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並行書簡-30

 手が空くと、書きたくなる。数日前、雄馬が“並行”の筆を再び取り始めた日の夜に、私は、その日の二つ目の記事の執筆に取り掛かったものの、どうにも、途中で進まなくなり、消した、ということがあった。「今は、雄馬がやってるから、私は“お預け”かな。」と思い、その時は、受け入れた。渋々、であったような気もする。
 今は、やっぱり、書いてもいい気が、している。私に、ではなく、私たちに、“ディクテーション”をさせてくれている者たちだって、成長する。ならば、以前は対応できずに、私に、「ぁ、ちょ、今じゃない!」となっていた過去があっても、それがあったからこその学び、というものも、あるだろう。私は、私一人で成長するのではなく、私たち全員で成長する。それが、私が成長するということである。
 先程、約二十日ぶり、かなり久しぶりに、部屋の雑巾掛けをした。床の表情が、以前の雑巾掛けと比べて、ずいぶんと変わった、という印象がある。雑巾掛けの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。という、今書いた文の「雑巾掛け」には、ほとんど、どんな名詞も、入ると思う。

 料理の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 演奏の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 スピーチの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 施術の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 執筆の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 接客の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 雑巾掛けの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 「おお、ホンマや。」という反応もあれば、「当たり前やんけ。」という反応もあるだろう。前者は、当たり前のことに気付いていなかったが、気付いた、という反応だ。後者は、もともと当たり前だと思っていた人の反応だ。共通するのは、「当たり前」という点である。

 「◯◯の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。」という少し長いかもしれない文を、短くすると、「世界は私を映す鏡だ。」となる。これはこれで、間違っているとは思わないが、唯一の正解だとも思わない。別解があれば、興味がある。

 この「鏡」の話でおもしろいのは、私の前に誰か、たとえば田中さんが現れた時、田中さんが私を映す「鏡」であると同時に、私は、田中さんを映す「鏡」である、ということだ。
 私が、田中さんの、ある行動に、喜んだとする。それは、私にとって、田中さんの行動が、嬉しいものだったからだ。私の中にある、何かしらの価値観が田中さんの行動に映し出され、私が喜んだ、ということだろう。このあたりの話は、まあまあ、一般的なものであると思う。
 では、そんな、喜んでいる私は、田中さんの、何を映した、あるいは、どう映した「鏡」なのだろうか。私は、実は、これが、よくわからない。
 「わからないから、なんなんだ?」といえば、「いや、べつに。」ということでもあるのだが、私は、周囲の他人たちや、物たちが、私を映す「鏡」なのは、わりあいすんなりと理解できているつもりなのだが、私が私以外を映す「鏡」である、というのが、どうも、感覚的に、深いところまで、ストンとは、納得できていない。ちなみに、反論は、ない。

 読み返してみると、ちょっと、わかってきた気もする。しかし、それを書くと、いかにも説明的な説明を、長々としそうな予感がして、気が進まない。
 私は、他人にとっては私も「鏡」って、どういう感じだろう、とうっかり書いてしまったが、これは、「うっかり」だったのだろう。それは、私が感じたり、考えたりするのではなく、私を「鏡」とする、その他人たちに、委ねておくところだったのだ。
 私は、他人という名の「鏡」を見る。つまり、他人を見る。その時、そこに映り込んだ自分のことも見る。この時、“自分”と“他人”が重なる。私は、“他人”と“自分”を同時に見ている。今の私には、それで充分だったのだ。
 「今は、とりあえず、それに専念しなさい。」ーー私は、自分の理解の状況に、どこの誰かも定かでない“他人”からのメッセージを見て取り、そしてその“他人”のことを、それほどは“他人”ではないような気もしている。

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