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並行書簡-20

 記念すべき第二十回は、第十九回を書いたのと同じ日に、第十九回を書き、夕飯を食べて片付けて、すぐに書かれ始めている。私は、スマホで、ドラゴンクエストをやろうとした。そうしたら、指が、この画面を開き、私は、「えぇー、また書くのおぉぉ?」と、顔をシワクチャにして、言った。
 私は、やりたいことを、やりたいようにやろうと、最近、改めて、思い始めている。今までも、充分に、やりたいことを、やりたいようにやってきてはいると思うのだが、しかし、それでも、どこかに、硬さのようなものが、ないとは言えない。「やりたいことを、やらねばならないのだ。」「せっかく生まれてきた以上、そうあらねば、ならないのだ。」といった具合に、私は、私なりの“べき論”に基づいて、ある意味、「頑張って」、やりたいことをやっていたーーそのことに、つい最近になって、気が付いた。
 もう、それも、そろそろ、お腹いっぱいかな。今は、そんな気持ちだ。もう、“べき論”とかじゃなくて、自由に、好きに、やればいいや。“自由でなければならない”、といったこんな縛りも、もう、いいかな。私は、私に、言いたい。よく、頑張ったな。お疲れ。もう、大丈夫だよ。最初から、全然、大丈夫だったんだけど、それが、今になって、ようやく、わかってきたよ。あなたが、「頑張って」くれたおかげで。“自由でなければならない”なんてゆう“不自由”すらも、“自由”に設定できてしまうくらい、人は、“自由”なんだね。証明、ありがとう。もう、よおく、わかった。

 私は、つい最近までは、いくらでも、無限に、書けると思っていた。今にして思えば、それは、そういう“構造”になっていることを発見した、という気分からの、発言だったのだろう。発見したばかりの時は、こう、ほくほくして、嬉しいものだ。
 しかし、やがて、それが馴染んで、当たり前になってくると、「うん。ある。そういうの、あるよ。」になり、「あるのに、なんで書くん?」に、なってしまう、ということだ。
 私は、悪く言えば、冷めてたり、そっけなかったりするかもしれないが、良く言えば、落ち着いている。私は、個人的には、後者の言い方が、しっくりくる。というのも、ネガティブな感情が、現にこうして書いている今も、微塵もないからだ。
 書いてもいい。書かなくてもいい。それは、どっちでもいい。「どっちでもいい」ということを、心から納得し、それを、明瞭に、淡々と、書く。
 矛盾していますか? そうですね。では、その「矛盾」を、明らかなカタチで、どんどん書いてしまいましょう。いや、書いていれば、勝手に、どんどん出てくるものなのかもしれません。だから、矛盾をどんどん書こう、などと、思う必要も、ないかもしれませんね。そうしたら、やはり、書いても、書かなくても、どっちでもいい、ということに、なってきそうですね。
 「どっちでもいい」ということを、ここまで、延々と、書かせてもらっています。結局、書くんじゃん、という結論にもなりそうなものですが、でも、私には、書いていない時間も、あります。
 読者のみなさんは、こうして、書かれたものを、お読みになっています。すると、どうしても、「この人は、書いている。」「ぁ、書いてる。」「書いてる。」「書いてる。」「書いてる。」…と、ついつい、「書いてる。」の方ばかりで、私のことを、イメージしてしまいがちなんじゃないかなぁ、と想像します。
 でも、私は、書かずに風呂に入ったり、書かずに料理し、書かずにそれを食べ、書かずに皿を洗い、書かずに布団を干したり取り込んだり、書かずに寝たりも、しているのです。もちろん、今は、こうして、書いています。つまり、私は“書く”も“書かない”も、両方とも、これでもかというくらいに、やっているのです。

 私は、ここまでを読み返してみて、書いている私と、書いていない私の、両方の私を眺めながら、ここまで書いているなぁ、と思いました。いつもと同じ手法で恐縮ですが、ここで、先程の第十九回から、引用してみましょう。

【引用始め】 この、相反する両者を眺めて、「はいはい、片方の“私”(①)も、もう片方の“私”(②)も、どちらも言いたいことは、わかりますよ。」と、カントクのような役割をしているのもまた、“私”(③)なのである。
 ①と②は、視座は同じだ。視点が違うだけである。この、①と②のセットと、③は、視座が違う。③は、①と②を共に眺めているのだから、当然である。
 ①と②が、同じ高さで並んでいるのを、③が眺めているということは、①と②を結ぶ底辺よりも高いところに、点③があり、その三つを結ぶことで、三角形ができあがる。【引用終わり】

 もう、このような三角形が見えるのは、私にとっても、読者にとっても、当たり前でしょう。「このような三角形が見える」と言ってる視座を④とします。三角形と、④を結ぶと、正四面体が、できますね。四つの三角形を貼り合わせたような、立体です。これも、当たり前に、イメージできるでしょう。
 では、その正四面体を、「当たり前に、イメージできる」視座(⑤)と、正四面体を結ぶと、どうなるんでしょうか。ーーよく、わかりませんね。
 雄馬は、この話になると、いつも、「一箇所に固定されている点から正四面体の全てを眺めることはできない。」と言います。つまり、「動け。」と、言っているわけです。私は、それを言われると、いつも、「いや、お前が、動け。」と思います。しかし、雄馬がそれを言うのは、ワークショップの最中であることがほとんどですので、カドが立ってもいけないと思い、いつも、私が、泣き寝入りすることになります。
 しかし、私は、もう、変わりました。雄馬よ。お前が、動け。すると、相手も、動く。動いている電車に乗ると、風景が、動くだろう。だから、お前が、動けばいい。そうすれば、私は、わざわざ動かなくても、動いている、さまざまな風景を、楽しめる。
 実は私は、二つ前の段落の途中からは、冗談のつもりで書いていたのだが、引っ込みがつかなくなり、そのまま書き続けていたら、あながち冗談でもないような雰囲気になってしまい、結局、然るべきところまで、書ききってしまった。
 今は、それがどういうことなのか、わからないが、後で、気が向いたら、じっくり読み直したい。そうやって、起きた現象に対して、後付けを承知で、アレコレを考えてみるのも、このゲームのおもしろいところだと、私は思っている。
 「ゲーム」と書いて、私は、ハッキリと思い出した。私は、これから、ドラクエをやるのだった。
 では、みなさん、今回も、ご参加どうもありがとう。

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