母と友達

 親子の物語、とりわけ「母」の物語に、私は弱い。今回、改めてそう感じた。弱いというか、感傷的になってしまう。とても考えこんでしまう。同じことか。
 私の母は約10年間、スナックの「ママ」をしていた。小さいころの私の疑問を、そのまま再生する。「どうして私の母親は、誰だかも知らぬ男たちから、『ママ』などと呼ばれているのか?」
 彼らが求めているのは「女」なのか、それとも「ママ」なのか。「女性」を欲しているのか、それとも「母性」を欲しているのか。よくわからなかった。それら2つの役割を一挙に引き受けた「スナックのママ」という座に、私の母親はいた。
 ひとと恋愛の話をしているときに「男って結局、母親に似てる人のことを好きになると思うんよね」みたいなことを聞く。その一方で「男って結局、母親とは違う人のことを好きになると思うんよね」みたいなことも聞く。
 率直にいって私は、これらの話の意味について、きちんと理解できているわけではない。なにかカッコつけているというわけではなくて、ほんとうに理解できていないのだ。これまでの人生でそんなこと、考えたことがないから。
 みたいなことを言うとたまに「それは、お前がこれまで母親から十分に愛されてきたからだ」というような返しをくらう。複数人で話してると、この返しを周りも否定することなく、うんうんと頷いていることが多い。こういうとき私は「母」への執着に対する個人差があることを、はっきりと意識する。
 
 戦後文学やサブカルチャーのなかに「母性」のテーマを読みとろうとする文章に、いくつか出会ったことがある。なるほどお、と思うこともあったが、ほんとうか?と思うこともあった。
 いずれにしても「母性」は、文化を語るときの重要なテーマの一つのようである。じっさい、そのような文章はたくさんある。けれども私は「母性」というテーマが、どうしてそんなに重要な意味を持つのか、その理解の仕方に、いまひとつ自信を持つことができていない。
 人には「無意識」の領域がある。「私は差別なんかしていない」と言う人も、心の奥底で、つまり「無意識」のうちに、誰かを差別してしまっていたり、傷つけてしまっている、ということは、十分にありうる。
 だから私も、表面的には「母」に執着がないように見えて、じつはどこかで、「母」のことをいつも考えてしまっているのかもしれない。「母」を基準にした人間関係を築こうとしてしまっているのかもしれない。それは分からない。どこまでも。
 
 世界は広い。「スナック研究会」というものがある。谷口功一さんという法哲学の研究者が、その代表をつとめている。本を読んでもっとお話を聞きたいと思った私は、とあるトークイベントに参加して、その終了後に直接、谷口さんに質問を投げかけたことがある。
 それはずばり「良いスナックの条件とは何だと思いますか?」というものだった。若干の間を置いたあとに、谷口さんは次のように言った。「考えなきゃいけないのはね、どうしてスナックのママが『ママ』と呼ばれているのか、ということなんですよ。」
 スナックとは疑似家族の空間である、というのが谷口さんの主張だった。日本の地域社会は、血縁に基づく「家族」を中心に制度設計されている。だから「家族」を持たない人は、共同体に包摂される機会を失い、いつまでも孤独に苦しむことになる。そういう人たちが求めているのは、恋愛のようなどろどろとした人間関係ではなく、むしろ家族のような暖かい人間関係なのである。そしてまさに良いスナックには、まるで家族のような暖かい人間関係があるのだ、と。
 スナックを疑似家族の空間として捉える谷口さんの考え方は、一つのスナック論として、とても興味深いものだと私は思う。一般に「水商売」の一つとして位置づけられがちなスナックから「性」や「恋愛」の要素を一掃し、それを「母性」に支えられる疑似家族的な「共同体」として捉え直そう、と言うのだから。
 だけど残念なことに、スナックという空間に「性」や「恋愛」の要素はある。現実に。少なくとも私の知るスナックには、ある。あってしまう。むろん谷口さんからすれば、それは私の周りのスナックが「良くない」スナックだから、ということになるのかもしれない。だけど。
 おそらく私は、表面的には「家族」のような雰囲気を求めているように見えながら、じつはどこかで「性」や「恋愛」の機会をひっそりと窺っているところに、男のズルさを感じてきたのだと思う。それが、小さいころの私が感じていた違和感の正体なのだと思う。私の母親が見知らぬ男どもから「ママ」と呼ばれていたことそれ自体に対してではなく、ヘラヘラと「ママ」と呼ぶその裏側に潜んでいる、いくつかのどす黒い欲望の在り方に対して、嫌悪感を抱いていたのだと思う。

 私はジブリの良いファンではない。どちらかと言えばエヴァンゲリオンのほうが詳しい。エヴァもある意味「母性」の話だし、「虚構と現実」の話でもあるから、それと重ねあわせたり比較したりするような文章は、これからいろいろと書かれることになると思う。もう書かれていそうな気がしてきた。
 不意にそういう文章を目にしてしまう前に、ひとつ書いておきたいことがある。私が個人的にエヴァと最も異なると感じた点は、「アスカ」が出てこないことである。つまり同世代の「他者」が出てこない。周りの女性がみんな「母性」的なのである。無理して「母」と思う必要も、そう呼ぶ必要もないじゃないか、と私は思った。自分のいろんな感情をへんに押し殺す必要はない。だけど唐突に「母さん」は名指される。そう名指されるだけで、二人の関係は変わる。「母」という言葉の、なんたる強力なことか。そんな強力な言葉を軽々しく使ってしまう男の、なんたる狡猾なことか。
 逆に、エヴァではそれほど強調されない点。それは、最後に出てくる「友達」という言葉。これは良いと思った。母性に包摂される必要はない。母性への執着を絶ちきれないままに、女性を求め続ける必要もない。たんに「友達」になれば良いのだ。しかし「友達」の関係をいつまでも保ち続けること、これが意外と難しい。
 「正直に言って、むかしはお母さんに近づこうと思って、息子である君を利用していたところがある。でもいまは、純粋に君と話していて楽しい。これからもよろしくね。」かつては憎んでいた人と、いまは仲良く話せている。考えれば考えるほど、ほんとうに不思議なことだなあ、と思う。
 スナックは確かに「性」や「恋愛」や「母性」に飢えている人たちが集まる場所だ。けれどもそこから思いもよらない「友達」の関係が、生まれることがある。私がその人を「友達」と呼び続ける限り、ではあるが。
 唐突に言うが、私はフェミニズムの多くを上野千鶴子さんの本から学んだ。そんな上野さんの主張にも、納得できないものがいくつかある。そのうちのひとつが「男は友達をつくるのがへた。それに対して女は、自然に友達をつくることができる。だから『おひとりさま』になって困るのは、もっぱら男たちのほう」というようなもの。
 たぶん、上野さんの見立ては正しい。上野さんと似たようなことを言う人は、私の周りにもいる。だからこそ私は悔しい。納得したくない。そんなことがあってはならない。私が望む世界は、男性が女性を見下すような世界でもないし、女性が男性を見下すような世界でもない。男性も女性も対等に、友達になることができるような世界だ。
 スナックに行っても良い。そこに疑似家族や性や恋愛を求めても良い。だけどそこで最後に目指されるのは、従業員とお客さんの、そして性別の垣根を超えた、「友達」という関係であってほしい。そうでなければ私たちは、いつまでも上野さんに笑われ続けることになる。そんなのは嫌だ、私は。
 
 ひとは疑似家族を求める。けれども完璧な疑似家族は存在しない。疑似家族の空間はつねに「性」や「恋愛」というエラーの可能性をはらむ。だが同時にそこには「友達」という別のエラーが生まれる可能性もある。「性」「恋愛」「母性」の三位一体に囚われることなく、それらのいずれでもない「友達」への希望を捨てないこと。「母性の暖かさ」と「男のズルさ」の共犯関係という「ウソ」から脱却すること。虚実入り混じった「悪」を背負う、個人たちのつながりへ。
 いま私は、表象や記号の「読み解き」作業から、遠く離れた場所にいる。私という一回限り生きて、一回限り死んでいく人間に届いた、もっとも大切なメッセージは、このようなものだった。それだけは、確かなことである。

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