パンデミックをもたらした「D614G変異」

<第11回>

 SARS-CoV-2は変異しつづけている。初期に採取されたPANGO系統分類のA系統(A株)とB系統(B株)のうち、その後世界的に広がったのはB株だった。2020年のはじめ、そのB株からB.1株が派生する。はっきりとはわかっていないが、出現時期は1月はじめと考えられており、おそらく中国国内で出現して、それが旅行者とともにヨーロッパにもたらされた。イタリアでは、2020年2月から3月にかけて北部のロンバルディア州や隣接するエミリア・ロマーニャ州を中心に爆発的な感染拡大を引き起こし、ヨーロッパにおける感染流行の中心となってしまったが、それはB.1株によるものだった。B.1株はヨーロッパ中に、さらにアメリカ大陸などに広がり(アメリカでのB.1株の拡大はニューヨークが起点だったことがわかっている)、4月にはオリジナルのB株を押しのけて世界で感染の主流になった。

 RNAの2万3403番めの塩基は初期のB株ではアデニンだが、これがB.1株ではグアニンに置き換わっている。これが翻訳されると、614番めのアミノ酸がアスパラギン酸(D)からグリシン(G)に置き換わることになる[1]。それでこの変異はD614Gと呼ばれるのだが、このD→G置換の位置は、SARS-CoV-2が細胞に侵入するとき重要な役割を果たす、スパイクタンパク質を発現する部分である。さらに細かくみると、スパイクタンパク質のなかでも、先端部分(S1)の受容体結合ドメイン(RBD)の外側にあって、軸部分であるS2と水素結合をもつアミノ酸である[2]

 この変異は、2020年1月末に、中国とドイツから報告された。国際的な感染性ウイルスのゲノムデータベースであるGISAIDに登録されたSARS-CoV-2のデータを分析すると、B.1=D614G変異株は、2020年1月下旬から2月中旬にかけて出現頻度が高まり、いったん低下するが2月下旬から急増、6月下旬には世界中で流行するほぼすべてのウイルスがD614G変異株となった。これは何を意味するのか。アミノ酸の置換によってスパイクタンパク質の性質が変化し、おそらくそれが有利に働いたのだ。

 2020年2月に北イタリアで感染が急拡大した際には、それ以前の中国での流行と比較して、感染力と死亡率が際立って高いことが注目を集めた。当時は現地の高齢者比率が高いことや生活習慣などが取沙汰されたものの、はっきりとした理由はわからなかった。しかし、このとき出回っていたのがB.1株であることから、B.1株のもつ変異が高い感染力と死亡率をもたらした可能性がある。

 実際B.1株はそれ以前のB株に比べて感染力が高いことが、さまざまな研究からわかっている。同時に、B.1株は上部気道(鼻腔やのど)に感染し、そこで多くのウイルス粒子を排出するという[3]。低温電子顕微鏡法による観察からは、B.1株の受容体結合ドメイン(RBD)がより開いた状態をとることが多いとわかった[4]。アスパラギン酸からグリシンへの置換によって、水素結合の位置が変わったことが理由と思われる。それによってホスト細胞の受容体(ヒトACE2)に結合しやすくなっているとされる。また、培養細胞や動物を用いた実験ではB.1株がより効率よく複製できることも報告されている[5]。ただしこの変異は、COVID-19の重症化率や死亡率に変化をもたらしてはいない、という。

 一方で、顕著な臨床像の変化もあった。最大の特徴は嗅覚や味覚の異常・喪失である。既述のように、日本では、2020年3月下旬に当時プロ野球阪神タイガースに所属していた藤浪晋太郎投手ら3選手のSARS-CoV-2陽性が発覚、日本のプロ野球界初の感染確認と報道された。このとき、藤浪選手がにおいを感じなかった(他の2選手は味覚に異常があった)ことから、COVID-19の初期症状として嗅覚や味覚に異常が出ることがクローズアップされた。しかし、それまで嗅覚や味覚の異常についての報告はほとんどなかったのだ。日本ではこのころB.1株がB株を置き換えつつあった。

 感染流行の初期、インドを中心とする南アジアには、2020年1月末にまず東南アジアや中東からB株(D614)が侵入、その後ヨーロッパやアメリカからB.1株(G614)が入ってきて、時間とともにD614からG614に置き換わり、5月から6月にかけてほとんどの地域でG614が優勢となった。ただ、その状況は地域によって異なり、北部の大都市デリーや南インドでは5月にもD614が優勢だった。

 南インドで両者が共存していたこの時期に注目して、アメリカ・ネヴァダ大学などの研究グループはウイルスの変異と感染者の嗅覚異常症例との関連を調べるために、既存の論文や報告を解析した。その結果、D614が優勢だった地域では、感染者に嗅覚異常があったのは5.33%だったのに対し、G614が優勢だった地域では、31.8%と増大した[6]

 研究グループは、B.1株が嗅覚異常をもたらす理由にその感染力と増殖力の高さを挙げている。B.1株はB株に比べて、嗅覚細胞のある上部気道で高いウイルス濃度を示す。一方、SARS-CoV-2の受容体であるACE2は、嗅覚細胞にはあまり多くない。しかし、ウイルス濃度が高ければ、嗅覚細胞にウイルスが感染するチャンスがふえ、ダメージを受けやすくなる、というわけだ。

 ただそれは、一時的に嗅覚に異常をきたす説明にはなっても、回復しウイルスが消えてからもなおつづく嗅覚異常を説明できない。その後、フランスのパスツール研究所などのグループが、SARS-CoV-2が嗅覚細胞だけでなく、嗅神経から脳の嗅覚中枢にも感染することを明らかにしている[7]。またや、アメリカのニューヨーク大学などのグループは、嗅神経の激しい炎症反応が、嗅覚異常をもたらすメカニズムを発表している[8]。嗅神経や嗅覚中枢のダメージが、嗅覚異常を引き伸ばしている可能性がある。

 ともあれ、B.1株は2020年春から夏にかけて世界中に広がり、まさにパンデミックを引き起こした変異株となったのである。そればかりでなく、その過程でさらに変異を重ねていった。そのなかから、さらに強力な(感染力と増殖力の強い)変異株を生み出した。まず、2020年9月イギリスでB.1.1.7という変異株への感染者が確認され、12月から翌年はじめにかけて感染者数が急増、その後ヨーロッパと北米を中心に世界的流行を引き起こした。ピークは地域によって異なるが、2021年2月〜5月にかけてで、7月にはほぼ波は収まった。そのかん、各国はロックダウンや海外からの入国禁止、飲食店の閉鎖、旅行や外出の制限などの強い措置を導入、社会生活や経済に大きな影響を与えた。この変異株は、スパイクタンパク質のRBDにあたる位置にN501Yというアミノ酸置換をもつ。感染力ばかりでなく、重症化率や死亡率もこれまでより高いとされた。

 2020年5月に南アフリカで出現したB.1.351は、N501Yのほか2か所のアミノ酸置換(K417N、E484K)をともなっている。こちらはアフリカを中心に2020年秋から2021年夏ごろまで流行した。一方、ブラジルで2020年11月に出現したと考えられるB.1.1.28.1は、2021年1月に日本で初めて検出された。感染者は1月2日にブラジル北東部に位置するアマゾナス州マナウスから帰国していた。アマゾナス州では州都マナウスを中心にCOVID-19が感染爆発、この原因変異株がB.1.1.28.1だった。B.1.1.28.1は、スパイクタンパク質にN501YのほかK417T、E484Kの変異をもつ。ブラジルを中心に、中南米で2020年12月〜2021年秋にかけて流行をもたらした。

 世界保健機関(WHO)は、感染状況や病状に変化をもたらすおそれのある変異株を世界的変異株(global variant)として「懸念変異株(VOC)」、「注目変異株(VOI)」に指定して各国に注意を喚起した。これらの変異株は当初、「イギリス株」、「南アフリカ株」など最初に検出されたあるいは流行した国や地域名をつけて呼ばれたが、WHOは2021年5月に、これらの変異株にギリシャ文字の名称を使用することを決定した。B.1.1.7イギリス株はアルファ変異株、B.1.351南アフリカ株はベータ変異株、B.1.1.28ブラジル株はガンマ変異株と呼ばれることになった(表)。

表 大きな流行を引き起こした懸念変異株(VOC)

 2020年10月にインドで出現したとされ、B.1.1.7と入れ替わるように2021年春ごろから世界各地で大流行を引き起こしたのが、B.1.617.2=デルタ変異株である。日本では1年延期され、緊急事態宣言下で開催された東京オリンピック期間を含む、7月〜9月の「第5波」をもたらした。スパイクタンパク質に、T478K、L452R、P681Rというアミノ酸置換をもつ。T478K、L452Rは受容体に結合する位置(RBM)にある。

 デルタ変異株は、つぎに出現したB.1.1.529=オミクロン変異株によって置き換えられた。オミクロン変異株は、2021年11月に南アフリカなどアフリカ南部で出現したとされ、これまでの変異株を凌ぐ感染力をもっていた。そして、BA.1、BA.2、BA.4、XBBなどの強力な亜系統を次々生み出しながら世界中に拡大し、くりかえし感染の波を起こした。

 嗅覚異常に話をもどすと、イタリアの研究グループがB.1株、アルファ・デルタ・オミクロン各変異株の感染者に嗅覚異常があったかどうかを調べたところ、B.1株感染者では72.4%、アルファ変異株感染者では75.4%、デルタ変異株感染者では65.6%だったのに対し、オミクロン変異株感染者では18.1%と低かったと報告している[9]。オミクロン変異株の登場で、このウイルスはまた性質を変えたようにみえる。<つづく>


[1] Bette Korber et al.:Tracking Changes in SARS-CoV-2 Spike: Evidence that D614G Increases Infectivity of the COVID-19 Virus. Cell, 182(4),2020

[2] Leonid Yurkovetskiy et al.:Structural and Functional Analysis of the D614G SARS-CoV-2 Spike Protein Variant, Cell, 183(3), 2020

[3] Bette Korber et al.:Tracking Changes in SARS-CoV-2 Spike: Evidence that D614G Increases Infectivity of the COVID-19 Virus. Cell, 182(4),2020

[4] Donald J. Benton et al.:The effect of the D614G substitution on the structure of the spike glycoprotein of SARS-CoV-2, PNAS, 118(9), 2021

[5] Jessica A. Plante et al.:Spike mutation D614G alters SARS-CoV-2 fitness, Nature, 592(7852), 2021

[6] Christopher S. von Bartheld et al.:The D614G Virus Mutation Enhances Anosmia in COVID-19 Patients: Evidence from a Systematic Review and Meta-analysis of Studies from South Asia, ACS Chemical Nueroscience, 12(19), 2021

[7] Guilherme Dias de Melo et al.:COVID-19–related anosmia is associated with viral persistence and inflammation in human olfactory epithelium and brain infection in hamsters, Science Translational Medicine, 13(596), 2021

[8] Marianna Zazhytska et al.:Non-cell-autonomous disruption of nuclear architecture as a potential cause of COVID-19-induced anosmia, Cell, 185(6), 2022

[9] Luigi Angelo Vaira et al.:Prevalence of olfactory dysfunction in D614G, alpha, delta and omicron waves: a psychophysical case-control study, Rhinology, 61(1), 2023

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