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並行書簡-21

 今日は、“技術”について書きたい、と思った。いつもは、何を書くのかわからないまま、書いている。それどころか、何を書くのかわからないから、書いている。今日も、何を書くのか、具体的には、わからない。しかし、“技術”について書きたい、そう思って、書き始めていることは、間違いない。
 私は、確かなものが、欲しいのかもしれない。見つけたい、と言ってもいい。あれはアテにならない、これもアテにならない、と言って、“消去法”を進め、さまざまなものを「うーん、違うなぁ。」と退けて、それでもなお残るもの、それは、“技術”ではないだろうか。
 私は先程、朝食を摂った。既製品の有機玄米餅を、上等の菜種油で揚げ、自家製の醤油麹をかけ、長ねぎを刻んで載せた。塩麹の、人参と長芋の漬物と共に平らげ、大変においしかった。私は、感動した。感謝した。ありがとう、みんな。
 私は、“揚げる”という調理法の発見者は、私ではないと、思っている。誰かが、それを、見つけてくださった。過剰な敬語だと思われるかもしれないが、私は、本当に、「見つけて“くださった”」と思っている。発祥がいつなのかわからないし、調べもしないが、それが、途方もない数の人たちによって、脈々と現代まで受け継がれ、私は、先程、“揚げる”ことができた。だから、「みんな」に対して、「ありがとう」と、心から思った。
 私は、これは、“技術”だと思っている。私は、“技術”を作り出す、とか、発明する、という言い回しが、あまり好きではない。というのも、私にとっては、“技術”とは、そもそも、“ある”ものだからだ。それを、人間が、後から、“見つける”のだ。「あぁ、こんな“技術”があったぞ!」「油を熱して、食材放り込んだら、めちゃうまくなったぞ!」
 それを最初にやった人物を、仮に、太郎さんとしよう。太郎さんが、“揚げる”を発見する以前は、他の人が、“揚げる”をやったとしても、“揚がら”なかったのだろうか。他の人が、油を熱して食材を放り込んでも、おいしく調理されなかったのだろうか。
 私は、太郎さんが、発見する前から、“揚げる”は、あったと思っている。太郎さんとは無関係に、もっと言えば、人間とは無関係に、“揚げる”は、あった。しかし、誰にも発見されずにいた。名付けられてもいなかった。言語化されていなかった。
 ある日、太郎なる人物が、油を熱し、そこに食材を放り込んだら、その食材が、おいしくなった。あぁ、うまい。こういうのも、いいなぁ。よし、オレは、この調理法を、“揚げる”と呼ぶとしよう。
 こうして、“揚げる”は、言語化されずに漠とした“海”の中を「漠とした“海”」として漂っていたところを、太郎によって、拾い上げられ、“揚げる”と呼ばれるようになった。
 もともと“ある”ものに、名前を付けると、“技術”になる。いや、違う。“なる”ではない。もともと“技術”であったものが、そこで初めて、“技術”として認知されるようになる。ということは、私が先程うっかり書いてしまった「名前を付けると、“技術”になる」は、人間都合の、ものの言い方だ。「だって、名前付けなきゃ、わかんないじゃん。」は、半分は正論、半分は甘ったれの泣き言だろう。
 名前を付けるのは、名前がないからだ。ということは、名前を付けることができているのだから、名前を付けられていない状態を認識できている。「名前、ないのか。よし、じゃあ、付けよう。」である。

 私は、前々から、“技術”が気になっていた。それは、ある人を好きになっているということが、他の者からは、一目瞭然なのだが、当人だけは、それがよくわかっていない、という状況に似ているかもしれない。「なんで、私は、あの人のことが、こんなに気になるんだろう。」「私、あの人のことが、好きなのかしら。いやぁ、まさか。」と言って、いつもいつも、「あの人」のことを、ずうっと気にしている。
 私は、どこかで、「あの人」を思いながら、こうも、思っているーー「あの人」は、もしかしたら、私と同じなんじゃないか。

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