子ども的ー大人的二重体

 最近になって私は「喋っている自分」よりも「書いている自分」のほうが好きなのだと気づいた。好きなだけで得意だとはまったく思わない。それが不思議。
 大学生の頃から紙のノートに、読んだ本の感想や今日あった出来事を書く習慣があったはあったのだが、それらはとりとめもなく断片的に、書かれることが多かったように思う。理由はたぶん単純に、書いていると手が疲れてくるから。頭が疲れるよりも先に手が疲れてくる。定期的にばあちゃんが手紙を送ってくれていたのだけど、中を開くと何枚にも及ぶ高級そうな紙に達筆な文字がぎっしりと敷き詰められていて、その度に私は「昔の人はすげえ、自分にはとても真似できない」などと思ったものだった。
 noteで文章を書くようになってもうすぐ1年がたとうとしているが、どれだけ書いたとしても手が疲れないのが良い。当たり前、というかスマホやパソコンを使って書くならnoteじゃなくても全部そうやろ、ではあるのだが。
 紙のノートに書いていた時は手が疲れてきて最後「書くのやめた!でも頭は元気やから本でも読もー!」となっていたのが、noteに書くようになった今では「書くのやめた!頭めっちゃ疲れとるから散歩でもしよー!」となる。同じ「書くこと」であっても両者の実態が大きく異なるという当たり前の事実に気づけたのは、しばらく私自身が実際に、noteで文章を書き続けてみたからに他ならない。
 同じ「表現すること」でも「書くこと」と「喋ること」ではさらにさらに違うというか、もうぜんぜん別物。「考えること」の段階をどこに置くのかが、両者では決定的に異なっている。
 書く時は事前に考えたことをそのまま表現している感じがする。喋る時はとりあえず喋ってみた後で、つまり事後的に「あの時に自分が喋っていたのはどういうことだったのだろう?あの時の自分は何を考えていたのだろう?」として、振り返ることが多い。つまり書く時には考えることがその前提、土台としてあるのに対し、喋る時には考えることがその結果として、効果として、遅れてやってくる感じがある。そして繰り返すが、私は「喋る自分」よりも「書く自分」のほうが好きである。さらにそれがなぜだろうかと問えば、私は「行動してから考える人」よりも「考えてから行動する人」のほうが好きだからだと思う。 

 「大人はたいして何も考えずに子どもをつくることがある」ということを知った時の衝撃。今でもその日のことを鮮明に覚えている。ただ、そもそも当時の私がなぜ「大人はさんざん色々なことを考えて子どもをつくっているに違いない」と思い込んでしまっていたのかは、よく分からないままなのだけど…。そんなこと、どこで教わったというのか。自力で導き出したのだとすればエライ。
 その頃の私は週刊少年ジャンプの愛読者だった。ある日「漫画の作者は連載開始時点で連載終了までの過程をすべて考え計画していて、その通りにものを書いているわけではない」ということを知った時の衝撃もまた、当時の私を激しく傷つけた。
 のち大学で文学理論を学んでいる時に「作者の死」「作者からテクストへ」つまり「作者自身も自らの作品について完璧に分かっているわけではないのだから、読者はもっと自由に柔軟に作品を読み、解釈すれば良い」という考え方に出会ったのだが、この原体験があったおかげで、そこで何が言われているのかをスッと理解することができた。私にとって漫画の作者は「神」だった。けれどもある日、神は死んだ。死んでしまったのだ。
 いずれにしても私には「大人とはまずこれからの未来について徹底的に考え、その上でその考えを行動に移し実践する人たちである」と考えていた節がある。子どもである私は今よりもはるかに衝動的で、考える前に体を動かすことが何よりも大事だと思っていたタイプだったので、自分にはない「考えること」の美徳を大人たちはもっているに違いないという理想を、彼ら彼女らに身勝手にも、投影してしまっていたのかもしれない。
 子どもは考えずに動き回る。大人は子どもの上位互換である。それゆえ大人は考えた上で動く存在であるに違いない。しかしどうやら大人も、子どもと同様考えずに動くことがあるらしい。その結果、子どもや漫画作品はつぎつぎに生まれていく。私もそれらの恩恵を多分に受け、毎日を楽しく生きていくことができている。そうであるならば私が考えるべきは、むしろ「考えることがなくとも現に世界がこのように維持されているのはなぜか」「にもかかわらずあらゆる行動の土台に考えることがあるように見えてしまうのはなぜか」あるいはもっと根本的に「考えるとはそもそも何か」という問いになるはずである。

 吉川浩満さんの『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』という本がある。大学の書店でその変なタイトルがパッと目につき購入した後、家に帰ってから改めて「変なタイトル…」と思い、読み始めた。
 人間は人間であると同時にサルでもある。そして表現がやや難しく諸説あるのだが、どちらが「進化」した生物であるかと言えば、おそらくは人間のほうだろう。
 だから「サルの解剖が人間の解剖のための鍵である」ならば分かる。より「低級」な動物の解剖をすることで、より「高級」な動物のメカニズムを段階的に明らかにしていくこと。仮に進化の過程をサル→人間のように一直線上で描けるものだとするならば、そのような理解の姿勢は決して間違いではない。
 ところが「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」なのである。逆では?と思い読み進めていると、このタイトルには元ネタがあると知って驚く。その元ネタが、かのカールマルクスの著書であったことを知って、さらに驚く。著書のタイトルは忘れてしまったのだが…。
 吉川さんの狙いは次のようなものであった。例えば、いまサルには「グルーミング(毛づくろい)」というコミュケーション手段があることが分かっている。そして私たちは、その内容をすんなりと受け入れることができる。
 けれどもそれは、私たち人間が既にコミュニケーションというものを理解しているからではないか?人間がコミュケーションに関する理論と実践を発達させた結果として、サルにも同様のメカニズムがあったことを、後から発見できているだけなのではないか?その意味でサルの解剖→人間の解剖ではなく、人間の解剖→サルの解剖なのだ。
 そして吉川さんはこの矢印が、人間とAIの関係にも応用できるのではないかと問う。より「高級」なAIについて理解することが、より「低級」な人間を理解する上で役に立つのではないか?「AIの解剖は人間の解剖のための鍵」なのではないか?と。

 その本は私のような文系人間にとってじつに刺激的な始まり方をしていた。ミッシェル・フーコーの『言葉と物』という本の一節から、さしあたって拠り所とするべき「人間の定義」が共有される。それは「人間とは経験的ー超越論的二重体である」というものだった。変なタイトルの次は変な定義が、きた。
 さまざまな理解の仕方があると思うが、その後の説明を通じて私は「経験的」と「超越論的」を「ベタ視点」と「メタ視点」というふうにパラフレーズした。目の前にある対象をそのまま素直に受け入れるのが「経験的」つまり「ベタ」な視点で、その対象の背後にある構造や本質を理解しようとするのが「超越論的」つまり「メタ」な視点である、と。
 例えば私たちはごはんを食べている時たんに「このごはんおいしい!」と思う(ベタ!)が、それと同時に「このごはんの素材ってどこの誰によって作られたのだろう、それを誰がここまで運んでくれたのだろう、それを誰が料理してくれたのだろう、そもそもごはんとは…」と、目の前には存在しない世界の構造や本質について考えを深めていく(メタ!)ことがある。後者の態度はベタ的・経験的にしか生きられない他の動物には縁がないものであり、それはメタ的・超越論的に生きることを許された我々人間に与えられた、ありがたき特権である、というわけだ。
 人間は考えない存在であると同時に考える存在でもある。動物的な存在であると同時に人間的な存在でもある。ベタ視点を持つ存在であると同時にメタ視点を持つ存在でもある。そのような人間の二重性をフーコーは「経験的ー超越論的二重性」と呼び、吉川さんはこれを人間の定義として採用した。
 そして人間より上位の存在であるAIは、人間の頭の悪い部分、つまり「経験的」な部分を消し去り、さらに人間の頭の良い部分、つまり「超越論的」な部分をより強化し、洗練させた存在であるべきだ。人間社会が不完全なのは人間が「考えない」部分をもつ存在だからで、その弱点を克服した完璧な「考える」存在としてのAIが誕生すれば、世界はもっと豊かで、幸せなものになるに違いない。そのように考えられてきた。しかしその枠組みには次第に、疑いの眼が向けられるようになる。代表的なのが「フレーム問題」である。

 それはダニエル・デネットという人が提起した問題。洞窟の中にロボットの原動力となるバッテリーがあるのだが、その上には時限爆弾がしかけられている。このままでは時限爆弾が爆発しバッテリーも吹き飛んでしまい、そうなればロボット自身も動けなくなってしまう。ロボットは「バッテリーをとってこい」と指示を受け行動する。
 ロボットは無事バッテリーをとってくることに成功するのだが、バッテリーと一緒に時限爆弾まで持ってきてしまい、結局は爆発の影響を受け壊れてしまう。ロボットは「バッテリーをとってくる」ことがどういうことかは理解できていたのだが「それによって副次的に起こりうる事象」について考えが及んでいなかった。
 なので次は「バッテリーをとってこい」と同時に「それによって副次的に起こりうる事象も考慮に入れろ」という指示が出る。しかしまたしても、ロボットは爆発の影響を受け壊れてしまう。ロボットは洞窟に入りバッテリーの前までたどり着くのだが、そこから「バッテリーをとってくる」ことに伴う副次的事象の可能性を文字通り無限に、考え始めてしまうのだ。「バッテリーをとる前に時限爆弾を外すべきか」「外すのだとしてどのように外すべきか」「少しでも触れれば爆発してしまうのではないか」「爆発しなかったとしてそれを力づくでとれば、その衝撃でこの洞窟全体が崩れてしまうのではないか」「これ以上近づくと何かの罠が作動してしまうのではないか」…。時間切れ。
 では最後の手段として「バッテリーをとってこい、ただし目的と無関係なことは考慮に入れるな」という指示が出る。だいたい予想がつく話ではあるが、今度ロボットは洞窟の手前で動けなくなってしまう。ロボットは指示通り「バッテリーをとってくることと無関係な事象」をすべて洗い出そうとするのだが、そのような事象はまたしても文字通り無限に存在し、無限の事象を計算するためには無限の時間を必要としてしまうからだ。

 さて、私たちはここからどのような教訓を引き出すべきだろうか?それは、驚くべきことに「行動する上で考えすぎはよくない」というものになるはずである。おそらくロボットよりもはるかに有限な知性しか持たない存在である我々が、ひとたび無限の可能性について考慮し始めてしまえば、それ以上一歩も身動きをとることができなくなってしまうだろう。
 そうすると先ほどの「経験的ー超越論的二重体」における「経験的」の部分は、人間が生き延びていく上での足手まといな部分というよりも何かポジティブで、有用な部分なのではないかと思えてくる。考えることを必要としない経験的なサルでもなく、考えることを過剰に必要としてしまう超越論的なロボットでもない、考えることを必要としないのと同時に必要ともしてしまう、人間という経験的ー超越論的二重体。
 「大人はたいして何も考えずに子どもをつくることがある」という小さい頃の私が発見した衝撃の事実は、ここで少々訂正される必要があるのだろう。「大人はさんざん色々なことを考えた結果、どこかでその作業を中断し、とりあえず子どもをつくってみようと思うことがある」へ。
 思考を超越論的に深めていく無限の渦のただ中でとりあえず無根拠に、経験的なフレームを用いることによって、さしあたって考えるべき内容を限定してやること。それが望ましいかどうかはいったん置いておくとして、確かに世の大人、というか子ども含めた人間は、そのようにしてなんとか日々を生き延び、未来に向けて命をつないで行っているのかもしれない。それこそが人類の歴史の、すべてなのかもしれない。
 最近生誕100周年を迎えた安部公房という小説家がいる。この前古本屋さんで『死に急ぐ鯨たち』というエッセイ集があったので買って読んでみると面白く、中でも次の文章は印象的だった。
 「二つの時間が並行して流れているようだ。一つはプレートの圧力で限界まで蓄積されたエネルギーが解放を待つ、物理的な時間。いま一つは昨日のように今日があったのだから、今日のように明日があるはずだと言う、日常的な経験的な時間。物理的な時間が避けがたいことを知りながら、なぜか経験則を優先させてしまっている。
 ためしにここでちょっとした賭をしてみよう。この一行を書き終えるまでのあいだに地震がくれば、一万円支払います。
 無事に地震をやりすごせた。ぼくは賭に勝った。あいにく賭の相手を特定しなかったので、儲けはしなかったが、損もしなかった。ぼくだけでなく、実際に地震がくるその直前まで、誰もがこんなふうに楽観的見通しのほうに賭けつづけるに決まっている。」(p31~32)
 ここでの「地震」を「世界恐慌」と呼び変えても良いかもしれない。「世界恐慌」は必ず訪れる。多くの人がそう指摘している。にもかかわらず、「その日」が来るまで、資本主義は続いていく。「世界恐慌は起きない」のほうに、今日も私は賭ける。そして私は今日も、その賭けに勝つことができた。そして…。

 最近ようやく(?)『ゲンロン15』という論檀誌を読むことができた。東浩紀さんの「哲学とはなにか、あるいは客的ー裏方的二重体について」という論考がたいへん刺激的だった。
 むろん、ここでの「客的ー裏方的二重体」とは先ほどの「経験的ー超越論的二重体」のパロディである。
 「客が存在しなければ裏方も存在しない。裏方がものを考えるのは、客がものを考えなくてもよいようにするためだ。そしてその客はべつの局面では裏方であり、裏方はこんどは客になる。ぼくたちはそのように『ものを考える』局面と『ものを考えない』局面がモザイク状に組み合わされた時代を生きている。いいかえれば現実と幻想が不可分に絡み合った時代を生きている。それが消費者的ー生産者的、あるいは客的ー裏方的二重体の時代だ。」(p23)
 東さんは商店街や地産地消よりも、ショッピングモールやファミレスのほうを一貫して肯定してきた人だった。生き生きとした人間的連帯よりも、もう少し愚かで低級な動物的連帯のほうを、どういうわけか擁護しようとしてきた人だった。
 私はそのような東さんの考えが必ずしも正しいとは思わなかったが、いわゆる「頭の良い人たち」の中で東さんのようなことを言う人が他にいなかったいうこともあり、東さんの文章を読んだり、ご本人に直接尋ねたりしながら、その問題について考え続けてきたつもりだ。今回の東さんの文章を読んで、東さんが人間社会をどういうふうに捉えている人なのかを、かなり明確に理解することができた。というより、そのくらいに明確な文章が書かれていた、と言うほうが正しい。
 「ぼくがリゾートやテーマパークやショッピングモールに関心を抱いたのは、娘ができてからである。子どもをもつと世界への配慮は限定される。ひらたくいえば時間と労力が取られる。『ものを考えない』空間が必要になる。リゾートやショッピングモールは確かに過剰に快適である。非現実的で幻想的である。しかしその幻想を嫌う人々というのは、なるほど政治的には正しく、矛盾や貧困や不正義には敏感なのかもしれないが、逆にそのぶん配慮の余力には恵まれているーつまりは暇なのだと、ぼくはそのとき冷淡に感じたのだった。
…本稿で提示しているのは要は子育ての経験を抽象化して得た哲学である。というよりも、現実に子どもがいるかいないかにかかわらず、現代人はみな子育て期の親のようなありかたで生きているというのが、ぼくが言いたいことなのだ。裏方と客を切り替えること。『ものを考えない』ために考えること。」(p26)
 少なくとも小さい頃の私は、大人とは常に裏方として世界を配慮し続けている存在であると信じてしまっていた。客が生きやすい世界を裏側から設計し、目の前の子どもへの手厚い配慮を欠かさない、神のように一貫した主体であることを、大人に求めてしまっていた。
 けれども東さんの論考を参照するまでもなく、それこそ経験的に分かることではあるが、そのような期待は幻想に過ぎない。世界や他者を配慮した人はその見返りとして、世界や他者からの配慮を求めてしまう。裏方としてお客さんにサービスを提供した人は今度は客として、裏方の人からのサービスを求めてしまう。誰かからの依存を引き受ける人は誰か別の人へ依存することによって、そこでの疲弊を解消しようとしてしまう。
 大人は考えない主体なのではない。基本的には考え、行動している。けれどもそのあいまあいまに、考えない時間が挟み込まれていなければならない。なぜなら大人は考えるために、考えない時間を必要とするから。あるいは考えないために、考える時間を必要とするから。

 冒頭で私は「喋っている自分」よりも「書いている自分」のほうが好きなのだと言った。好きなだけで得意だとは思わない、とも。おそらく私は「読み書き」よりも「お喋り」のほうが得意なタイプの人間だと思う。
 私の考えでは、「お喋り」において大切なのは計画性や一貫した思考ではなく、場当たり的・反射神経的な「即興」の能力である。そして即興とはその定義上、考えることをほとんど必要としない。考えすぎていては、お喋りを継続することはできないから。
 そのようにして、世界は作られ続けている…のだとしたら?私は少しだけ納得すると同時に、いくらかの怖さも感じる。動物的な即興がまずは行われた後で「じつは」私は当時、こういうことを考えていたのだとして、過去がどんどん「訂正」されていく。しかしそのような「訂正」の能力こそが、人間に残された固有の能力なのだとすれば、どうか?
 経験的ー超越論的二重体。客的ー裏方的二重体。あるいは、子ども的ー大人的二重体。そのような二重の主体として生きる私たちは、パンドラの箱を開けて満足するのでも、反対に箱の底について一切無関心になるのでもなく、この世界が二重底でつくられているという端的な事実に正しく向き合い、驚くべきなのかもしれない。「あれか、これか」でなく、「あれも、これも」という人間のめんどくささ。そのことをきちんと説明してくれている言葉は、意外なほどに少ないものだと私は感じる。
 
 






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