隠喩としてのごはん

 職場の昼休憩は1人で本を読んでいたい。かつてはそれが許されていた。感染予防とかなんとかで、昼ご飯中は誰とも喋ってはならない。なので、各人自分のスマホだけを見ながら、黙々とごはんを食べることが日常化していた。そのとき私はスマホを見るのではなく、本を読んでいた。
 今はそれが許されない。昼休憩に行くとだいたい誰かがいて、向かい合って何かについて、喋っている。そのとき必ずしもみなさんが楽しそうに喋っているわけではないのだが、かといってそこに参加しないわけにもいかない。自らの社交性の無さを恥じつつ、しかしひょっとするとみなさんも、私と同じような気持ちを抱えながらその場を耐え忍んでいるのかもしれないと思うと、とたんに人間のめんどくささに対する、興味と愛着の情が、わいてくる。
 とある日の仕事終わりに、なんか今日ちょっと嫌なことがあったから、仲の良い友人に話を聞いてもらおうーと思い、連絡をする。「突然ごめん!今日ちょっと話聞いてほしくてさーごはんでも食べいきませんか(*_*)」と。
 連絡した当時は何も思わなかったのだが、いま1人で冷静に、その連絡の中身を見てみると、そこにも人間のめんどくささが、隠されているのではないかという疑問が、頭をもたげ始める。
 その人に話を聞いてもらいたいだけなのだから、その人に話を聞いてほしいとだけ言えば良いのに、どうしてついでのように、当然のように、その人と一緒に、ごはんを食べに行こうなどと言ってしまっているのか。私たち人間にとって、「誰かと一緒にごはんを食べること」とは、いったい何を意味しているのか。 

 人類学者の山極寿一さんという人が、とあるシンポジウムの講演録で「ふつう野生動物は食事を隠し、性交を公開するのに対し、人間はむしろご飯を公開し、性交は隠す」という趣旨のことを述べていた(『<こころ>はどこから来て、どこへ行くのか』)。
 山極さんは、みんなでごはんを食べることが人間特有の「共感性」ひいては「社会性」の基礎なのであり、いまの「孤食」文化が進行する社会においては、そのような「人間的」なものを蝕んでしまう可能性がある、ということを危惧していた。
 そういう分析がどれほど正しいのか、私にはよく分からない。分からないが、たま~にその、山極さんの文章を思い出すことがある。職場の人と、友達と、家族と、ごはんを食べている時に。というより、その前後に。俺はその誰かと話がしたかっただけなけなのでは?俺の口から出る「おいしい」は、誰かと一緒にいて「楽しい」の、副産物でしかないのでは?「おいしくない」も「楽しくない」の、副産物、、、?

 その点「自炊はあくまでも自分のためにするものだ」という問題提起は、「自炊をふくめたごはんはみんなで食べるものだ」というイデオロギーに片足をちょぴっとだけ浸けてしまっている私のような人間に、さまざまなことを考えさせるためのきっかけとなった。
 私はあまり自炊をしないが、いざ自炊をする時は、誰かに食べてもらう時が多いように思う。誰かをうちに呼んだり、反対に誰かの家に行くときに、なんとなく家でごはんを食べるのなら何かつくったほうが良い?という軽薄な気持ちから、インターネットのレシピを見ながら、グダグダなテンションで自炊をすることが多い。それのどのへんが「自炊」なのかは、確かに考え出すと謎ではあるのだけど、、、。
 誰かと一緒に楽しいごはんを食べるのならそれは自炊によるごはんで、という思いをただちに否定するべきではないと思うが、そういう身勝手さの矢印が自分から相手にではなく、相手から自分へと伸びるときにそれは「お前は料理もろくにつくれないのか」という理不尽な他責へと、変わってしまうのかもしれない。
 そこにはむろん、ジェンダーの問題も絡んでくるのだろう。「私の付き合ってる人、私より料理上手いからムカつく」のような声を聞いたことがある。逆に「俺の付き合ってる人、俺より年収高いからムカつく」のような声も、聞いたことがある。いずれにしても料理や仕事を、自分の生活の中だけで完結させるのではなくて、常に誰かとの比較の中で漂い続ける不安定な「特技」としてしか、捉えることができていない。
 私たち人間が社会の中で、人との交わりの中で生きていく以上、そういった比較や相対性はある程度仕方のないことだと思いつつも、しかし、もし純粋な「自分のためのもの」をほんとうに持っている人がいるのだとすれば、その人の人生は、とても豊かなものであるに違いない、とも思う。

 高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』という小説がある。物語における登場人物の類型化は、ほとんどの場合行き過ぎており、分かりやすさと面白さのために現実味を犠牲にしているような印象を受けることが多いが、この小説の登場人物の類型化は、ぞわっとするほどに身近で、リアルなものであると感じる。
 この小説の登場人物はその全員がことごとく、自分自身を大切にすることに失敗している。自分のために、ごはんをつくることができていない。食べることができていない。その、類型化された3人。
 1人はバリバリ仕事ができるけど、家に帰ったらいつもコンビニ弁当かカップヌードルしか食べない人。世の中が言う「自分のために自炊をしなさい」は、彼にとって鬱陶しいものでしかない。彼は仕事が忙しく、帰ってから寝るまでが、せいぜい2時間程度しかない。そんななかで自炊なんかしていたら、自分が何のために生きているのかが、分からなくなってくる。
 「帰って寝るまで、残された時間は2時間もない、そのうちの1時間を飯に使って、残りの1時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれの生きている時間は30分ぽっちしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう」。
 1人は仕事があまりできず頻繁に早退をするが、それでもいつも帰ってから自炊をしている人。そしてそこでつくったご飯やデザートを、自分のためではなくむしろ他人のために、ふるまおうとする。食事中も常に美味しそうにごはんを食べている。同僚から「食べるのが好きなんですね」と尋ねられ、答える。
 「食べるのが好き……っていうか、どうなんでしょう。よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。食べるとか寝るとか、好きか嫌いか以前に必須じゃないですか。生きるのに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思うから」。
 3人目はさっきの2人と比べて、単純な言葉では表しづらい。ただ1つ言えるのは、彼女はさっきの2人のあいだにはさまれ、その2人の両方ともに、振り回され続けている、ということ。私は個人的に、この3人目が一番好きだった。
 「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。誰かと食べるごはんより、1人で食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで。力強く生きていくために、みんなで食べるごはんがおいしいって感じる能力は、必要でない気がして」。
 ここで言われる「昔、多分持っていたもの」とは、いったい何のことなのだろう。

 私の思うに、いま、私たちのそれぞれは、「誰かのために」と「自分のために」のあいだで、引き裂かれている存在のことではないだろうか。誰かのための料理と自分のための料理、誰かと一緒に食べるごはんと、自分1人だけで食べるごはん。そのあいだの引き裂かれ方の類型化は、べつに、3つだけではないはずだ。
 山極さんの言うことが正しいのなら、私たち人間はもともと、誰かのために料理をつくっていたし、誰かと一緒にごはんを食べていた。その習慣は私たちの「共感性」や「社会性」を育んできた。
 けれども私たちの社会ではよくもわるくも、かつての「人間社会の当たり前」が変わろうとしている。そこに個人の自由の兆しを見る人もいれば、共同体の崩壊の音を聞く人も、いるのだろう。
 私としては前者、つまり個人の自由の兆しのほうを見たいし、喜びたいと思う。人類の歴史において「共感性」や「社会性」はさまざまに悪用され、個々人を虐げてきた。そういうがんじがらめから抜け出し、「私のため」の主張を可能にするような流れは、これからも加速していくだろうと思うし、加速していくべきだとも思う。
 問題は、かくして自由を得た個々人が、自分の機嫌を自分だけでとることの、思った以上の難しさである。少なくともいまの私たちには、かつての「共感力」や「社会性」のなごりがある。いくら私のために、自分自身のために、と思っていても、それを半ば自動的に、共感性や社会性の基準に、照らし合わせようとしてしまう。この私の選択って間違っていないかな?という疑問をさまざまな他者に、執拗に、確認しようとしてしまう。その結果、人なんて結局は共感性や社会性からは逃れられないのだから、そもそもの自分のために、とか、個人の自由、とかの考え方のほうに、無理があったのではないか?というタイプの意見が、出てくる。
 私も、いくら本は1人で読みたいとかって思っていたって、ほんとに面白い本と出会ったらその中身を誰かと共有したいとワクワクしてしまうし、というかこの「脱社会的読書会」を含め、何個かの読書会に参加してしまっているわけだし。読書会とは、1人で本を読む行為の、正反対とは言わないが、かなり遠くに位置するものなのではないかと思う。
 読書会で読む本というのは、その中身について最初から「誰かと話すことありき」で、読んでいく本のことだ。それとは別に、純粋な「自分のため」だけに、読んでいく本がある。「本を読む行為」をどちらか1つのあり方に限定しようとするのではなくて、どっちもあって良いではないかと、考えるようにしている。
 しかし「自炊」については、「純粋な自分のための自炊」がどういうものなのか、よくわかっていない。私1人で、自分のためにごはんをつくり、自分のために、おいしいごはんを食べられるようになりたい。とりあえずそのようには、思えるようになった。


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