私の憲法9条

 いま週に1回地元の友達と、とある資格試験に向けて勉強している。今日、新年に入っての第1回を無事に終えた。
 当初はもう少し高い頻度で、と思っていたのだが、お互い仕事もあるしプライベートもあるしということで、結局はいまぐらいの頻度に落ち着いた。瞬間瞬間の盛り上がりよりも、長期的な持続性を重視した結果だ。もうすぐ1年がたとうとしている。
 もともと俺は、誰かと一緒に勉強するということに信頼を置いてなかった。まあせいぜいが15分程度のもので、そこを過ぎれば、勉強とは何の関係もない無の雑談が始まるに違いない。それはそれで良い。友達と無の雑談をすることくらい楽しいことはない。良くないのは、その無の雑談時間を「勉強時間」に換算してしまうことだ。あくまでも雑談は雑談、勉強は勉強。雑談は誰かとするもの、勉強は1人でするもの。
 そんな俺がいま、友達と一緒に勉強している。なぜだろうか。いくつかの理由が考えられる。体力と気力の衰え、それに伴うモチベーション維持の困難。そう言ってしまえばもともこもないのだが、ここではあえてもう少し、年始ということもあり(?)、感傷的に、ロマンティックに、長めの文章で、その理由について、考えてみたいと思う。
 
 勉強には大きく2つの種類がある。1つは受験勉強的なもの。1つは受験勉強的ではないもの。基準を受験勉強に置いているのは、なんだかんだで世の中で「勉強」と呼ばれているもののほとんどが、「受験勉強」の形式に寄ってしまっているように見えるから。
 あるルールの体系の中でいかに効率的に知識を蓄え、それらをアウトプットするか。煎じ詰めればほとんどの勉強は、そのことの繰り返しでしかない。そう言えば悪いことのように聞こえるかもしれないが、むろんそんなことはない。受験勉強はときに、人を自由にしてくれる。
 しばしば言われるようにペーパーテストの良さは、その扉がどんな人に対しても開かれていることにある。どんなバックグラウンドを持つ人であっても、受験勉強という1つのルールの中で高い点数をとることができれば良い。それだけで、良い。
 私自身も、受験勉強の恩恵を多大に受けている。私が大学に行けたのは、受検勉強のおかげだ。私に勉強の楽しさを気づかせてくれたのは、受験勉強の扉が、万人に開かれていたおかげだ。
 しかし、受験勉強の後でさらに勉強し続けた人の多くは、最後、受験勉強的なものを否定するようになる。そういう光景を、よく見かける。あんなものはほんとうの勉強ではない、勉強とはもっと豊かで、形式に縛られない、自由なものなのだ、と。
 そのような勉強に出会う重要な1つの契機が、読書である。読書は、受験勉強的なものの更に外側を、見せてくれる。確かにある外側の世界へと、人びとを開き、導いてくれる。読書はときに、人を受験勉強から自由にしてくれる。
 受験勉強に問題があるとすれば、それは受験勉強の閉鎖性にある。受験勉強は、人の関心を社会へと向かわせない。政治へと向かわせない。科目としての社会や政治へは、向かわせることができるのかもしれないけれど。
 対して読書はその閉鎖性を壊す。点数や形式のゲームを越えた自由な場所で、人に何か大きなものごとについて考えさせる力を、読書は持っている。
 唐突なカミングアウトになるが、私の関心を、閉じた受験勉強のゲームから離脱させ、開かれた社会の問題へと向けさせてくれた最初の本が、いわゆるネトウヨ本であった。まったくもって皮肉な話である。ため息が出るような話だ。

 ここにはさまざまな問題がある。が、まずは極めて単純な問題に絞る。それは、地方書店の品揃えの薄さだ。
 小説は豊富である。だから受験勉強の片手間に、例えば安部公房さんや三島由紀夫さん、例えば村上春樹さんや村田沙耶香さんの文庫本を、買って読むことができていた。
 けれども小説「以外」の本はぜんぜん豊富ではない。地方のさらに地方にあるような本屋さんに行ってみると一目瞭然。大学の先生たちが「マトモな本」と呼んでいるような本たちは置かれていない。例えば岩波文庫なんて、100%置かれていない。
 そのような言い訳を盾としつつ、かつての私はネトウヨ本を手にとった。それが、百田尚樹さんと石平さんの『カエルの楽園が地獄と化す日』という対談本だった。
 そこでの「カエルの楽園」とは戦後の日本のことを意味している。与えられた平和憲法にしがみつき「この平和憲法さえあれば私たちは戦争しなくても良い!」と口をそろえて言う人たちから成る国。百田さんは『カエルの楽園』という小説の中で、そのことを分かりやすく風刺した。
 百田さんはそのような平和、つまり「憲法9条」によって支えられてきた平和なぞ嘘である、と断言する。日本を打ち負かした米国から押し付けられた憲法をありがたく抱きしめ、その庇護の下でぬくぬくと生き抜いた戦後の日本を「平和だった」などと言うことは「日本人」としての矜持が許さん、と百田さんは言う。
 何より9条には「一切の戦力を放棄する」という文言があるが、我が国の有する自衛隊の、いったいどこが「戦力」ではないと言えるというのか?
 一方で戦力を持たないと公言しておきながら、他方では戦力を粛々と持ち続ける。このような二枚舌から、私たちは脱却しなければならない。私たちの国は堂々と戦力を持てる国へと、変わらなければならない。そのために必要なのは「憲法改正」である、とまあ、このようなわけである。
 敗戦というショックは日本のかたちをゆがめた。いびつなものにした。そのゆがみはあちこちに見られる。憲法9条の問題はその典型である。ゆがみを取り去り、私たちの国を筋の1本通った「まっすぐ」な国にするためには、憲法の改正が急務なのだ。イデオロギーへの免疫を全く持たなかった当時の私は「そうなんだ!」と素直に、まっすぐに、その本の中身を受け止めてしまっていた。

 大学入学後もしばらく、なぜだかは知らないが「憲法9条」についての本を、ランダムに読み進めていた。
 あるタイプの学者から見ると、百田さんのような意見は、取るに足らない愚かなものでしかないのだ、ということはよく分かったのだが、そういうことを抜きにして、純粋な主張の中身だけを見てみた時に、少なくとも憲法9条の問題に限れば、百田さんの言ってることがはっきり間違っていると思うことは、どうにも難しく感じられた。百田さんの主張に対してさまざまな反論をぶつけたとしても、それでもなお、現行憲法と現実の「矛盾」の問題は、最後まで残るように感じられた。そんななかで心底なるほど、、、と思えたのが、内田樹さん編著の『9条どうでしょう?』という本だった。
 内田さんと百田さんは1つの前提を共有していた。一般的に内田さんは左翼/リベラル、反対に百田さんは右翼/保守とレッテルが貼られることが多いにもかかわらず。
 その前提とは「戦後の日本はゆがみを抱えている」という例のやつである。憲法では戦力の放棄を謳っておきながら、現実には自衛隊という明確な戦力を有している、そのゆがみ、矛盾。
 内田さんは、そのゆがみが確かに存在することを素直に認める。憲法が言うところの戦力とは実は~とか、自衛隊は実は戦力とは言えない~みたいな頭の良いことは言わずに。
 その上で、内田さんは百田さんとは違う道を選択する。内田さんは、百田さんのように、国のかたちをまっすぐに正そう、というような道を採らない。そのように、自分の複雑なアイデンティティを無理矢理にまっすぐなものへと叩き直したい、そうでなければ気が済まない、などというのは「子ども」の発想であり、成熟した「大人」の発想とは、むしろそのような矛盾を矛盾のままに耐え、受け入れることのできるようなものでなければならない、と内田さんは言う。
 この内田さんの主張は、当時の私にとって驚くべきものであった。百田さんの主張は、矛盾は良くない、矛盾をまっすぐなかたちに作り直さなければならないという大前提の上に、成り立っていた。その大前提があったからこそ、百田さんの主張はある意味で強固で、反駁し難いもののように思われた。
 内田さんはそのような前提への拘りを、大人が子どもを見守るように温かく眺め、そうではない別の見方を、クールに提示して見せる。矛盾を矛盾のまま受け入れることこそが、成熟した大人がとるべき態度なのだ、と。一貫性を重視する主張たちの競争から、一貫性を重視する主張と、矛盾を重視する主張の対立へ。そもそもの問題設定のあり方を、内田さんの文章は大きく変えてしまった。

 「政治」という言葉から「アイデンティティの政治」を連想する人は、一定数いるのではないかと思う。少なくとも私はそうだ。ただし、ここでの「アイデンティティ」の主体とは、いわゆるマイノリティに限られたものではない。
 マイノリティ/マジョリティの区分に関係なく、いま多くの人びとは「私」の問題として政治を考えている。その中には、政治が提供してくれる大きな物語によって、私の問題を覆い隠そうとするようなケースが存在する。
 それこそ「ネトウヨ」がその典型である。じっさい、そのような分析はたくさんある。金はあるけどモテない中年男性にネトウヨが多い、とか、孤独に悩む人がつながりを求めてネトウヨにはまってしまう、とか、いずれにしてもネトウヨの問題は、まじめな政治思想やイデオロギーの問題と言うより、もっと手前の個人の問題、アイデンティティの問題として、捉えられることが多い。
 私は個人的に、ある政治的な主張をする人に対して「あなたって友達いなさそう」とか「暇なんですね」みたいなことを言い返す態度は、決してとるべきではないと思っており、ネトウヨの問題をもっぱら個人の問題へと還元してしまう論法は、そういう態度へと接近してしまう可能性があるという点で、あまり好ましくないものであると考えている。
 当然のことながら私たちは、政治思想のコマとして生きているわけではなく、ひとりひとり固有の人生を重たくも引き受け、生きている。それゆえネトウヨにはまる人に対して「寂しいんですね」などと言って何かを分かった気になるのではなくて、その人がネトウヨ的なものに惹かれてしまうことになった必然性を、丁寧に繊細に、辿ってやるべきであると、私は考えている。

 憲法9条を含んだ「戦後」の問題とは、言い方を変えれば「手のひら返し」の問題であった。「裏切り」の問題であった。
 鬼畜米英から平和憲法万歳へ。神としての天皇から人間としての天皇へ。お国のために命を捧げた人たちの魂の上に乗っかって、なにごともなかったかのように、かつての敵国と、仲良く暮らしていけている私たち。そのことを直視し続けた人もいるのだろう。その意味で三島由紀夫さんは、確かに「ケジメ」をつけた人なのであった。
 そのような「裏切り」の問題が、当時の私を惹き付けてやまなかった。
 私は友人のことを裏切った。中学生くらいになれば、自分の家が大学に行けない家であるということが、うっすらと分かってくる。そういう人同士は自然と寄り合うようになる。お互いの傷を、なめ合うようになる。羨ましさを決して表に出さないようにしながら、勉強熱心なクラスメイトたちを嘲る。「大学なんて行っても無駄だよなあ~」などと言いあって。何も知らないくせにね。
 そんな私は、幸運に恵まれ、唐突に、大学に行けるチャンスを得た。あれだけバカにしていた大学に、結局、私は進学した。私だけ。1人だけで、救われようとした。受験の閉じられた公平性に、すべてを賭けて。
 かつての友人とは疎遠になっていく。合わせる顔がない。裏切りもの、と言われるのが怖かった。楽しそうにしているさまを見られたくなかった。
 自分の分裂をどのようにして、筋の通ったものへとつくりなおすか。あるいは、分裂を分裂のまま、矛盾を矛盾のままで受け入れるためには、何を、どのようにすれば良いのか。そういうことを、当時の私は、しつこく何度も、とても不器用な仕方で、考え続けていたのだと思う。
 互いの傷をなめ合っていたかつての友人と、成人式で再開した。そいつは会って開口一番に「おめえが行っとる大学について調べたけど、がちですげえな!どんだけ勉強したんやおめえ。やっぱ英語ペラペラ?」と言った。あの明るさを、私は一生忘れないだろうと思う。笑顔のままで、困惑していた。次の瞬間、泣きそうになっていた。
 その後の同窓会で久しぶりにゆったりと、お互いの近況について報告しあった。向こうはあまり状況がよろしくなさそうだった。私はとっさに「受験勉強」をそいつに勧めていた。高校や大学は、いつからでも行き直せる。資格試験だって、いつからでも受けられる。「受験勉強」は、人を自由にしてくれる。そこまで言い終えた後、私は気づいた。あ、俺、久しぶりに受検勉強のこと褒めてるな、と。

 私が「憲法9条」の問題から「卒業」したきっかけは、加藤典洋さんの『戦後入門』という本だった。ちくまから出ている新書なのだけど、確か600ページくらいの分量だった気がする。とにかく分厚い。この分厚さでよくもまあ、「入門」書を名乗れるもんだなと思いながら、なんとか読み終えることができた。
 あとがきで加藤さんは「この本のタイトルには、他でもない私自身がもう一度、戦後に『入門』しよう、『入門』したい、という思いが、込められています」という旨のことを述べていた。なんて素敵なあとがきだろう、と私は思った。そしてそういう理由ならば、これぐらい分厚くなるのもやむをえないことだな、とも。
 加藤さんが本のなかで強調していることの中でとりわけ印象的だったのが、第2次世界大戦における米国という加害者の心理は、一般に思われているよりも、はるかに複雑なものであったということ、そして憲法9条が掲げる「平和」は、当時の日本国民を含めた一般の人たちが心の底から希求していた、切実な理念であった、ということだった。
  憲法9条は、敗戦直後に急ごしらえで米国によってつくられ、日本へ一方的に、押しつけられたものではなかった。例えば、1941年の大西洋憲章には、憲法9条と見間違えるかのような、戦力の放棄と平和への希求の文言が、日本がどうのこうのとは関係のない、中立的な理念として、提示されている。憲法9条は、当時の戦争で疲弊し、ぼろぼろにされた多くの人たちが、意識的にか無意識的にか望んでいた、世界史的、普遍的理念の、1つの結晶のことだったのだ。
 当時の日本国民も、その例に漏れなかった。やられたらやり返す、そしてまたやられたら…の応酬に、当時の人びとは心底うんざりしてきた。そのような復讐の連鎖から抜け出すためには、目の前の相手に向き合うのではなくて、少し離れた場所にある第3者的な「理念」に、訴えかけるしかなかった。
 憲法9条に対する批判として「そんなものはお花畑で、現実にモノを見ていない発想」というものがある。ほかにも「中身のない、形骸化した建前に過ぎない」というものも。
 しかし、ほんとうにそうだろうか?具体的で、切迫した状況で、やむにやまれぬ思いから、どこか宙に浮いているような、しかし強靭で、肉声の込もった「理念」が求められるという「現実」も、私たちの歴史には、あったのではないだろうか?
 そのような理念の形骸化を加速させているのは、当時の日本でも米国でもなく、理念がもつ具体性を無視し続ける、現在の私たちなのではないだろうか?私たちは、理念を信じるということでしか、加害と被害の2項対立から抜け出ることが、できないのではないだろうか?
 第2次世界大戦の最中に求められた理念のあり方は、その後の冷戦構造という予期せぬ国際情勢にのみ込まれ、ゆがめられてしまった。その結果、日本を含めたいくつかの国は、その内側に解決困難な矛盾を、抱え込むことになった。それは、確かにそうなのだと思う。
 けれども、そのことが直ちに、当時の人たちが求めたまっすぐな理念の訴えを、失効させることになるわけではない。私たちは、理念を理念たらしめる具体性をいつまでも記憶するために、理念が生まれた起源へと、常に、遡行し続けなければならない。理念に宿る祈りの声を、後から、冷静な眼差しを以て、かき消してはならない。そう、私は思ったのだった。
 私は、加藤さんの、この「入門書」を読み終えた時、憲法9条の問題から「卒業」することができた。少なくとも「私個人」の問題として、憲法9条について考えることについては、一段落をつけることができた。自分の中の重要な価値観が、いったいどういうものであるかを、良いか悪いかは置いといて、しっかりと認識することが、できるようになったから。

 去年の始め、かつての友人が「資格勉強」をしたいと相談してくれた時、私は彼のことを放っておくことができなかった。私の助言を、そいつは何年間も、覚えてくれていたのだ。私は今度こそ、そいつと一緒に救われたいと、ヒロイックな義憤と感傷に浸りながらも、思ったのだった。
 自分で言うのもなんだが、私はだいたいのことにおいて、最初の1歩を踏み出すのが極端に遅く、そのせいで周りに迷惑をかけてしまったケースには枚挙に暇がないが、同時に、いったん最初の1歩を踏み出してしまえば、後先のことはまったく考えず、ずんずん前へと進もうとしてしまい、そのせいで周りに迷惑をかけてしまったケースもまた、枚挙に暇がない。
 そんなこんなで去年はたいへんに忙しく、疲れはててしまっていたのだが、年末に東京の友人たちに会いに会いに会いまくった結果、とても良い刺激と養分をもらうことができ、今年を勝負の1年とする覚悟を持つことができた。
 私の中に長年くすぶっているわだかまり、かっこよく言えば「理念」を、現実のものとした後で、ようやく私は、自分自身の人生を生きられるようになるのではないか。そのようなことを、半分冗談の半分本気で、信じている。


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