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第5回 海を眺めて(2)(4600字)

 おはようございます。2024年8月15日、朝の6時36分です。
 書きたいことがいろいろありそうな気がしています。まずは、ついさっき、昨日も少し話した近所の、海沿いの駐車場に行きましたら、私と同じアパートに住むご夫婦の旦那さんが、いらっしゃいました。夫婦共に、サーフィンをよくなさる方で、タバコは吸われないのですが、海の様子がとてもよく見える、灰皿の近くにあるベンチに腰をかけておられました。
 私は駐車場に入ると、すげえ車いっぱいだな、と思いました。二十台か、三十台か、一つ一つ数えてはいませんが、満車です。互いの車間もギリギリで、絵に描いたような満車で、私は、少しだけですが、少しだけ、たじろいでいました。おぉ、マジか……こんなことは言いも思いもしませんが、そういう気持ちが通り過ぎたことは、事実です。
 それで、駐車場の私が入った、山側の出入口から、海側にある、ベンチや灰皿のあるところに向かって歩きます。すると、何台もの車の影から、帽子が見えて、もっと歩くと帽子をかぶった男性だとわかります。先客いるな。まいっか。それで少し距離を置いて、私もベンチに腰かけました。
 するとあちらから、体ごと海に向けて海を眺めていた男性が、私が座ったか、歩いたりしていた音で、振り返りました。私は朝ということもあり、ぼぉーっとしています。それに、知らない人だと自分でも知らず知らずのうちに決めつけてしまっていますから、振り返ろうがなんだろうが、反応しません。反応しない、と決めている気配を、今、書きながら感じています。きっとそうだったのだと思います。
 あちらが振り返るとほぼ同時に、私を見て、おぉ、と言いました。私は何も思わずに、その「おぉ」を見ました。見たら、知っている方がいました。
 「こうして海を眺めてる時、何してるの?」
 私はサーフィンをやる人が海を眺めながらどんなことを考えたり、感じたりしているか、興味がありました。私は私の発言を聞いて、「いや、眺めとるんじゃい。」とツッコミを入れ、発言からほとんど間を空けずに、言葉を足しました。
 「波の様子を見て具体的に何かを考えたりとかする?」
 男性は私と同年代か、少し上くらいです。私は彼のことをさん付けで呼んでいるので、そう(=少し上)かな、と思ったのですが、しかし同い年の雄馬さんのこともさん付けで呼んでいることに、こうして書きながら気付いています。
 おそらく、私の発言が敬語でないことで、読者が、私と同い年であるとか、私より若いとか、そういう風に感じる可能性があるかな、と思い、それで年齢に気持ちが向いたのだと思います。目の前に肉体としての読者さんはいらっしゃいませんが、こうしてふっと“他者” が現れて、それをキッカケに普段は考えないことを考えられる。こういうのも、“書く” の効用の一つだなぁ、と、今、感じています。
 上の二つの段落を読み返してみましたら、論理的には、おかしかったです。第一文で、「同年代か、少し上くらいです」と断言した後に、やっぱ違うかも、という主旨のことを言って、でも、そのまま「少し上」のまま、次の段落に進んでいます。
 普段の生活の中で意識的には考えていないことを、整理せずに、ある意味ふらふらと書き連ねていくと、こういう記述になるんだなぁ、という気持ちです。感慨にふける、は少し言い過ぎかと思われますが、近いものがあります。
 旦那さんの答えは、具体的なセリフとしては、覚えていません。断片的になら、あるいは、その会話をしている時の感触なら、今もあります。朝の六時はまだ涼しい。これから昼に向かって暑くなる。昼、三十五度とかやろ? 笑っている。旦那さんは神戸出身だ。空気って、熱いところから冷たいとこに向かって流れてくやんか、ぁ逆か、冷たいところから熱いとこ、ん? 熱いとこから、あぁ、ま、今、海ん中だいたい、にじゅうぅぅー……六度くらいちゃうかな。それで時間経ってこっちが(と言いながら手を振り、我々のいる「陸」あるいは「山」を表している。鎌倉、特に稲村ガ崎や極楽寺あたりは小さな山が数えきれないほどたくさんあり、ある意味では強引に山の中に住宅を作って人が住んでいる。)アツなってくると、海から山に向かって風が出てくんねん。海に背を向けて話している旦那さんは両腕を左右に広げて、少し閉じ、また広げ、少し閉じ…を数回やって、話しながら体の動きでも風を表現した。片手だけでやっても風が出てくるとかその風の向きなんかは充分表現できるだろうが、おそらく旦那さんは海を眺めている時や、眺めて感じたことや感じていることをこうして話してくれている時にも、実際に海に入ってサーフィンをしている時にボードに乗って全身で風を感じていて、そういうのが、どちらかというととてもよい意味でいっしょくたになっていて、だから両腕を使って、つまり全身で表現してくれたーーと言葉にしたらずいぶん長くなってしまったが、こういうやりとりを私たち、というのは私と旦那さんの二人だけではなく、多くの人たちが、こういうやりとりを意識的になり無意識的になり、たぶん当たり前に行っている。
 私は話を聞きながら、旦那さんの感じている時間を感じて(ということだと思うが)、いろんな方向からいろんな風が吹いているイメージが浮かんでいた。一枚の絵に、たくさんの風が描かれている。私は数日前に自分で書いた「誰がどう書いたって、文章というのは時間が錯綜しているもんだ」という文章を書いたことを漠然と思い出して、「このやりとりはどう書かれるんだろうか」とか「そもそも書かれるのかどうか……」というのをこういうセリフとしては浮かべずに、なんとなくのそういう感触があることを感じていた。
 海の方に向き直っていた旦那さんがまたこちらを向いて、話を再開した。
 「ただ、温度だけなら海から山に向かってやけども、そもそもの風が、谷から海に吹く方が強いこともあるから、一概には言えんな。風が強いと、割れんねん。」
 手で掻き分けるような動きをして、波が割れる様子を伝えている。波が割れるとサーフィンはやりづらい。いかにもイヤそうな顔を作りながら、それも含めて全体として実に楽しげに話している。
 「まだ今六時くらいやけどもーー」
という言葉と共に、旦那さんの“時間を眺める視線” が再び遠くに伸びた。
「もうちょい、風あった方がええな。温度上がって、八時かぁ……まぁ八時くらいが、一番気持ちええんちゃうかな。」
 私も何か言葉は返していたが、覚えていない。旦那さんはまた海の方に向き直り、眺めている。私はおそらく旦那さんの話が聞きたいだけか、あるいは話している時の何かを感じたかっただけで、それで自分の発言を覚えていないのかもしれない。旦那さんが話すアシストになれば、なんでもいいーーそういう自覚はその時は全くなかったと思うが、ここまでを書いたり読んだりしている限りでは、そういうことだったんじゃないかな、という気がする。

 昨日、雄馬さんから連絡があったのは、『小説風日記』の編集についてでした。電子版のゲラが出来たので確認しよう、という主旨だったかと思います。
 私は相変わらず、と言ってしまいますが、相変わらず、小説というジャンルがわかりません。そう書くそばから、「自分で決めるもんだ、ってことかな……。」という気持ちがよぎりましたが、そうなのかもしれません。
 既存の有名な作品、『罪と罰』でも、『坊ちゃん』、でも、なんでもいいです。そういうものを、例えば、提示されたとして、「さぁ、これは小説でしょうか?」とクイズでも出されたら、そりゃあみなさん、私も、「へ? そうでしょ?」とキョトンとしたり、あるいは堂々と、「はい、小説です。」と答えると思います。
 しかし、しかしですよ。それは、「既存」、すなわち、すでにして現時点において、「これは小説です」という約束というか、共通理解というか、そういうものが、なされた後に、クイズを出されているのです。正解がすでに社会的、という言い方でいいと思うのですが、社会的に確立しています。
 では、広く“芸術” という言葉を持ち出してみると、社会的にすでに確立された範囲の中で何かを行う、これは“芸術” なんでしょうか。極端かもしれない、しかしそれほどは極端ではないかもしれない言い方をしますと、「社会的にすでに確立された範囲の中で何かを行う」は、うっかりすると、「すでにある価値観のコピペ」ともなりかねません。
 そう書きながら、私は昨日、雄馬さん、あるいは、『小説風日記』の伊藤雄馬氏と、語り手の賢が、作品内で、作家の橋本治さんの話をした、という話を書かせていただいたことを、思い出しました。昨日の記述を見てみましょう。

 執筆中のある日、雄馬さんと、これもラインでですが、印象的なやりとりがあります。私がその、私の自宅に雄馬さんを招き入れ、昼食を食べ、その食後の歓談のひとときを、私が書きました。たしか、橋本治さんという、作家の方について、二人で、といっても、ほとんど私が一方的に熱弁していたかもしれません。そんな場面を、その日から約一年が経とうとする頃に、書いていたわけです。一般的には、これも、先程申しました、「回想的に」「書く」、ということに、なる可能性もなくはないのかなぁ、と思います。

第4回「海を眺めて」

 これに続く記述もザッと読んでまいりましたが、橋本治さんについてはこれ以上は言及されずーーと書いたところで、「で、続きはどんなの書いてあったっけ?」と思い、もう一度戻って読んできました。そしたら、なんだか、小説の書き方というか、書いている時の気持ちだか状態だか、そんなことを延々と書いている様子でした。

 私は小説を書く時、その場面その場面の、イメージを、まず、作ります。“呼び寄せる” なんていう言い方をなさる小説家の方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。とにかく、ある光景、ある時間の感触や、“感触” という言葉から想起されるものよりももっとおぼつかないかもしれない、そういうものがあります。ハッキリ言ってしまいますが、それさえあれば、後はこっちのもんです。

第4回「海を眺めて」

 ずいぶん大きく出た発言に、驚いています。気持ちはわかりますが、でも、私はさっきの、海辺の駐車場でのやりとりを書く、あるいは描くのは、今書いているこのような文章や、引用してきた昨日の文章のようなものを書くのとは、なんだか、違うところもあるような気もします。現に、こっち、今書いているような文章は、ほとんど休みなく指が動きます。
 一方、描写は、といっても“描写” と“描写以外” の線引きも明確には私は出来ないと思っていますが、描写は、書くのに時間がかかります。途中でアスタリスクを打たずに会話の終わりまで通しましたが、執筆をしている私は実は途中でお昼休憩を挟んでいます。まぁ、ゆっくり書いている、あるいは、ゆっくりにならざるをえない、ということを言いたいわけですね。

 今、夕方の四時になりました。今日書かれたことの中にも、私が「小説ってなんだ?」をやっていく上で、大きなヒントがたくさんありそうです。買い物に行かねばなりませんので、今日はここで失礼いたします。では、また明日。

【同日21時20分・追記】
明日、もしかしたら、続きを書くかもしれません。

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