり想像します。小説を作りますーーこれは、創造ですね。
 しかし私は今、直前の二つの文を、こう言っては変かもしれませんが、ある意味では、頑張って、書きました。ちょっと無理をした、というわけです。
 というのも、“想像” と、“創造” を、完璧に区別するのは、少なくとも私にとっては、いつもというわけではないかもしれませんが、基本的には、難しいです。
 私はそれをどう説明しようか、ということで、一瞬、一秒あるかないかです、一瞬、この段落を書き始めるまでに、停滞、昨日の言葉で申し上げますと、“たゆたう” がありました。それで思い出したことがありますので、引用させてください。

 私は、「*」の時間を過ごしながら、と今書きながら、「あれ? さっき書いたぞ?」とも、「あれ? 時間が進んでいない?」とも、思ってなかったんじゃないか、と思う。そういうセリフ、すなわち言葉をあてず、そして「はて?」という言葉もあてず、「…………」を感じた。もしくは、「…………」になった。私は、これも、いや、「も」なのか? という気もしたが、とにかく、こういうのも、私は、「私がいなくなった」とも言え、かつ、その瞬間こそが、「私」を感じている、とも言えるんじゃないかーーということを全てすっとばして「普通のやりとり」をしている時、私たちは実はすっとばしてなんかいなくて、しっかりとそういうものを感じている。しかしそれを感じている自覚がない、すなわち無意識によってそれが行われている場合、私たちはそれを「やっとらんわ。」もしくは、「は?」となり、なかったことにされるが、意識で処理されないことを本当に、ない、ということにする、ということすら知覚せず、「ないというつもりすらない」になってしまうと、つまり「無意識は存在しない」になってしまうと、夜に支えられて昼があり、夢に支えられて現実があり…と考えた時の、意識を支える基盤たる無意識をないとする、すなわち基盤をなくすことになる。

第6回「産声(実感至上主義宣言・改題)」

 私は今、第13回を書かせていただいているわけですが、これまでの回を書きながら、そしてそれを書き終えてからアップロードの前に誤字脱字を探して読みながら、「読みにくいかな。」と思うことがありました。これからもあるような気もするので、「ありました」と、すっかり過去のような言い方はおかしかったかもしれませんーーという、まさにこういう迷いが、実は、ちょくちょく、チラつくことがあります。
 しかし、なんの気もなしに、たとえばパートナーがある回の感想を送ってくれて、とっくにアップロードしたその回を、改めて読むこともあります。「全然読みにくくないじゃん!」「最高じゃん!」となることも、あります。
 そう書きながら私が今思い出したのが、「その都度」です。

 私はこの記事[引用者注:伊藤雄馬「ぶにょー、どこ?」note]を引用すべく、いや、まず探しに行く、画面を切り替える前に、引用をする、というところに辿り着いた時、あるいはそれがパァーッ、と見えた時に、私はこれも家事か何かして書いていない時間に、なんとなく、引用、というものが気になっていた。ーー「そういやここまで、『小説風日記』のあとがきのらぴさんのセリフ以外なんも引用してねーなぁー。」「引用も、やり方やんねえとなぁ。」ーー私は引用は『並行書簡』と『往復書簡』で散々やったから、いいかな? とも、漠然と思っていた。それと、「そういうことじゃねえだろ。」「『前にやったから』は、『もういいや』の理由にならねえだろ。」「その都度、だろ。」ーーしかし私はこんなに言語化していない。

第8回「光」

 もうちょっと、これとは違う記述を思い浮かべていたのですが、量が量ということもあり、見つかりませんでした。ですが、本当に、第1回から、前回までを、隈なく読めば、見つかるはずです。そうすると、「見つかりませんでした」で、いいのかい? 「めんどくてやめちゃいました」じゃないのかい?ーーこういう声がいちいちチラつき、それで私は(これは、主に読み手としての、私です。)、そういう声もこうして書いてしまうことが非常に多いものですから(すみません、さっきの「私」、書き手でした。)、私は読む度に、「読みにくいかな。」となったり、書き手である彼が、もしくは私が乗っている“流れ” に乗ることが出来れば、その時は、わかる・わからないが気にならずに、「最高じゃん!」とか、「いやー、ごちそうさまです!」といった気持ちになります。ある晩は、台所で、風呂が湧くのを待ちながら一人で読み、本当にそう叫んでいました。
 しかし、読み終わると同時にそう叫んでいるわけでもありません。最後の一行を読み終え、数秒、間があります。その時私は、おそらく、言語化の出来なさ、とでも言うようなものを、味わっているのかもしれません。
 私は小学生の頃、今ちょうど夏休みのシーズンですが、私は読書感想文の宿題が、大っ嫌いでした。死んでも書けない、書かないーー「そんな子でした」と書く予感がありましたが、これだって、「すっかり過去のような言い方」は、出来ません。今だって、きっと、イヤだと思います。
 私は当時、「読書感想文とは、これこれこのように書くものである」という、一種のテンプレートを“見て” いたわけです。(なんとなく、先程の“視界” が思い出されたので、二重引用符にしてみました。なくても、普通の文かと思います。)
 私の見聞きする、あるいは想定する、“読書感想文なるもの” は、「主人公が、これこれこういうことをやって、花子がそれを見て喜んだので、私も、嬉しい気持ちになりました。」、「僕は」…いや、すみません、書けません。どうしても、強い抵抗がありまして……。
 私は母に、父にも言ったかもしれませんが、こんなことを言っていたと思います。小学校の、三年生の場面が浮かびますーー「読みながらいちいち、『わぁ、嬉しい気持ちだな。』、とか、『ぁ、太郎がこうこうこうで、オレは、楽しいな。』とか、そんなこと、絶対思わねえもん! 読んでる時の気持ちなんか、わかんないよ。『嬉しいな』とか『悲しかったです』とか、書いてる奴ら、あいつら、嘘ついてんだよ、そんなの読んでる最中、思うわけねえじゃん。」
 私は彼、もちろん私でもあるわけですが、彼でも私でもある私のセリフを書いて読み、それこそ、「読んでる時の気持ちなんか、わかんないよ。」と言いたくなる、そういう気持ちでした。
 そこからしばらく、「そういう気持ち」で、書くのを数分やめ、「そういう気持ち」か、あるいはすでにそうではなくなっているかもしれない気持ち、気持ちですらないかもしれないーーそういう状態にありました。“たゆたう” がまたも思い出されますが、私は「    」と鉤括弧を書いて空欄として今入力してしまいましたが、鉤括弧を開いた時は、少年(私です。)のセリフを受けた、その感想を、セリフとして書くつもりでした。でも、開いた直後に、それこそ「    」という一瞬の何かがあり、私は感想の提出をあきらめました。「“あきらめる” の話もいつかしたな。。」とよぎっていますが、わざわざ引用したいとまでは、思いません。もちろん「    」という、鉤括弧の中身を空欄にする、というのも、ずいぶん前にやりました。ですが引用は、やらなくていいと思います。
 私は今、彼と一緒に、書いています。もちろん全て、私です。

 先程のアスタリスクまでを午前9時頃書き終えて、夜の19時21分にこれを書き始めています。お昼をいただいた後に書こうと思って横になったら、眠り込んで夕方になり、夕飯を食べて片付け、現在に至ります。こう書くと、とてもシンプルです。
 simple とは、“構成要素が少ない” という意味です。英語の教員を、いくつかの高等学校を転々としながら、九年ほどやっていたことがありまして、その時の知識が、こうして執筆の際に、時々出てきます。しかしそれは、執筆をしている、つまりこうしてスマホを構えて文字を入力している時のみに限った話ではないんじゃないかなぁーーこのような話をしてみたいと、今、思いました。
 今、そう思ったのは、夕飯を食べて片付けてナンヤラ…と、話をしていました、その流れで、「なんか、そう思ったよ。」ということです。この“流れ” というのは、執筆をしている時、先程の言葉で言うところの、「こうしてスマホを構えて文字を入力している時」ということになりますが、その時にだけ、流れているものではありません。私はそれを、具体的に論証なり説明なりをしてしまう前から、あっさりと、断言してしまいます。実際に、しました。
 “流れ” に、仮に時間があるとしても(なんとなく、なさそうな雰囲気も私は感じていますが、“流れ” という言葉だけを見ると、時空が前提になっています。しかし、比喩かもしれませんね。)、“流れ” は、いつも、“そこ” にあります。たった今、丸括弧内で申し上げましたように、時空が前提だけど、なぁーんか、怪しいな、という気分が、丸括弧から現在に至るまでに、どうやら募ってきてしまいまして、それで、“そこ” と、二重引用符を付けた次第です。「“そこ” も空間、てことは時空が前提だけど、こっちも、なぁーんかなぁ……」です。
 だいいち、“流れ” から言葉が出てくると、仮定しますと、「言葉、どこにしまってんの?」となります。棚にでもしまってあって、そこからいちいち出してくるんですか? 出掛ける時は、持ち歩いておられるのですか?ーー“箱” の話が、思い出されています。

【前略】目の前に、実際の箱があるとしましょう。みなさんのいらっしゃる空間で、目の前に箱がある、ということです。時間もありますから、空間と合わせて、時空、と言わせてください。
 ダンボールでも木でもプラスチックでも、とにかくなんらかの、比喩でない箱が、時空にはありますーーこれを「ふむふむ。」と読みながら想像していただいた“箱” は、時空にはありません。
 私はここまで「想像」、イマジンですね、イマジンの方の漢字で想像想像と申し上げていますが、でも、ここまでの記述を、私は、ある人物が、講演会か何かで、聴衆に向かって語りかけているような、そんなイメージ、あるいは感触も、あるには、あります。「あるには、あります」という言い方をいたします程度に、おぼろげというか、まぁ、漠としたものです。つまり、小説の一場面を創造、クリエイトしている感覚が、なくもない、ということです。

第13回「風」

 本当に、この人の書いたものは、切りづらいですね。三つめの段落は、要らないかな、と少し思いましたが、「まいっか。」の方が(実際にセリフとしては発していませんが)、より強かったので、その結果、こうなりましたーーというのも私は、“流れ” だと思っています。文章の“流れ” 、みなさんの生活の“流れ”、太郎さんの生活の“流れ” 、佐藤さんの生活の“流れ” 、私の引用する・しないの気分の“流れ” …挙げたらキリがないでしょうが、それらが、本当に本当に、全くの、別のものなのかな?ーーそんなことを、私は思っています。
 今、私のいる、神奈川県で、地震があり、気持ちがスッと切れましたので、一旦、休ませていただきます。

 台所に行って、水を飲んできました。飲みながら、の前にコップに氷を入れていました。その時に、simple の、「構成要素が少ない」の話が、放り出されているなぁ、ということが、よぎりました。ちょっと休んだらすぐに再開するつもりでした(実際にそうしています。)ので、完全に切り替わっていないのは、まぁ、当たり前というか、普通のことだと思います。ですが、私は、ある日、その日の執筆を終え、後は風呂に入って寝るだけ、となり、実際に「ふぅー。」と安心していても、それでも、“流れ” から完全に解放されるわけでは、ありません。されたら、たぶん、困ります。
 私は、書く前に、何を書こうか、具体的に「よし、今日は(あるいは明日は)これこれについて書こう。」と思うことはほとんどありませんし(数分前に浮かんで書いた回はあった気がします。)、「忘れないようにメモしなきゃ。」、こっちは、100パーセント、ありません。私は、“流れ” で書きたいですし、“流れ” を書きたいですし、それに、「“流れ” で書く」と「“流れ” を書く」の違いが、よく、わかりません。本当は、全くわかっていないのかもしれませんが、控えめに申しましても、よく、わかりません。
 それこそ話の“流れ” 上のことで、今はこんなに流れ流れと申していますが、普段、執筆していない時に、明確に、「流れ流れ流れ…」と唱えることもありませんし、“流れ” についてアレコレさまざまな思索をしたり、アイデアを出したりすることも、少なくとも、意識では、ありません。でも、こんなに書いています。この第13回だけではなく、もしかしたら第1回から、さらにもしかしたら、第1回よりももっと前から、私はずうっと、“流れ” について考えたり、感じたり、生きたりしてきた可能性も、ある気がしています。

【前略】「読みながらいちいち、『わぁ、嬉しい気持ちだな。』、とか、『ぁ、太郎がこうこうこうで、オレは、楽しいな。』とか、そんなこと、絶対思わねえもん! 読んでる時の気持ちなんか、わかんないよ。『嬉しいな』とか『悲しかったです』とか、書いてる奴ら、あいつら、嘘ついてんだよ、そんなの読んでる最中、思うわけねえじゃん。」

第13回「風」

 なんか、オレより、この子の方がずうっとよく、小説のことわかってんな……と書きながら、それがわかる私もまた、わかってるな……と、意識化されました。「少年に私が教わる」と書くと、「少年」と「私」は別の人のようですし、実際に、彼のセリフをここにこうして引用してきて、それを読んでいる時は、「別の人」、という気持ちの方が、強いです。でも、彼から何かを教わったり、共感が起こったりすると、「少年」と「私」の間にある、元々淡い境界線が、さらに、淡くなります。それは、“私” と“読者” 、“私” や“あなた” 、そのへんのところでも、似たようなことがあるんじゃないかな、と思います。
 そろそろおしまいを見据えながら、もう一つだけ、引用させてください。私は、人称についても、何回か言及してたなぁ、と、今、思いました。(この、「何回かーーしてたなぁ」という言い方も、“私” の範囲の、別に悪い意味ではない、不透明さを表しているように感じられます。)(そう書いてから、「ゃ、逆に、透明じゃね?」とも思いましたが、まぁ、いいでしょう。)
 すみません、丸括弧が盛り上がってしまい、そちらの話がしたいです。私はこの、“私” というものの透明性と言いますか、そう書くそばから、「どこが透明なんじゃい、私は私じゃろがい。」という人もいるだろうなぁ、ということは、浮かびます。浮かびはしますが、他人事です。「そうですね、ははは。」と言ってか、言いすらせずに、私はその場から消えてしまうタイプです。この「消えてしまう」は、いなくなる、すなわち、“肉体が移動する” です。

 おはようございます。私は朝に書いているので、そう挨拶いたしました。目の前に肉体としての読者がいるわけではありません。肉体としてどうこう、というのではない“読者” に向けての挨拶かもしれません。
 私はそう書きながら、「人って、肉体か?」と、そういえばさっき洗面等の朝のルーティンをやっている時によぎったような、よぎっていないような……なんてことを、今思いました。
 私たちは、相手の肉体が目の前になくても、そしてズームやビデオ通話等をしていなくても、相手と会話します。私はこの、“相手” というのが気になっているような気がしています。
 私が今こうして執筆している部屋にある肉体は、小曽根賢さんの肉体一つだけです。という文を書きながら「ぉ?」もしくは、「ほう。」と思ったことがあります。それは、「“肉体” は、“いる” じゃなくて、“ある” なんや。」であり、「“肉体” は、“一人” じゃなくて、“一つ” なんや。」です。なんだか、ベツモノのようなニオイがします。

第12回「ころころまわる」

 前回の冒頭からの引用をこうして改めて読んでみて、今初めて「ん?」と思った箇所があります。最後の段落を、もう一度ーー

 私が今こうして執筆している部屋にある肉体は、小曽根賢さんの肉体一つだけです。という文を書きながら「ぉ?」もしくは、「ほう。」と思ったことがあります。それは、「“肉体” は、“いる” じゃなくて、“ある” なんや。」であり、「“肉体” は、“一人” じゃなくて、“一つ” なんや。」です。なんだか、ベツモノのようなニオイがします。

第12回「ころころまわる」

 最後の文は、こうです。「なんだか、ベツモノのようなニオイがします。」ーーえぇーっと、何と何が、「ベツモノ」なのでしょうか。しかも、これは人によるかもしれませんが、よぉぉーく、読まないと、気付けないんじゃないでしょうか。ちなみにこの段落の語り手である「私」は、小曽根賢さんのことを、「小曽根賢さん」と、敬称を付けて、呼んでいます。私も今、そう書きました。

【前略】今回の文章は、全て、最初から最後まで、小曽根賢という、一人の人によって書かれた、という約束事になっています。私は、そう言われれば、「はい、そうです。私が書きました。」と言いますし、言えます。それで、いいんです。これは、何も不思議なことではないんです。私たちは、どんな約束事でも、作り出し、「そうそう。そういうものですよね。」と簡単に、乗ることが出来ます。だから私は私が小曽根賢でもそうでなくても、どう考えてもいいんだと思います。そういう自由を経由してから「小曽根賢一択」というある種の不自由に帰ってくると、それが本当に文字通りの意味で「不自由」なのかどうかは、はなはだ怪しいんじゃないのかな、と私は思っています。

第1回「『小説風日記』あとがきのあとがき」

 私はもう少し、考えたり、考えなかったりを、楽しみたいと思います。

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