元気にしているか、ヘム鉄よ
今までにまともに生活を営めた試しがない。
ないなりに、肉体のパフォーマンスを一定の水準まで持っていくために何が必要なのかを把握してはいる。早寝早起き(に準じた適切な睡眠)、バランスの良い食事、適度な運動、ストレス管理……
しかし、ガキの頃から創作に傾倒しているために生活がめちゃくちゃな人間が、よしやるぞと急に「正しい」生活が送れるようになるわけもない。
ままならない肉体をかかえて今日まで生きてきたが、つい先日、中学生の時に所属していた部活動にいたやつのことを思い出した。そいつは、ヘム鉄を飲んでいた。
*
部室は所謂「視聴覚室」で、一般的な教室より少しばかり広さがあった。教室の後方にはガラスで隔てられた音響設備が備え付けられたブースがある。
私は主に脚本と演出を担当しており、その日は脚本の読み合わせの日だった。午前9時の集合、寝ずに執筆を終え、家のプリンターで印刷しホチキス留めした紙の束を部員に手渡す。
各々、ページをめくりだす。
そんな中、カチャカチャと音を立てて蛍光ペンを取り出したるは件の人物だ。さっそく自分のセリフが書かれている箇所にまず蛍光ペンを入れ始めたそいつ……仮に名前を「ヘム鉄」としよう。
ヘム鉄はちゃっちゃと黄色い線を引いていく。品行方正、真面目、実直……そんな言葉が似合うやつだった。しかし特別堅い人間というわけではなく、時々おどけてみせる時もあった。
軽く読み合わせをしながらセリフのニュアンスの指示をする。自分が考えたセリフを他人が喋る、こんなに愉快なことはない。この読み合わせこそが、部活動をやっていた中で一番好きな瞬間だったかもしれない。
*
その日の部活を終え帰りの支度をしていると、ヘム鉄はカバンから小さな袋を取り出した。
私はその時、人生で初めて「ヘム鉄」という文字を目にした。
鉄は分かる。ヘムってなんだよ。咄嗟に口から出る。
「何それ?」
ヘム鉄はこう答えた。
「サプリだよ」
サプリかぁ、それって大人が飲むもんだと思ってたけどな。
そうでもないんかな。
「サプリって大人が飲むモンじゃないの?」
「お母さんがあんたは貧血気味だから飲みなさいって」
「へー」
こんな流れの会話をしたと思う。
*
なぜヘム鉄のことを思い出したか。
それはTwitterのタイムラインでヘム鉄という文字を見かけたからに他ならない。ヘム鉄は元気にしているだろうか。ヘム鉄は今もヘム鉄を飲んでいるんだろうか。確かめる術はない。
会社からの帰り道にあるドラッグストアに立ち寄り、ヘム鉄を一袋買う。ヘム鉄よ、お前が私のことを思い出すかはわからないけれども、私はお前を思い出してヘム鉄を買ったぞ。ヘム鉄、元気にしているのかい、ヘム鉄。
*
というわけで、昨日からヘム鉄を飲みはじめた。
インターネットで少し調べたところ、サプリというのは継続することで効果が見込めるものらしい。しかし、これはどうしたことだろう。朝起きた瞬間から大きな違いを感じた。普段は朝起きると体がだるく、常にまぶたに重石が乗ったようだったが、今朝はそれがない。
もしかして、私は鉄不足だったんだろうか?サプリというのは、これほどまでに速攻で効果が出るものなのだろうか?とりあえずヘム鉄一袋(60日分)を継続して摂取し、体調の様子を記録していこうと思う。人体実験の開始日として昨日の日付を制定する。2022年5月24日、ヘム鉄のことを思い出したからヘム鉄記念日。
あの毎朝の体のだるさが免除となるならば、サプリメントなど安いものだ。バランスの良い食事がとれない以上は、このようにして肉体のチューニングを行う必要があるのだろう。きっと肉体ってのは永遠にままならないんだろうな。それで、大人になってなんとなく自分の肉体のことがわかってきたのに、老化でまた不調が出だして……なんて面倒くさいんでしょうね、ムカつきますよ本当に。ならば一体全体何が自分の思い通りになるというんだ。
で、それを考えた時、何かを面白いとか、楽しいとか、悲しい苦しいムカつくとか思うときの自分の感情は思った通りに作用しているなあとは思うけれども。もはやそれしか思った通りになっているものなんてのはないんだよな。なあ、ヘム鉄よ。
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