意味狩り

 先週の土日は稲刈りだった。毎年そうなのだが、まあ~朝が早い。最年少である私は5時まえには起きて、作業に必要な諸々の準備をしなければならない。そのことが分かっているにもかかわらず、前日の贅沢夜更かしが、どうにもやめられない。稲刈りの前の静けさ。真っ暗な部屋で電気スタンドをつけ、若干の緊張感に包まれながら、小説を読む。大江健三郎さんの『万延延年のフットボール』。至福の時間。
 生まれてから最初の3年くらいは、もう少し町っぽいところに建てられた団地で暮らしていた。らしい。ぼんやあ~りとは覚えているのだが、ほとんど記憶にない。だからやっぱり私の子ども時代の思い出には、じいちゃんばあちゃん家で過ごしたイメージが強烈に、刻みこまれている。
 朝。目覚ましが鳴り、私は体を起こす。毎年そうなのだが、私が起きるころには既にばあちゃんが朝食の準備をしてくれている。昔から疑問だった。あの人いつ寝てるんだろう。負けてられない。「おはよう!準備してくるわ!」と、空元気いっぱいの挨拶をする。
 1人になった私は空元気を解除する。自分の軟弱ぶりを恥じる。「ねみ~」などと、何にもならない独り言をぶつぶつ呟いていると、徐々に親戚が集まってくる。「おはよう。朝からえれえもんじゃな。」彼らの挨拶は眠気を感じさせない。みなさっぱりとした顔をしている。6時には朝ごはんを食べ始める。最年少の私にはさまざまな話がふられ、「相変わらずおめえはなに考えとるか分からんのう」と、一度は言われることになる。ごめん。
 毎年のことなので各々がなんとなく自分の役割を自覚しており、それに従って動き始める。次になにをすれば良いのか途中で分からなくなって周りに質問を繰り返してしまうのは、最年少かつ物覚えの悪い私ぐらいのもの。ベテラン同士による阿吽の呼吸を乱す若造、それが俺。
 それでも私が作業を手伝うと、みんな嬉しそうな顔をしてくれる。たぶん、私がいないほうが早く終わるのではないかという気がするのだが「おかげさまで、はよお終わったわあ」と、それぞれが声をかけてくれる。温かい気持ちになる。
 隣の田んぼでは、小学校の時の友達が私と同じように手伝いをしている。ふだんそれほど会わない友達だから、実はけっこう貴重な時間。そいつと昔のことや今のことについてお喋りする時間は心地良い。ならもっと頻繁に会えば良いのに。それは違う。田植えや稲刈りの時にだけ話す関係だから、これだけ心地良いのだと思う。
 「終わってみるとたいしたことねかったのお」と我らがボスであるじいちゃんが言う。夜ご飯を食べた後に解散する。例によって最年少である私は後片付けの担当。みんなが帰った後にじいちゃんばあちゃんと少しだけ話をして、私も家に帰る。
 車に乗って窓からバイバイしたあと、私は急に、アイスコーヒーが飲みたくなる。モスバーガーかドトールかで迷った結果、ドトールを選択。アイスコーヒーのLサイズを頼んで、バッグから小説を取り出す。村上春樹さんの『1973年のピンボール』。至福の時間。
 結局のところ私は、小説を読むのが心の底から好きなのだと思う。前からうすうす感じてはいたのだが、最近はそのことをいよいよ確信するようになった。大江さんの小説も、村上さんの小説も、どちらも大好きだ。『万延元年のフットボール』も『1973年のピンボール』も、どちらもとっても大切な小説。至福の時間をありがとう。ただ、大江さんの小説と村上さんの小説では、それぞれが与えてくれる至福の時間の性質が異なる、とは言えるのだろう。どういうことだろうか。

 大江さんの小説世界は「意味」に満ちている。そのあまりの充溢に、苦しさを感じることすらある。大江さんの小説を読んでいる「いまこの私」とは、いったい何者なのか。そういう根源的な自省を強いられる。
 手垢にまみれた話ではあるが、そもそも文学とは、人間の固有性を扱うジャンルである。「意味」をとことん掘り下げていくジャンルである。福田恆存という人が「政治は99匹の羊を扱うことができるが、文学はたった1匹の羊を扱うことができる」という旨のことを言っていた。政治の領域が常に取り逃してしまう個人の固有性、意味。文学はそれを拾い上げる。大江さんの小説も、その例に漏れない。
 対する村上さんの小説はどうか。大江さんの小説と違って村上さんの小説からは、個人の固有性や出来事の意味を、極限まで掘り下げていこうという強迫を感じない。良くも悪くも、人間や出来事が「記号」的に、たんたんと処理されていくような印象を受ける。大江さんの小説は意味の重さを扱う。反対に村上さんの小説は記号の軽さを扱う。
 しばしば言われるように村上さんの『1973年のピンボール』は大江さんの『万延元年のフットボール』のパロディである。このパロディが意味するのは「意味から記号へ」の転換である。「万延元年」という、その小説世界の中でとんでもなく重たい意味を持つ言葉が、「1973年」という、単なるのっぺりとした1つの数字へと、置き換わる。
 そのこともあって村上春樹という人は、これまで様々なかたちで批判されてきた。従来の文学の歴史を守ろうとする人たちからすれば、村上さんの小説はひどく軽薄なものに見える。「固有性」や「意味」という、人間にとって最も重要な主題を無視し、あくまでも記号的な戯れの中で日々を過ごす主人公。与えられた平和をのうのうと消費するな!私たちの世界にある悪の根源を直視せよ!文学とはそのためにある!そのように批判される。
 言わんとしていることは分かる。けれどもいささか単純に過ぎる、対立の図式に陥ってしまっているのではないか。そういう気もする。意味と記号、あるいは意味と数字という2項対立。この対立が前提とする世界観について、いまいちど考え直してみたい。

 暴力は人から固有性を奪う。意味を奪う。かけがえのないその人を単なる記号として、数字として処理しようとする。典型的なのがナチズムやスターリニズム時代の「収容所」のメカニズム。そこでは人は名前ではなく数字で呼ばれ、およそ人間的と呼ばれる活動の一切が許されない。無意味に暴力がふるわれ、無意味に命が奪われる。
 文学を含めた「文化」の営みはその記号的、数字的暴力に対してこそ、抵抗しなければならない。あなたたちが単なる記号として、数字として見てきた彼ら彼女ら、そして私たちには、1人1人固有の人生があったし、これからもある。私たちには名前がある。生きていく意味がある。その意味は絶対的なものだ。記号や数字に還元されてはならない。それゆえ例えば、文学は人間の悪を記録するし、博物館は戦争の悲惨さを記録する。匿名的で無意味に傷つけられた私たちの生に再び、固有の意味が与えられることになる。
 なるほど。このような意見に私は100%同意する。じっさい私はしばしば過剰なほどに、自分自身や他人の中に、何らかの固有性や意味を見いだそうとしてしまうから。けれどもそのことは、私がいつも「固有性」や「意味」だけを求めている人間である、ということを意味しない。私は時に「記号」的・「数字」的に他人を見たいと思ってしまう。また、自分自身がそのように見られたいとも思ってしまう。なぜだろうか。

 稲刈りの最中、私は自分のルーツについて考えさせられる。誰でも参加できるものではない。私が手伝うことができるのは、私がこの家の一員として生まれたからだ。この家で、この田んぼの近くで育ったからだ。ほかに替えのきかない、固有で唯一の風景。みな私を固有の人間として扱ってくれる。じいちゃんばあちゃんの家には歴史がある。その固有の意味、その痕跡を、至るところに見いだすことができる。
 しかし私は軟弱な人間である。そのような「意味」の過剰に、窒息してしまいそうになることがある。そういうとき、私はドトールに行く。ここでアイスコーヒーを飲むときの私は何者でもない。誰も私に関心を持たないし、私も誰かに関心を持たない。数あるお客様の1人。私は記号であり、数字だ。その心地よさ。
 記号化や数字化の暴力と私の生活は、決して無縁なものではない。記号や数字ばかりを追い求める世界の暴力と、固有性や意味ばかりを追い求める私の文学という対立。自分の生活を正確に振り返ってみると、その対立自体が疑わしいものであるように思えてくる。大江さんの小説と村上さんの小説の対立についても、同様に。
 記号化や数字化が悪なのは、暴力なのは、それらが人を殺してしまうからではないか。具体的に、人の命を奪ってしまうからではないか。収容所的な記号化・数字化の暴力と、ドトール的な記号化・数字化の暴力は、明確に区別されるべきなのではないか。「固有性・意味」と「記号・数字」の2項対立ではなく、「固有性・意味」と「人を殺す記号・数字」と「人を殺さない記号・数字」の、3項鼎立で考えるべきなのではないか。

 東浩紀さんは「悪の愚かさについて」という文章の中で「団地的」という言葉を何度か用いている。東さんにとってもまだアイデアの枠を出ないもので、そこにはっきりとした定義が与えられているわけではない。しかし「団地的」とは、先ほどの「人を殺さない記号・数字」化の、象徴的な表現ではないか。そのように私は理解している。
 収容所と団地は似ている。どちらも人を大量に収容し、番号で管理する。両者の写真を見比べても、それらの見た目は驚くほど良く似ている。けれども目的が異なる。前者は人を殺すためにあり、後者は人を生かすためにある。収容所は悪であるが、団地は必ずしもそうではない。
 このような言い方ができるものは、他にもたくさんある。軍用に使われていたコンピューターは悪だが、いまのコンピューターは必ずしもそうではない。原爆は悪だが、原子力の「平和利用」は必ずしもそうではない。国民国家間の戦争のために使われていた統計学(stateの学)は悪だが、今のビジネスや学問で使われる統計学は必ずしもそうではない、など。前者と後者はどこまでが連続するもので、どこからが切り離されるものなのか。少なくとも言えることは、両者はその目的が異なる、ということである。「大量の人々を殺すため」から、「大量の人々を生かすため」へ。
 日本で戦争があったのは戦前のこと。たくさんの人が死んだ。たくさんの人を殺した。その反省から戦後の日本は「平和国家」を名のり、その実現を目指してきた。戦争で培われた技術やノウハウを温存しながら、それらを「平和」のために利用しようとしてきた。その結果、戦後ではたくさんの人々が生きていくことができた。一種の比喩として言うと、戦前の収容所は、戦後には団地となった。
 戦争は人を記号や数字に変える。資本主義も人を記号や数字に変える。だから戦争と資本主義は同じ暴力性を有する。それらに反対する「文化」的な人たちは、それぞれの人間や出来事が持つ、固有の意味のほうを擁護しようとする。都市的な記号の世界にうんざりした人は、田舎的な意味のコミューンを回復しようとする。
 その2項対立の外部はないのだろうか?記号化・数字化の肯定的な意味というものは、どこにもないのだろうか?いくらかの後ろめたさを感じつつも、やっぱりそんなものはどこにもないのだと、言い続けなければならないのだろうか?そのことが「文学」の担うべき、唯一の使命なのだろうか?

 大江さんの『万延元年のフットボール』を読むたびに私は、いまの日本の「意味」の希薄さ、すべてがなんとなくで、適当で、流動的な社会のあり方、そして自分自身のあり方に対して、深い絶望の念を抱く。令和に希望はない。万延元年に戻るしかない。そういう諦念が生まれる。
 村上さんの『1973年のピンボール』に『万延元年のフットボール』のような絶望はない。ドトールのアイスコーヒーの飲みやすさと同じくらいには読みやすい。スーっと読める。読んだあと、頭にズッシリと何かが残るかと言われれば、特に残らない。
 この、特に何も残らないということ。そのことについて、考えなければならない。それは大江さんの小説を読むことだけでは、決して見えてこないタイプの問いだ。何も考えずに、しかしそれでもたくさんの人が生きていけるということ。それが良いことなのか、悪いことなのかも含めて。それが戦争的なものとどこまで近いもので、どこまで遠いものなのかも含めて。
 私たちから生きる意味を奪ったままで、私たちを大量に生かし続けるいまの記号的・数字的な平和国家。この日本の在り方に賛成するのでも反対するのでもなく、まずは考えてみること。毎日の生活の「意味」を回復するとは、そもそもどういうことなのか。記号的・数字的に生き延びるとは、そもそもどういうことなのかを、過度な抽象化を避けながらも、考えてみること。もう「万延元年」には戻れない。戻る希望すら持てない。そんな私たちの時代を反映した「文学」。とは何か。


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