存在しない主体のデザイン

 ちょうど1年前、私は職場で「ライフプランナー」、通称「LP」と呼ばれる業務を担当していた。「ファイナンシャルプランナー」、通称「FP」と呼ばれる資格試験の2級に、わりと早めに合格したことから、たったそれだけのことから、「コイツにはライフプランナーの適性がある」と当時の上司に判断され、任されるに至った。人手不足とは、かくも恐ろしいものなのだと思った。
 私には、たとえ実感としてまったく理解できないことであっても、それをたんなる知識として淡々と覚えていけるという長所(?)がある。だから「FP」の参考書を読んだり問題集を解いている間も、そこに書かれてある内容と自分の人生経験や価値観とが結びつくことはなかった。「どうやらそういうものらしい」という徹底的な無気力感とともに、それ相応の形式的な、脱け殻のような知識だけが増えていった。
 だいたい、私自身のこれまでを振り返ってみて思うのは、私の人生はそういう「ライフプラン」みたいな発想とは、およそ程遠いものであったということだ。そしてこれからも、そうなのではないかと思う。
 いちおう断っておけば、人生を計画的に生きることそれ自体を否定したいわけではない。たんに私はそういうことを苦手としており、そのことを強く自覚しているにもかかわらず、たとえ「仕事として」だったとしても、そういう人間が数ヵ月の間、ひとさまに「ライフプラン」を偉そうに説いてしまっていたというその驚くべき事実に、いまの私は顔を赤めてしまうことがある、というだけのことだ。恥の多い期間を過ごしてしまいました。
 その上で、つまり「人生を計画的に生きること」それ自体を否定したいのではなく、たんに自分がそれを苦手にしているという個人的な偏りを前提とした上で、それでもやはり「人生を計画的に生きること」の考え方に対しては、1つの疑問を抱いてしまう。その疑問とは、ライフプランナーが提示する「理想のライフプラン」を生きる主体などというものは私たちの現実の、どこにも存在していないのではないか?というものである。

 相手のさまざまな個人情報を聴取した後で、「お客様のような方であればこのようなライフプランが『一般的』であるかと考えられます」、などと言って資料を見せる。ここで言う「個人情報」とはむろん「統計的な属性」に過ぎない。ほんとうの意味での個人情報、つまり「他の誰にも当てはまらない唯一無二の個性」が聴取されることはない。むしろそんなものはノイズでしかない。
 年齢は30歳、既婚者、子どもが2人、現時点の年収は500万、勤めている会社は○○、ご両親のご年齢は…などと大量の情報を聴取した後で、それらと同じ属性を持つ多くの人たちから割り出される「理想の人生プラン」。しかし、そんな人生を具体的に送っている個人が本当にいるのかどうか。そんなことは、少なくとも当時の私にとって「あずかり知らない」ことであった。
 「ふつうってなんのこと?だれのこと?」というたびたび話題になるテーマのことを思い出す。だいたい「結局ふつうの人なんていないよね」みたいな結論に落ち着く。そう、「ふつうの人」なんてどこにもいない。そんぐらい、少し考えれば誰にだって分かるはずのことだ。
 にもかかわらず、私たちはこの「ふつうの人」というやっかいな幻想から逃れられていない。どこにも存在しない「ふつうの人」という主体と、確実に存在している「この私」という主体とを非合理にも比較し、優劣感に浸ったり、劣等感にうちひしがれたりする。この、どこにも存在しない主体を、あたかも存在しているかのように見なしてしまう私たちの想像力は、私たちの中に、もともと備わっているものなのか。それともその想像力は何かの社会的・技術的条件によって、かたち作られたものだったのか。

 人類学者の磯野真穂さんは『他者と生きるーリスク・老い・死をめぐる人類学』という本のなかで、19世紀に目立ち始めた「平均人」の概念について考察している。
 19世紀は国民国家の世紀。来る20世紀に勃発する世界大戦の悲劇を準備した、国力増強の世紀。しばしば言われるようにもともと「Statistic」は「State 」の学だった。統計学は国家の学だった。
 統計学が最初に用いられたのは、国家が国民の数や属性を適切に把握・管理するためだった。そうして初めて、国家は国民の莫大な情報のサンプルたちを、手元に置いておくことができるようになった。さらにそこから少しづつ時間をかけて、ある「国民のモデル」が、「平均的な国民」という虚像が、かたちづくられていく。磯野さんは「平均人」を「統計学的に導かれた人間像」であると言う。
 そしていま、この「平均人」という概念は国家や国民がどうのこうのとは関係なく、それほどまでに自然に、私たちの価値観の根幹に、入り込んでしまっている。

 現代での「病」の中心的な語られ方は「平均人」的で「3人称」的である。裏を返せば、そこに「個人」的で「1人称」的な要素はほとんど見られない。本来、私たちの「病」の原因はもっと多様なものであるはずなのに、それが画一的で平均的な語りによって覆い隠されてしまっている現状を、磯野さんは憂う。
 磯野さんはなにも「統計学的に導かれた人間像」、つまり「平均人」という概念をただちに悪として認定したいわけではない。現代医学は、そのような「平均人」の概念なしには成り立たない。
 けれども個々人の「こころ」の病に対しては、やはり「個人」的で「1人称」的なアプローチが、いやそういうアプローチ「も」必要とされるのではないか。そのような考察を経て磯野さんは、自分の過去を「物語ること」、そしてそれを他者と共有することの大切さを、改めて説いていく。
 19世紀いらい影響力を強めるようになった「統計学」の技術とその価値観は、「理想のライフプランを生きる個人」「平均人」「ふつうの人」といった「存在しない主体」への想像力をかたち作っていった。
 それらは確かにある面で私たちの社会活動を便利にしたが、同時に「この私」や「その誰か」についての固有で、唯一の物語が見落とされるリスクをうむようにもなった。現実には存在しない主体と、間違いなく現実に存在する主体。その2つの主体のあり方といかにして適切な距離感を保ち、上手に付き合っていくか。磯野さんの本を読んでからぼちぼちと、そういうことについて考えるようになった。
 いずれにしろ私たちの多くは「存在していない主体」と「存在する主体」とを比較してしまうという悪癖をもつ。そしてそこでの「存在していない主体」のあり方はなにも、磯野さんの言う「統計学的に導かれた人間像」だけに限られたものではない。デイビッド・ベネターが言う「この世にうまれてこなかった私」のあり方が、その1つの例である。

 デイビッド・ベネターは、現代において「反出生主義」という考え方を広く知らしめた人。『生まれてこない方が良かったー存在してしまうことの害悪』というじつにヤバそうなタイトルの本を書いている。
 「反出生主義」という考え方をたんに「生まれてこない方が良かった」という考え方と同一視するならばそれは良くも悪くも、ありふれた考え方であると言えよう。
 そういうことは小説や漫画の悪役から、中二病時代のかつての俺にいたるまで、さまざまな人によって考えられてきたし、これからも考えられていくにちがいない。実際、ベネターの議論をきっかけにしてひろがったちょっとした「反出生主義」ブームに対して「そんなのはなにも新しい考え方ではない」と言って批判する人もいた。
 しかしベネターの言う「反出生主義」は、その「論理性」あるいは「形式性」の徹底さにおいてやはり特異なものである。そのように言うことができると思う。
 
 ベネターは「存在」つまり「ある人が存在すること」と「非存在」つまり「ある人が存在しないこと」を分ける。さらに「非存在」は「存在」よりも「良いこと」であると言う。
 なぜなら「存在」においては快楽を経験する量よりも、苦痛を経験する量のほうが圧倒的に多いにもかかわらず、「非存在」においては快楽を経験する量はゼロであり、同時に苦痛を経験する量もゼロであるからだ。
 生きていてプラスに感じることは確かにある。けれどもそれらをかき消して余りある圧倒的なマイナスが、私たちの道の前には例外なく、待ちかまえている。であるならば、最初から一切のマイナスがありえない「非存在」のほうを、私たちは選択するべきではないか。
 こういったことをベネターは4つの象限を用いながら、極めて「論理的」「形式的」に説明していく。その論の運びは少なくとも「はあ…人生マジで辛すぎ。こんなん、生まれてこんほうが良かったんじゃね!!」のような個人的な鬱屈の垂れ流しよりも、はるかに説得力をもつものであった。
 むろん、ベネターの論理体系をその外側から批判するのはたやすい。人はたとえ、たくさんの苦痛を経験したとしても何か1つの快楽、幸せを経験するだけでその人生すべてを「生まれてきて良かった」と総括することができるのであり、ベネターのような快楽と苦痛の捉え方は人間理解として単純に過ぎる。あるいは苦痛に代表される「否定性」は人の成長を促し、深みを醸成する重要なきっかけになるのであり、そのことを見まいとするベネターの議論は人の「成熟」を考慮にいれていない幼稚なものでしかない、など。
 私もそれらの批判には部分的に同意する。ベネターの議論がもろもろの人間の複雑さを見落としてしまっている、というのは確かにそうなのだろう。ただ私は、ベネターの論理体系それ自体に内在、肉薄してみた上で、彼の言い分に反論してみたかった。ベネターの論理体系の外側からもろもろの理屈をぶつけるのではなく、あくまでもベネターの論理体系の中で、むこうの土俵の上で、勝負してみたかった。
 その意味で「なるほど、こういう反論の仕方があるのか」と思わされたのが、森岡正博さんの『生まれてこない方が良かったのか?』という本だった。

 ベネターの『生まれてこないこない方が良かった』に対する『生まれてこない方が良かったのか?』である。この1冊の内容全体を通して森岡さんはベネターへの原理的でまっすぐな反論を、ぶつけようと試みる。
 森岡さんによれば、ベネターは論理的なあやまりをおかしてしまっている。ベネターの議論は「存在」と「非存在」が比較可能であるという前提の上に成り立っているが、その前提は極めて疑わしいものであると森岡さんは言う。なぜだろうか。
 「非存在」つまり「ある人が存在しないこと」における「ある人」を、「私」に置き換えて考えてみる。「ある人」の指し示す範囲の中には当然「私」も含まれているので、この置き換えは妥当なものである。そして反出生主義の文脈をより際立たせるために「存在しないこと」を、「生まれてこなかったこと」に置き換えて考えてみる。
 この2つの置き換えを経た「非存在」は「私が生まれてこなかったこと」を意味する言葉となる。しかし「私が生まれなかったこと」が実際にどういうものなのかを、その「私」は具体的にイメージできるだろうか?否、と森岡さんは言う。森岡さんによれば、私は「私が生まれてこなかったこと」を、正しくイメージすることができない。
 「私が生まれてこなかったこと」がどういうものなのかを私が考え始めたとたん、その考えている当の私の存在は消えてなくなってしまう。厳密に考えれば「私が生まれてこなかった世界」において、その「私」は存在してはならないはずのものだからだ。
 なるほど確かに「私が生まれてこなかったこと」「私が生まれてこなかった世界」といった言葉やそれを用いた文章を、私たちは簡単に組み立てることができる。しかし、それらがいったい何を意味しているのか、私たちはよく知らないし、知ることができない。何を意味しているのかわからない言葉を用いて比較をおこなうことなど不可能である。ましてやそれを通じて、何かの価値判断を導きだそうだなんて。森岡さんはベネターの論理体系の内側に潜む弱点を暴露し、その自壊をうながした。
 
 ベネターの用いる言葉には十分な中身が伴っていない、そして「私が生まれてこなかったこと」についての思索の深堀はナンセンスである。そのように森岡さんは指摘した。私も、その指摘は正しいと思った。
 しかし私のなかにはわずかな、しかしどうにも重要に思える、次のような疑問が残る。ベネターの論理体系の中にあやまりが含まれているのは分かった。ベネターの言葉遣いがナンセンスであることも分かった。では、どうしてベネターはそのようなナンセンスな言葉遣いに、あそこまで執着してしまっていたのか?あるいは、私を含めた少なくない人たちが、そのナンセンスな言葉遣いを、違和感なく受け入れることができていたのはいったいなぜなのか?
 「平均人」という「存在しない主体」への想像力は、統計学という技術的・社会的条件によってかたち作られたものだった。であるならば同様に、ベネターの「非存在」、つまり「私が生まれてこなかったことを考える私」という「存在しない主体」への想像力も、何らかの技術的・社会的条件によってかたち作られたものなのではないか。そのように問うことはできないだろうか?
 このひねくれた問いに対して偉大なヒントを与えてくれたのが、石川義正さんの『存在論的中絶』という本だった。
 3日前に読み始めた。するとあまりにも面白かったために、やらなければならないことそっちのけで、一気に読了してしまった。後悔と充実が一挙に押し寄せてくる読後の贅沢感を、久しぶりに味わうことができました。ありがとうございました。
 この本ではさまざまな論点が出てくるのだが、ここでは反出生主義の文脈にしぼる。石川さんは、ベネターの言う反出生主義と、それ以前に幾度も言われてきた反出生主義との違いを「仮想性」の有無という表現で説明しようとする。どういうことだろうか。

 石川さんはベネターが多大な影響を受けた1つの訴訟に注目する。その訴訟とは、一般に「ロングフル・ライフ訴訟」と呼ばれるものである。
 ロングフル・ライフ訴訟は、生まれつきの重たい障害をもつ当事者が、医師に対してその過失責任を問うた訴訟である。何に対する過失責任か?それは、驚くべきことに、出生前の親に医師が十分な情報を提供して「私が生まれてくることを回避させなかったこと」に対する、過失責任である。
 石川さんは言う。このような訴訟がでてくること自体、その当事者を含めた私たちの多くが、優生学的な差別の価値観を内面化してしまった結果である、と。
 さらに興味深いことに、石川さんはこの訴訟の論点が「障害を持って生まれた生が『生の非在』と比較可能か」という問題、つまり「存在と非存在の比較」の問題であったとし、その上でここでの「非存在」は「けっして無ではなく、誰かではある健常者の仮想的な生が暗黙のうちに想定されているのではないか」と問う。
 五体満足に生まれ、何の不利益も受けることなく日々を快調に過ごす「健常者」という「仮想的な生」が、その訴訟では当然のように前提とされている。
 さらに石川さんはその「仮想的な生」への想像力が育まれたのは、「出生前診断」という技術的条件によるところが大きかったのではないかと言う。
 出生前診断時点での胎児に「人格」を認めるべきか否かは、いまも決着困難な論点ではあるが、いずれにしても出生前診断という技術の誕生は、私が生まれてくる以前にひろがる「非存在の主体」という領域への想像力を、よりたくましいものとした。
 しかしそこでの「非存在の主体」とは言うまでもなく「存在しない主体」である。それは「生きるに値する健常者」という主体が存在しない程度には、存在しない主体である。
 そのように理想化された存在しない主体と、あちこちに欠陥と弱さを抱えた現実の私たちという主体を比較することが可能であり、さらにはそれが正当な比較であると信じるようになった人は何を思うか?私たちはみな、「生まれてこない方が良かった」のではないか?
 「出生前診断」という技術的条件と「隠された優生思想」という社会的条件が「生まれてくる前の私」や「理想化された健常者」という「存在しない主体」への想像力をかたち作り、それらをあと押しした。このような背景を反映したベネターの反出生主義は、従来的なそれとはやはり異なっている。ベネターの言葉遣いと論理のあやまりは、たんなるあやまりではなかった。ベネターにそのあやまりを強制させる技術的・社会的条件があったのだ。そのように私たちは考えるなのべきではないか。ナンセンスにいたる意味。
 
 石川さんは「安楽死の主体化作用」という節のなかでミシェル・フーコーの「自己への配慮」という考え方に言及している。そこでの「自己」は「たんに自らの生をデザインするだけでなく、みずからの死もまたデザインする対象だった」と石川さんは言う。
 安楽死を含めた自殺の権利はどこまで認められるべきなのか。それは出生前の胎児の人格をどこまで認めるべきなのか、という論点と同じくらいには、決着困難な論点ではないかと思う。
 しかしよくよく考えてみれば「自殺の権利」とはなんとも不思議な権利ではないか。この「自殺の権利」を除いて「その権利を行使した瞬間に、その権利の主体がこの世から消えてなくなってしまう」ような権利の存在を、私は寡聞にして知らない。
 ところで、「自殺の権利を行使した瞬間に消えてなくなってしまう主体」のあり方は「私が生まれてこなかったことを考え始めた瞬間に消えてなくなってしまう主体」のあり方と、どこか似てはいないだろうか?
 次の石川さんの文章は美しい。自殺は「自己を主体化するデザインという概念のひとつの極限であり、かつデザインの自己溶解である。デザインすることで、デザインされる対象はもはやどこにも存在しなくなったからである。それは非存在となった主体化である」。非存在となった主体化…。
 むろん、人間とは元来が「過剰」な存在である。時代や洋の東西を問わず、「この生存環境」を越えた「前世」や「あの世」の存在について、人はじつに多くの考えを巡らせてきた。
 しかし当然のことながら、人間をとりまく環境はつねに変化する。とりわけ、技術や社会の変化速度はすさまじい。そして私たちの考え方は、たとえその大筋において変化が生じなかったとしても、そこにいたるまでの道すじ、思考のプロセスにおいては変化が生じてしまうことがある。私たちの考え方は、時代の制約をどうしようもなく受けてしまうものだ。反出生主義でさえも。

 最近行った本屋さんに『普通という異常』というタイトルの新刊(?)が置かれていた。その本の中身も知らないくせに、そこからただ連想ゲーム的に思うこと。それは「普通」から外れた人たちが異常なのではなく、「普通の人」という存在しない主体への執着をたちきれない、私たちの考え方のほうが「異常」なのではないか、ということだ。それは確かに病だ。反出生主義も私たちの時代がうんだ、1つの病であると言えるかもしれない。では、それらは不治の病なのか?そうではなかろう。まっとうな1人称的語りの回復が、それらの病を癒すカギであると私は思う。
 存在しない主体のプラン。存在しない主体のデザイン。それらは例えば生前の私や、死後の私すらも見通そうとする全能のプランであり、デザインであるのだろう。その見通しの先、そのリミットに「私」はいない。いないとしても。それでも言いたいことがあり、見たいものがあるのだ。すでに奪われた人による声。これ以上奪いたくない人による沈黙。「存在しない主体」の肥大化に、眼を奪われてはならない。「存在する主体」による1つ1つの物語に、耳を傾けなければならない。


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