「言葉にできない」のうそほんと

 文化。私にとってのそれは読書である。最近、漫画『進撃の巨人』をようやく読み終えたのだが、その中でアルミンというキャラクターが「雨の日に部屋で本を読んでいるとき、生きていて良かったと感じる」みたいなことを言っていた。古いネットスラングで言うところの「禿同」というやつである。正確に言えばアルミン、雨の日じゃなくても部屋じゃなくても同じように感じなさいとは思うが、まあ良いだろう。激しく同意。
 さて、私は「文芸批評」と呼ばれるジャンルを好んで読む。例えば小説世界の設定をひとつひとつ細かく解説してくれるものや、小説の作者自身も意識していないような作品の「無意識」を取り出すようなものや、作品内と作品外の世界観をすり合わせたり結びつけたりしながら、なにか別の論理を構築しようとするものや、「文芸批評」と名乗っているだけで単に自らの思弁をひたすらに垂れ流しているものなど、一口に文芸批評と言ってもそこにはさまざまな形態がある。
 いずれにしても、ある作品について何かベラベラと語っている文章を読むのが好きである。おいおい、俺が読んでもぜんぜんこんなふうに思いませんけど???こいつの読む力やべ~~となりたいのである。これは余談だが、おそらく私は「書く力」よりも「読む力」が高い人に興味があるのだと思う。だって「読む力」の高い低いを判断する基準が謎だから。にもかかわらず私は現実に誰かの「読む力」の高い低いを判断してしまっているから。基準がないのに判断してしまっている。これは大変なことだ。だから興味があるのだと思う。
 
 本を読み始めたのは18歳くらいの時。じゃあ私はそれまでの人生でいっさい文化に触れてこなかったのかと言えば、いやいやそんなことはない。私の人生の前半における2大最強文化は尾崎豊とBLEACHである。この2つから私は、日本語の高級な言いまわしや表現のあり方を学んだ。
 「真実なんてそれは共同条理の原理の嘘」(LOVE WAY)「さかりのついた獣のように街はとてもDangerous」(Scrambling Rock'n' Roll)「恨みはない だが平和のためには消すもやむなし 卍解 鈴虫終式 閻魔蟋蟀」(東仙 要)「花風紊れて花神啼き 天風紊れて天魔嗤う 花天狂骨」(京楽 春水)…などなど、無限に涌き出てくる美しい日本語の数々。当時の私はこれらの言葉の意味するところが何なのかを、熱心に解読しようとしたものである。…というのは嘘である。
 いや、尾崎豊とBLEACHをこよなく愛していたし今も愛しているとうのは嘘ではない。尾崎豊の歌は9割がた歌えるし(すこし記憶が怪しいものもある!)BLEACHも護廷13隊の隊長副隊長のフルネームと斬魄刀の名前と改号くらいならすべてそらで言える(なにをいってるかわからないと思うが!)。それくらいには好きである。
 だが当時の私は別に、それらの音楽や歌詞や世界観や台詞の意味について考えることはなかった。とにかくなんかすげーー!!だったのであり、とにかく全部覚えたるでーー!!だったのである。端的に言うと、私は激しく心を動かされていたのである。尾崎豊の歌を聞いたり、BLEACHの台詞回しを見たりする度に、現実の人間との関わりがすべてどうでも良いものであると感じられた。この興奮を上回るものに、現世ではどうせ出会えるはずがないと思っていたから。
 だから私は今でも尾崎豊やBLEACHについて「分析的に」語ろうとする人に対して違和感を覚える。それらの溢れんばかりの豊穣な魅力をすべて、言語の一列な薄っぺらさに変換しようとする人に対して、「それにはいったいどういう意味があるの?」と思ってしまう。なにをそんなにペラペラと語る必要があるのか。尾崎豊をただ聞き、BLEACHをただ読む。それで十分ではないか。そこでの天変地異の経験、激しく感情を揺さぶられる経験。以上。そうではないか?
 
 もともと私には、好きな作品を分析する言葉など必要なかった。しかし私はいつからか、好きな作品を分析する文章を好んで読むようになった。何が起きたのだろう。「とにかくすげー!!」の力を、私は失ってしまったのだろうか。その空っぽさを埋めるようにして、他人の言葉が大量に必要とされたのだろうか。
 いや、どうだろう。ひょっとすると私はどこか心の中で「とにかくすげー!!」のようなものの貧しさから抜け出したいと思っているのかもしれない。「言葉にできないもの」に対するうっすらとした疑いがあるのかもしれない。「言葉にできない」作品の魅力とは「言葉にしようとしない」私たちの怠慢がもたらす「嘘」なのではないか?

 文化の語られ方はさまざまである。あいまいな世界の体験を言葉や記号などの「かたち」にしてやる営みが文化である。しかし他方で、そういう「かたち」にならないものに対する高い感受性が「文化」的な態度であるとも言われる。では文芸批評を読んで作品の多角的な読み方を獲得する私も、尾崎豊を聞いてBLEACHを読んで、唯一絶対の「とにかくすげー!!」を感じる私も、どちらも「文化」を楽しんでいると言えるのだろうか?前者において私は小説世界の複雑な体験を何らかの「かたち」へと作り直す方法を学ぶ。後者において私はそもそも「かたち」にならないしする必要もない十全な世界体験を全身で味わう。どちらも文化的なのか?あるいは、どちらも文化的でないのか?

 「言葉にならないもの」への疑いがある。「言葉にならない」と私が感じるのは、単純に私の語彙力や知識や経験や表現力が足りないからだと思っている。
 他方で、「言葉にならないもの」はこの世界に確実にあるし、それらの体験は私たちにとって決定的に重要なものであるとも思っている。
 私が大切に思うものをいちいち言葉にする人にたいして「それは野暮や」とか「そんな簡単に言葉にできるものじゃない」と反射的に言ってしまう前に、私自身の言語化への努力不足を、まずは反省してみるのも良い。一度でも私は、それを真剣に言葉にしようとしただろうか?そのぐらいのことを、ほんの少しだけ考えてみても良い。
 「言葉にできるもの」と「言葉にできないもの」の境界線を正しく見極めるために、「言葉にできる」ことへの楽観主義を手放すことがあってはならない。その上で自分にとってほんとうに、ほんとうに言葉にできないものの輪郭をなんとか掴んで、そのあとそれらを生涯、大切にしながら生きていけばよい。私はそう思う。

 


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