祈りとはなにか? 欲求の持続性について

祈りとは

 祈るってなんだろう?欲することや望むこととはどう違うのか?

 あるモノを欲求するとき、その思いや行動の強さに応じて表現が変わってくる。例えば…
・「〇〇がほしい!」と欲する
・「〇〇があったらいいな」と望む
・「〇〇が手に入ってくるように」と祈る
 この場合どの言葉でも対象のモノを求めているが、そこから想像される欲求実現に向けての具体的な行動の強さや多さが異なり、その順番は欲する→望む→祈るになるだろう。

 例えば、「お金を欲する」ならその行動は働いたり賭博をする。「お金があったらいいなと望む」ならお金が入ったときのことを夢想してネットで儲け話を探す。「お金が入ってくるようにと祈る」なら手を合わせて神様や運命がどうにかしてくれることイメージする、といった具合になる。

祈りの働き

 祈りは神様や運命まかせであり、自分から何も具体的な行動を起こさない。そういった他人任せで主体的でない行動は、科学により何ごとにも因果関係がはっきりしてきた現代においてネガティブなイメージで捉えられることが多いだろう。それでは祈ることは悪いことでしかないのだろうか?
 私は悪いことばかりではないと考えている。なぜなら具体的行動を起こす欲することに比べて、祈りなら挫折がなくその思いを長くずっと抱き続けることができるからだ。
 欲求のために具体的な行動を起こすがその実現性が不確実性の高いもの(例えば人的資本なら努力と呼ばれ、金融資本なら投資とよばれたりする)であり結果として叶わなかったとき、人は挫折してさらにそれを欲求すること自体を止めてしまう。実現が難しい叶わない事柄への欲求を抱き続けることは現実とのギャップからくる認知不協和が発生しやすく、その不快に耐えきれず欲求自体を捨ててしまいがちだ。イソップ寓話からくる「酸っぱい葡萄」(狙った葡萄が手に入らない狐が、「葡萄は酸っぱくて不味いに違いない」と合理化して思い込む)などがその典型だろう。
 具体的な行動が強く多いほど叶わなかったときにそのモノを欲求し続けることが難しくなる。対して祈りは行動を起こさないことで認知不協和を最小限に抑えて欲求を長期持続可能にさせている。その欲求を捨てずに抱き続けることが出来る。その点から祈りは欲求の省エネ持久モードと言える。

努力を祈りへ換えていく

 以上のことから、実現が難しいこと時間がかかることほど欲する(努力する)より祈るスタイルの方が良いと思う。しかし、いくら長い間手を合わし目をつぶっていいても、それだけでは叶わないことは叶わない。マッチョになりたいと10年間手を合わせていたとしても筋骨隆々になることはないだろう。実際問題、筋肉を付けるには運動や筋トレといった具体的行動が必要になる。であるから欲求の対象と具体的行動を祈りのスタイルに合わせた形に変換する必要がある。

 祈りへの変換ついては2点
・欲求対象の変換:欲するモノを抽象化、概念化してそれに対する貢献を目的にする。(目的を「自分がマッチョであること」から、「筋トレという行動を通じて筋肉の神様へ奉仕すること」に変える)
・行動の定型化:必要な行動を出来るだけ判断の伴わない定型作業にすることで行動の心理的な部分を少なくする。(何曜日何時どんな筋トレをするか決めておき、「ただ決まった動作をこなす」くらいの意識で行う)

 
これらを変えて日々の祈りにしていくことで、長い時間をかけて欲求を実現していくことが出来るのではないだろうか。

 祈りましょう。

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