宇宙人の目、動物の目

 人間が抱える「ふつう」の感覚に疑いをもつ人は、人間ではないものの目を借りようとする。例えば宇宙人の目を。
 宇宙人の目を借りることは、世界の見え方を一新するのに役立つ。私たちが全く理解不能などこかの外国語と日本語が、宇宙人からすると完璧に同じ記号の体系に見えているかもしれない。それどころか私たちのコミュニケーションすべてが、一つのなめらかな水の流れのように見えているかもしれない。言語の壁と君たちが呼んでいるものは幻想であり、にも関わらずそのような幻想にいつまでもしがみついてしまうことそれ自体が、人間的な知性の明らかな欠陥を示しているのではないだろうか、とかって言われたい。
 あとスポーツなんかも、宇宙人にとって理解が難しいものとそうじゃないものがありそうとかって、思うことがある。なんとなくサッカーは簡単そうだけど、野球は難しいんじゃないか、とか。あるいは言語の時と一緒で、超賢い解析システムにかけることで、あらゆるスポーツは統一的に理解されることが可能なのかも。その上でどうして君たちは、サッカーと野球をスポーツという同一のカテゴリーの中に置いてるのか!?なんたる杜撰!ここはもっとこのように分類するべきであって、、、とかって怒られたりして。だったら良いな。
 もちろんその宇宙人は私の頭のなかにしかいない。でもそいつの存在は私が自分自身、そして人間社会のふつうの価値基準から、がんばって離れようとした努力の痕跡みたいなものだ。どうかご勘弁を。
 一般にSFと呼ばれるジャンルの小説を読むことの醍醐味は、そのような宇宙人の目を借りる体験を味わうことにあるのだと思う。SF小説に必ずしも宇宙人が出てくるわけではないのだが、なんていうか宇宙人的ななにかは必ず出てくる。人間社会の「ふつう」をすべて相対化してくれる存在。それが人間だったり、人間じゃなかったりするんだけど、とにかくふつうじゃないやつが出てくる。そのことは間違いないと思う。
 SFの価値は現実の「異化作用」にあるのだと、誰かが言っていた。私もそう思う。読んでる時にああ~そうそう、という共感を覚えるのではなくて、え、まじ?そんなふうに世界見ちゃう?というドン引きのあと、しばらくのあいだ頭がクラクラさせられっぱなしになるような。だからそんなにしょっちゅうは読めないんだけど、あんまり長く読んでいないと人間の目に退屈してくるから、やっぱり宇宙人の目を借りたくなる。そういうジャンルが、私にとってのSF。それこそ、宇宙人からは怒られるジャンルの分け方かもしれないけれど。
 
 そういう意味でのSFを初めて読んだのは村田沙耶香さんの『コンビニ人間』だった。高校3年生のとき。読む前は、もっとふつうの話なのかと思っていた。買い物するのはコンビニだけ!コンビニマジ超便利!みたいなこと言ってる現代人けしからん!系の話なんかなあとか。そんなはずがなかった。甘かった。ぬるいぬるい。宇宙人でしたのよ、この主人公。怖かったけど、爽快でもあった。宇宙人の目の動かしかたを、私は教わった。
 不思議なのは、世間で村田さんの小説がSF小説に分類されることがほとんどないこと。確かにAIとか火星とかは出てこないかもしれないけど、宇宙人的な人間はすごい出てくるし、現実の「異化作用」の度合いも半端じゃないのに。最近も久しぶりに村田さんの『殺人出産』ていう短編読んだんだけど、そりゃあもうクラックラよ。相変わらず人として終わってる話で安心しました。
 村田さんの作品世界と「ロマンティックラヴ・イデオロギー」批判の文脈が関連づけられている文章をたまに読む。私もその観点は正しいと思うし、はあ~そうやって読むことができるんだ~!というふうにして、素直に感心することもある。だけど村田さんは、もう少しヤバいことを言おうとしてる感じがする。そのことを一言で言うのって難しいというか、たぶんできないと思うんだけど、あえて言うとすればたぶんこう。人間が「愛」と呼んでいるものと、人間が「暴力」と呼んでいるものは、たいへん申し訳ないんですけども、宇宙人的にはまったく同じものに見えるのです。
 愛と暴力の関係は最近いろんなところで話題になっている。職場に一人はいる「愛とハラスメントは紙一重!」的な昭和上司の問題とか。部活動の体罰の問題とか。村田さんはそれらの理屈と「性」の領域を結び付けようとする。その結果、愛と暴力の問題について考えるための材料が一つ増え、したがってその問題の構造の複雑さも増す。格段に。
 具体的に言い換えるとそれは「性愛」と「性暴力」は何が違うのか?という問いになるのだと思う。ふつうに考えれば、そんなのは考えるまでもない。前者は尊ばれることだし、後者は蔑まれるべきことだ。両者は絶対的に相反している。けれど繰り返しになるが、村田さんの小説を読むこととは、そういう「ふつう」とは異なる価値観、つまり宇宙人の目を借りてくることなのだ。
 
 『コンビニ人間』の主人公がコンビニを愛するのは、コンビニが完璧にシステム化されているからだ。マニュアル化されているからだ。近所の個人商店でよく見る「いつものお願い!」的なコミュニケーションは必要とされない。へんなアドリブも起こりえない。マニュアル通りに、自動機械のように体を動かしておけば良い。
 『コンビニ人間』の主人公はかたちにならないものの見方がよくわからない。だから空気が読めない。空気をすべてマニュアル化してくれたら分かるのになあ。事態を解決しようと真剣にそう思うのだが、現実にはその思考自体がふつうじゃない人の考え方であるとして、むしろ異常者のレッテルがはられてしまう。生きづらい。対してコンビニではいつも、綺麗に空気=マニュアルが整えられている。コンビニだけが、彼女を世界から守ってくれた。
 ところで、愛とはかたちにならないものである。そのように語られる。健全な性愛の関係に必要な「合意」なるものも、その実態はあやしい。べつに書類上で合意契約のサインをするわけでもない。口頭ではっきり合意形成を経てから、の場合もあるかもしれない。しかし実際には「そういう雰囲気」という不確かなものに依存しているというのが、多くケースにおける実態なのではないかと思う。徐々にいい感じになってきて、いつの間にか始まってんのよ、そういう雰囲気があんのよ、みたいな。
 だからこそ「いや、あれはお互いの合意の上だった」という暴力的な勘違い、そして「いや、あれはじつは嫌々やっていた」という偉大な告発の、両方が可能になるのだろう。愛や性的合意はマニュアル化されない。そのことがそれらの良いところであり、悪いところでもあるのだと思う。
 なんにせよ、そういう曖昧な観念を排したあとで、人の行動のかたちだけを誤魔化されることなく誠実に、観察し続けること。その目だ、私が村田さんから受けとったのは。外から見たら同じように見える愛と暴力は、当人にとってはっきりと区別されている。愛か暴力のどちらかでしかありえない。その根拠は愛があったか、なかったか、合意があったか、なかったか。しかし愛とは何か?合意とは何か?それらは空気と同じく、目に見えないものなのか?
 ひとは理念に親しみ憧れ、時にそれらを操る。愛や正義、自由や平等。人間は「人間的に」生きるべきだと言われるさい、そういう美しい理念たちの存在が想定されていることが多い。けれどもそれらは「偽善」にもなりうる。現実の人間の野蛮さが、美しい理念たちによって覆い隠されているだけなのではないか?そのような疑問を、ひとは抱く。
 理念の美しさが覆い隠す人間の愚かさ。この問題をある程度具体的に考えられるようになったきっかけが、濱野チヒロさんの『聖なるズー』という本を読んだことだった。
 
 私は村田さんから宇宙人の目を学んだ。そして濱野さんからは動物の目を学んだ。『聖なるズー』の表向きのテーマは「動物性愛者」、つまり「動物を人間のように愛している人たち」である。彼ら彼女らは、自分たちはパートナーのことを愛しているし、パートナーも自分たちのことを愛しているのだと言う。でも、どうやってそれが分かるというのか?動物のパートナーが自分のことを愛しているということを、どうやって確かめているというのか?彼ら彼女らは言う。それって野暮じゃない?そういうのって言葉にするもんじゃないし、愛し合っている者同士なら「自然」に分かることじゃん。ああ、これ、人間同士の関係でもよく見るやつだ。「そういう雰囲気」ってやつだ。
 驚くべきことに『聖なるズー』の裏テーマは、私たちふつうの人間、つまり「人間を動物のように愛している人たち」である。自分は誰かのことを「人として」愛している、尊重している。多くの人がそう思う。でも、ほんとうにそうだろうか?というか、「誰かを人として愛する」とは、いったい何を意味しているのだろうか?動物の目を持つ濱野さんは、人間的な「愛」の嘘の可能性を、私たちの目の前ににぶらさげる。そのとき宇宙人の目と動物の目は、奇しくも同じ場所を見ている。
 
 愛に代表される人間的な理念は、宇宙人の目と動物の目によってその「偽善」性を暴かれる。君たちがこだわっている区分は間違っている。妙な幻想にしがみついてはならない。そのように指摘される。
 しかし繰り返しになるが、ここでの宇宙人や動物は、結局のところ人間の頭の中にしか存在しない。人間は、人間でないものたちの目をわざわざ借りてきて、自らがよってたつ舞台の安定性を揺るがそうとする。人間だけでは解決できない問題があるのだ。確かにいったんは、愛と暴力の類似性を認める。けれどもその上で、やっぱり愛の尊さを守ろうとするし、暴力の残酷さを避けようとする。
 人間は放っておくと「ふつう」のかたちをどんどん研ぎ澄ましていく。鋭利なものにしていく。そして肥大化させていく。その人間的な「ふつう」の暴走を食い止めるのに必要なのは、人間の内側にある、人間以外の原理でなければならないのだろう。人間が素晴らしいのは、人間以外の目を持っていること、そしてそれらの目を一時期的に借りたあとで、また人間に戻ってこれることではないだろうか。人間は人間でありながら、人間の外に出ることができる。人間以外の目を持っている人間が語る言葉を、私はひっそりと信頼している。


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