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小説風エッセイ 第10回 彩り(8000字)

 みなさん、第10回をお読みくださり、ありがとうございます。私はこれを書き始める前に、なんとなく、第1回を読んでまいりました。私は、タイトルに、第◯回、という表記を、一昨日くらいの夜に、加えました。シリーズというか、一冊の本というか、そういうつもりが、なかったのです。これは、「意識では」、とか、「自覚としては」、とか、あるいは、「顕在的には」、「顕在意識では」、などなど、そのような言葉でも、言えるのかもしれません。
 私は、「自分ではこれこれこういうつもりだよ」、すなわち、「単発のものとして書いてるよ」であったものが、「シリーズだよ、切れてないよ」であること、あるいはそうである可能性を、後から発見します。「そういうことが、今回に限らず、日常的にある」という意味で、発見「しました」ではなく、「します」と申し上げました。
 私たち、と複数にしますが、私たちは、意識で考えたり感じたりしたこと、していることが、事後的に訂正される、ということがしょっちゅうあります。この「事後的」の、特に、「後」は、時間的に後である、ということでしょう。自覚としては、後である、ということでも、あると思います。
 意識は、時間の中にある。あるいは、時間と共にある。なんだか、そう言えそうな気がします。
 無意識は、どうでしょうーーと書きながら私は、段落を変え、意識と無意識を別のものとして論じ、別のもの、すなわち分けようとしている、あるいは分けている様子を、たった今、見て取りました。
 私は、こういう、観察の、主体という言い方でいいでしょうか、観察の主体は、もう、意識も無意識も、ごっちゃじゃないのかな、と思います。
 観察の主体を、自分、と考えた時、では、観察される対象は? それもまた、自分、と私は考えます。観察するのも、されるのも、自分ですーーという文を、私は何かを観察しながら書いているような気もするのですが、いかが思われますでしょうか。
 私は、自分はたくさんいる、という言い方をしてもいいと思います。そんなに散らばってるなら、いるって言ったって、いないようなもんじゃない、いないって言っちゃいなさいよ、という言い分にも、私は共感します。その全てが私なのです、という主張も、あると思いますーーという文は、「共感します。」と書いた後で、出てきた言葉です。
 私は今、先程の、意識・無意識、の話と、時間的に後やらなんやら、そういう話をしてきたことを、思い出しています。なんだか、これ自体が、意識・無意識、時間がどーの、という話でもあるような気がします。
 私はここまで書きながら、私、にも、自分、にも、鉤括弧も二重引用符も、何も記号を付けずに、しゃべってまいりました。たとえば鉤括弧を付けると、引用か、あるいは、「これは、通常の使い方とは、違いますよ」、ということになります。その場合の前提は、通常の使い方、と、その文におけるその使い方、が異なる、すなわち、分けている、ないし分かれている、ということになります。「になります」ではなく、「です」とするべきでしょうか? 私は、書かれてから思いましたが、この、「になります」というのは、時間の中で、あるいは時間と共に、変化する、あるいは、変化の結果です、という、そんな何かが含まれているのではないか、ということを思いました。書かれてから、そう思いました。
 私、の意味を確定しよう。自分、の意味や、有無を、確定しよう。時間と共に考えたり感じたりしている時、それは、そもそも、可能なのでしょうか。可能かどうかについて考えることも出来ますし、「可能なのでしょうか」を、出来るわけない、という反語として取ることも、出来るかもしれません。可能性が、言葉と共に、時間と共に、分岐していくようにも、思われます。それを書いたり話したり、そしてこうして読んでいただいたりしている間に、なんとなく、分岐される以前、つまり「分岐しないとどうなのか」、という問いも、私は今、思い浮かびました。これは、第1回から、ずうっと書き続けていることではないか、と、書いた直後か、書いている最中に、思いました。
 私は、何かが起こる、あるいは起こる・起きていると感じた瞬間に、過去になるような気がして、そう思ったからそう書きましたが、書いている途中で、それもなんだか……という感触も、ありました。
 私はそう書いて、言葉を書いて書いて、分けて分けて、そうやりながら、「ぇ、分けんの?」「ぇ、分けんの?」「マジで?」「マジで?」というようなことも、やっているような気も、しています。先程の言葉に引き付けて申し上げるなら、そんな私を、ないし自分を、観察し、記述している、とも、されている、とも、申し上げたくなる、そのような様子を、報告いたします。

 私は私について考えたり書いたりしていると解釈できる、感じられると思うが、論理的に記述するには時間が不可欠であるーーというのは、どの程度まともで、どの程度おかしいだろうか。
 論理的に記述する、と言ったが、その、「論理的である」と人が判断する時、何を持って、あるいは、どう感じると「論理的である」となるのだろう。
 私は変だなと感じている。それを追ってみると、まず「追う」には方向、空間が感じられる。空間と時間は不可分だ。空間は……ぁ、やめよう。
 私は今、書こうとして、何か、詰まった感じがした。私は時間を止めて、あるいは、止まっているというテイで書こうとした。これが「論理的に記述する」ということだ。
 論理的に記述するには、いくつかの項目を項目として固定し、それを組み立てていく。それが「論理的に記述する」と言われている行為だと思う。しかし行為には時間がかかる。時間があれば変化する。変化するなら固定はおかしい。しかし私はそれを、少なくとも私にとっては、論理的だと感じられる記述で今、書いている。
 私は、暫定、という言葉が浮かぶ。「いちおう、そういうことで。」くらいの意味だろうか。
 論理的に書くには時間を止めなければならない。論理的にでもそうでなくても、書くには時間はかかる。どんなに速くやっても、だ。「速く」がそもそも時間が前提だ。
 私は嘘が嫌い、と手垢のニオイが少しする言い方ではあるが、まぁ、嘘が苦手なのは間違いない。
 嘘、という言葉もなかなか多義的かもな、と思った。少なくとも、私はさっき自分で自分の記述を、「私にとっては論理的に感じられる書き方で書いてるよん」という主旨の発言をした。私は「論理的」は嘘だ、と言わんばかりだが、私はその「私にとってはーー書いてるよん」と言われた箇所を、嘘をついているつもりは全くなく、書いていた。しかしそう書きながら、具体的には、「全くなく」の入力中に、違和感があった。嘘をついているつもりは全くないと言えばたしかに全くないのだが、しかしその、私にとっての論理的な記述、とやらをやっている最中にも、なんか、こう、気持ちの曇りというのか、そういうのは、あった。だから私はさっきこう言ったーー「嘘、という言葉もなかなか多義的かもな」、である。
 「だ」よりも、「である」の方が、私の印象としては、強く言い切っている感じがする。重みがある、とも言える。私はそこに、時間を止めている、と書きながら、時間を超えている、とも浮かんだ。
 二者択一、つまり一方が正しく、一方が間違っている、という考え方の限界を感じる。しかし、「だから二者択一は未来永劫やっちゃダメ!」とも思わない。それは、二者択一というやり方を、やるかやらないか、すなわち二者択一している。それはさすがにあかんやろ、と思う。
 これはすなわち、「白もいいけど、黒もいいけど、でも、グレイだってあるんだぜ?」であり、「一口にグレイったって、いろいろあるぜ?」である。
 私は「論理的」がわからない。わからないから考えたり書いたり、あるいは考えるのも書くのもやめたり、いろいろしている。私はそれらをしたりしなかったりする、その全てを、私、だと思っているーーと書かれた、あるいは書いたことにより、「ぁ、オレ、私の話をしてたんや。」と思った。
 アスタリスク明け(休憩明け、くらいの意味です。)に私が何を考えていたか、考えていなかったか、私は覚えていない。それは、明示的には、である。顕在的に、とか、意識としては、とか、そんな話をアスタリスク前にしたと思う、と今思い出した。
 私は今、まとめるような、あーでもたぶんまとまんねえだろうなぁ、ということを言うと、たぶん、思いつくことを、なるべく全部書いている、ということだ。しかし全部は不可能だ。
 書いてるうちにどんどん浮かぶ、浮かんでる間にも書かなきゃならん、いや「ならん」でもないだろ、一旦やめればいいじゃん、しかしその間にもどんどん浮かぶ、さぁ、それを「論理的に」書いてみますか。
 私は「論理的」がわからない。全部書けないし、書けそうなこと、「これとこれとこれをこうやって並べると、論理的、ってことになるかな?」「なるな、よし、じゃあ、これを書こう。」ーー私は戻ってきてしまった気がしている。ダッシュの直前のセリフを言う者がやろうとしているのは、果たして、嘘をつく、なのだろうか、それとも、本当のことを……と書きながら、私は二者択一の話を思い出した。

 ニーチェは肺炎で死にました。あるいは、死んだ時に肺炎だっただけで、肺炎が原因だったわけではなかったかもしれません。そういう史実になっています、という紹介ではありません。詳しい方、怒らないでください。私は、「そうじゃなかったっけ? 違ったっけ?」の話をしています。
 ニーチェが肺炎で死んだとします。生まれたから死んだわけではありません。肺炎で死んだんです。
 あるいは、ニーチェが死んだ時肺炎だったけど、肺炎が原因だったわけではありませんーーなんでわかるんだ?
 ある人は、こう言います。「科学的に、こうこうこうです。」
 ある人は、こう言います。「医師としての経験上、これこれこうです。」
 そうかもしれません。違うかもしれません。両方かも……と書きながら、私は思いましたーー「“原因” て、なんだ?」です。
 この問いはおかしいです。なぜなら、この人は、いくつか前の段落で、「肺炎が原因だったわけではありません」と、言っています。私は今、彼が言っていた言葉を鉤括弧内で引用した後に、「と、言っています」と言いました。時間を貫いている印象があります。
 「“原因” って、なんだ?」に対する解答を持たなくても、「原因」なる語は使えるのかもしれません。というか、使っていましたね。
 私はその時、気にしていませんでした。ニーチェって肺炎でさァ、などと、お気楽でした。
 なんの気もなしに書いたりしゃべったりしている時、人は、が言い過ぎでしたら、私は、あっさりといろんな語を使い、それを使いながらアレコレ話したり書いたりを進めるうちに、「あれ? オレ、これ、知らねんじゃね?」が起こります。
 知っているから使えているのです。知らないから、使えているのかもしれません。使いながら、おかしい、と気付きます。そしたら、私はこうします。「あれ? おかしいな?」ーー「こうします」、というほどのものではなかったかもしれませんね、と書いてから思いました。そうやって、書いてから思ったり、書きながら思ったことを、書きます、で「。」を打ちそうでしたが、書かないこともあるかもしれません。そう入力しながら、またも、私は、二者択一、が脳裏をよぎります。入力していたのは過去のはずですが、私は、脳裏を「よぎります」と書いたことに書きながら気付きました。時間がズレています。あるいは、貫いています。気になった方、いらっしゃいますか? 気にならなかった方も、たくさんいらっしゃると思います。
 時間が経てば、変化します。時間をないことにすれば、論理的な記述は簡単です。それは、簡単な人にとっては、です。
 私は、どんな文章を書く時でも必ず、かどうかはわかりませんが(その都度、という考え方が強いものでして。)基本的には、論理的かどうかを、あんまり気にしていない……と書きながら、意識・無意識、という言葉たちがやってきました。
 「あんまり気にしていない」は、いわゆる、意識とか顕在意識とか言われるものだったのでしょう。しかし、こうやって、「論理的、ってなんだ?」「時間の経過の中で、論理的、ってどーやってやるんだ?」を散々書いている者が、「あんまり気にしてない」だなんて、「は? どの口が?」でしょう。
 この人は、口では、つまり意識なり顕在意識なりでは、「気にしてない」と言いつつ、無意識なり潜在意識なりでは、「気にしてる」、あるいは、もうちょっと色の薄い言葉で言えば、「考えている」……と書いて思いましたが、色、薄まってるか?
 三つ前の段落を、引用させていただきます。二度手間で恐縮ですが、お付き合いください。

 私は、どんな文章を書く時でも必ず、かどうかは、わかりませんが(その都度、という考え方が強いものでして。)基本的には、論理的かどうかを、あんまり気にしていない【後略】

 私は時間を遡って引用することが出来ました。「“引用” って、そういうことが出来るのか!」と、スマホを操作しながら、声は出しませんでしたが、目が少し大きくなりました。ビックリした、とか、興奮した、ということです。
 それで、引用部についてですが、(というこの表現は、遡って引用して現在にまさに「引」っ張ってきた過去を、そのまま現在にとどめ続ける効果があるように感じます。)その前に、今、丸括弧を書きました。丸括弧には、「時間の“外”」とでも言うような雰囲気があります。どうでしょう? (引用部にも丸括弧がありますので、そちらでも、ご確認いただけますし、ここでも結構です。)
 「時間の“外”」と言うわりには、読むのに時間は必要です。私も、書くのに時間が必要です。それじゃあ、「時間の“外”」は、おかしいです。ーー「あれ? おかしいな?」です。
 丸括弧内だって、時間は確実にあるでしょう。でも、なんか、外っぽい、という感じもする。でも、時間だって、あるにはある。これは、“別の時間の流れ” です。
 アレコレの記号を使って書いていると、そしてアレコレの時に関する表現、私はそう言って、「だ」・「だった」、「ている」・「ていた」、それだけを言おうとしていたのですが、書きながら、「トンデモナイ!」と思いましたーー時間と言語は、不可分です。
 私は、これは絶対に、私たち、と言っていいと思いますが、私たちは、言葉を書いたりしゃべったりしながら、時間が経過します。だから、「時間と言語は、不可分です。」です。
 私たちは、そういう、時間なるものを、ないというテイで、論理的、とされる記述をしたり、でも、あるというテイでも、記述したりします。てゆうか、記述してんだから、絶対にあります。でも、ないというテイでも、やっています。
 私は今日、もう、何回目かわかりませんが、またしても、二者択一、がチラついています。あぁ、すみません、何度も教えていただいて。
 まとまっているかまとまっていないか、それこそ選べませんが、そろそろこの辺で、お開きにしたいと思います。
 私はなんかいろいろ書いていますが、何を書いているか、わかっていたり、わかっていなかったり、そして、「わかっていたり」が「わかっていなかったり」になったり、「わかっていなかったり」が「わかっていたり」になったりもします。「早口言葉かよ。」と、ぼそっと思いました。という一文を丸括弧に入れようか、この文の入力の前に、一瞬、思いましたが、「いっか。」で、サッと流した、わりには、「サッと流した」をしっかり書いています。それだけ見ると、矛盾です。では、大局的には、いかがでしょう。「大局的」の範囲と言いますか、定義と言いますか、そういうものは、おまかせします。読者に「おまかせ」しているかもしれません。その読者が今後関わる全ての人たちを含めて、おまかせ……そう言うと、委ねる、が浮かびます。そう考えているうちに、「『大局的』の範囲、考えてんじゃん?」に、なってしまいます。ました。

 そろそろ本当にお開きです。意識・無意識とやらも、書きながら、つまり時間と共にどんどん変わってしまうような気もしてきました。
 私はさっき一行空けて段落を変える前に、別の部屋で少し休んできました。空間を移動したわけです。時間と空間も、不可分です。だてに、時空、と言わないわけです。
 私はさっき休憩し、台所でタバコを吸いながら、今日の始めの頃に申し上げたと思う言葉を、思い出しました。引用が今日は好きなので、またも、引用します。

 私は「論理的」がわからない。全部書けないし、書けそうなこと、「これとこれとこれをこうやって並べると、論理的、ってことになるかな?」「なるな、よし、じゃあ、これを書こう。」ーー私は戻ってきてしまった気がしている。ダッシュの直前のセリフを言う者がやろうとしているのは、果たして、嘘をつく、なのだろうか、それとも、本当のことを……と書きながら、私は二者択一の話を思い出した。

 一つめのセリフに私は注目します(「という表現は、読者の注意を引く表現なのか!」と書きながら思いました。「やっぱり、“読者” か“私” かも、二者択一できんな。」ともーー)。この、「これとこれとこれをこうやって並べると、論理的、ってことになるかな?」の冒頭、「これとこれとこれ」についてですが、私は、「これ」というのを、なんらかの単語やフレーズや文、あるいは書き手の、すでに決定されている、ということは固定されている、なんらかの考え…といったものを想定して書いていました。つまり、「これ」というのを、なんらかの言葉として想定していた、ということです。
 しかし本日の記述で私がアレコレ見つけていたように、いろんな言葉に、いろんな時間がありました。引用や、括弧を用いると、さらに「いろんな時間」、になります。
 私は前回か前々回か、「私の記述は時間が錯綜している」ということを申し上げました。でも、そう書きながら、なんで今その「錯綜している」のくだりを話し始めたかがわかりましたが、私は今ここに来て、こう思っていますーー「誰だって錯綜してんじゃないの?」です。
 仮に、「誰だって錯綜して」るとします。すると、私は新たな疑問が出てきます。元々あった気もする疑問ですーー「誰だって錯綜してるなら、誰かの書いたどーせ錯綜している文章のうち、何を持って、どーやって、論理的であるとかそーじゃないとか、やってんだ?」です。

 論理的に記述する、と言ったが、その、「論理的である」と人が判断する時、何を持って、あるいは、どう感じると「論理的である」となるのだろう。

 いひひ、どうやら、「元々あった」ようですね(めっちゃ嬉しい!)。そんなつもりはなかったですが、ねーーとお調子に乗っていたら、トンデモナイことに気付きました。「振り出しやないけ!!」である。
 いや、もう、私は今日は、それなりに精一杯(そんな日本語ねえぞ?)、論理的っぽい文章を意識したつもりですが、と書きながら、「ぁ、意識ってことは、無意識は……(汗)」となりました。
 私はなんだか、「論理的である」という言葉によって引かれている境界線、その境界線を全力で消しにかかっているのではないか?ーーそんな思いが、浮かんできました。
 ねぇ、合ってる? 教えてよ、無意識♡

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