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小説風エッセイ 第14回 《最終回》(2600字)

 おはようございます。現在時刻は、タイトルに「第14回」とだけ書いた時は朝の7時ピッタリでしたが、今、07時02分です。
 私は、タイトルを、その回を書き終えてから付けます。付け方は、と申しますと、読んだ印象です。“感触” 、という話もこれまでにしてきたように思いますが、その通り、“感触” 、と言っても差し支えないでしょう。
 文章、そして単語レベルであっても、まず、意味を一切知らなければ、読んでも、何がなんだかわからないと思います……と書いている途中で、早速、本日一つめの疑問が浮上してきましたーー「『何がなんだかわからない』、だと?」であり、「それは、本当か?」です。
 目の前にお互いの肉体がある状態で、お互いがお互いの言語を知らないとします。えーと、一方が、日本語話者(ご自身として想定していただいて構いません。)、もう一方が、みなさんの知らない言語だとしましょう。
 私の友人には、彼は沖縄在住で、非常に陽気な方なのですが、私と3年前の夏に、私が沖縄を訪れた際に、初めて会いました。元々の知り合いでもありません。完全に初対面、ということです。
 私は、沖縄でバスガイドをしておられる、ある方、ゆきえさんという名前にしましょう、ゆきえさんに会いに行きました。正確には、たしかにゆきえさんにも会いに行きましたし、会いもしましたが、ゆきえさんは、顔が広い方です。それで、ゆきえさんにはたくさんの、楽しいお仲間がいらっしゃり、ゆきえさんも含めた、そのみなさんに、私は会いに行きました。
 どこまで詳しく書いてよいものか……という気持ちも、なくはないのですが、当時、2021年の夏は、コロナ騒動の真っ最中でした。まぁ、それで、私と考え方の合うゆきえさんが、ゆきえさんと考え方・感性を共有できるたくさんの友人・知人がいます。私は沖縄でバスガイドをやっています。よろしければ、沖縄をご案内します。賢さんが来てくれたら、みんな、絶対に喜びますーー私が、当時フォロワーが一万人だっか、それくらいいたツイッターのアカウント(そのアカウントはもう消しました。)で、「私が沖縄行くって言ったら、誰か遊んでくれますかぁ?」といったことをまさに“呟いた” 時に、ツイートへのリプライと、ダイレクトメールをくださったのが、ゆきえさんです。

 「おや?」と思いました。くるくるしてる?

 言語の話をしてみましょう。

 ゆきえさんの紹介してくださった方たちの一人に、ある男性がいらっしゃしました。彼は、日本語「だけを話す」と書くつもりでいましたが、ちょっと変だな、という感触があります。というのも、表向きは、という言い方にしましょうか、表向きは、日本語話者で、それ以外の言語、外国語の知識は、一切ないそうです。中学校の授業に英語があったかもしれませんが、それが何にどの程度、関係しているかは、わかりません。
 とにかく彼は、「オレはガイジンの友達いーっぱぃいるさァ。言葉わかんなくてもすぅーぐ友達んなちゃうさァ。」ーー聞き心地のよい琉球の発音と言いますか、リズムと言いますか、そういう声の出し方、“奏で方” という言葉も浮かびますが、とにかく彼はそのように、お酒を飲みながら言っていました。浜比嘉というところで、十数名で、キャンプをし、バーベキューをしている時だったかと思います。
 私は当時高等学校に勤めて英語の教員をしていたのもあって、「いやぁ、もう、ホントにそうなんですよねぇ……」と、非常に複雑な気持ちでした。“我が意を得たり” と、“痛いところをつかれた” が、いっぺんにやってきた、という心境・状態でした。
 私は、こうして執筆をするようになってからは、前者の“我が意を得たり” 、こればかりが強いです。「せやろせやろ!? 言葉がわかんなくても言葉が通じるよな!?」ーーこのセリフで当時の私が“言わんとするところ” がわかってしまうということが、まさに、「言葉がわかんなくても言葉が通じる」ということです。でも今、落ち着いて読み直してみると、「わかりにくかったかな……」という気持ちが出てきました。おそらく、「落ち着いて」しまうことによって、いわゆる、「頭で考える」が、強く出てきてしまったように、思います。
 後者の、“痛いところをつかれた” についてですが、当時の私は、英語の教員です。外国語を覚えると、コミュニケーションが取れるようになる。背後にうっすらと見え隠れする前提は、外国語、抽象化すると、言葉です。言葉を知らなければ、コミュニケーションが出来ない。外国語、ということに戻しますと、その外国語を知らないと、その外国語しか知らない人とは、コミュニケーションが取れないーーいや、それ、本当か?
 だって、目の前に、お互いの言語を知らない人同士で、「オレはガイジンの友達いーっぱぃいるさァ。言葉わかんなくてもすぅーぐ友達んなちゃうさァ。」の人が、いるのです。私はがっくり来ていました。彼に反論したいことが一切なく、心から同意できるからです。だから、がっくり来ていました。
 「もうさぁ、英語の先生って、英語しゃべれないと、英語書いたり読んだり出来ないと英語話者とコミュニケーション取れないって前提で、大変だぁ、じゃあ、英語やりましょう、っつって、そーゆー前提で生徒に英語を教えてんだけど、もう、前提が嘘じゃん。にぃにぃが完全にそれ証明してるよ。」
 にぃにぃ、は彼の名前です。私たちは夜もすっかり更けた浜辺で、バーベキューの炭火の灯りを囲んでいました。大人たちの多くは、缶ビールや缶チューハイを飲み、子供たちは食べるのもそこそこに、浜でキャッキャと走り回っています。時々、つまみに来て、またすぐに走り出します。二十名以上いたように、記憶が蘇ってきています。大人同士で話をしている大人たちは、大人同士だけで話しながら、子供の声も聞いています。「聞こえています」かもしれません。それで、子供たちの様子も入ってきます。たとえ、“入ってくる” の自覚がなくても、入っています。目の前のバーベキューの灯りも、その火の熱も、波の音は、昼に到着した時からずうっと聞こえ続けています。そう書いて私も波の音が意識されましたが、意識していなくてもずうっと聞こえています。

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